第64話 悪路を往く
「ごちそう様でした」
「お粗末様でした」
吉乃が帰ろうとするのを引き留め、せっかくだからと夕食に誘った。
彼女には遠く及ばないが響樹も料理を一般的なレベルで作る事はできるので、今までのお返しを少ししておこうと思った。もちろんそれ以外の理由もあるが。
「でも、響樹君はちゃんと料理ができたんですね」
「何度も一緒に買い物しといて今更か?」
食事中は「美味しい」と言ってくれていた吉乃だが、食べ終えた後はくすりと笑いながらそう口にした。
実際一口目を食べた時にも少し驚いたような顔もしていたので、これは割と本心に近い発言なのだろう。
「それはそうなんですけど、男子ですし、あまりそういう姿が想像しづらい面もありました」
確かに吉乃に食事を振る舞うのは初めてである。
試験後は至れり尽くせり状態で世話になっていたし、昨日の勉強会も吉乃が弁当を作って来てくれていた。
「でも、エプロン姿も可愛かったですし料理も美味しかったので、響樹君もしっかり料理ができるんだなと」
「男子は可愛いって言われても嬉しくないんだぞ」
「嘘が吐けない性格をしていますので」
「嘘つけ」
普段一人でいる時には滅多に着ける事はないのだが、吉乃の前だからと使用したらこれである。
ただただシンプルな物であるのだが、それでも自分に似合わない事は重々承知している。しかし吉乃が言うには、まあそこそこ似合っていたらしい。その辺りが嘘でない事は響樹にもわかった。
「とりあえず洗い物は帰って来た後でするから、遅くならない内に送ってく」
「はい、ありがとうございます」
これ以上深追いすると精神的に火傷をするような気がしたので吉乃を促す。
もう少し一緒にいたいとは思うのだが、流石に外はもう暗い。何をするつもりもないが、一人暮らしの男の部屋に女性である吉乃を長居させるのも非常識であるし、勉強道具を持って来ていない彼女の時間を奪う事も避けたかった。
「忘れ物は無いか?」
「子ども扱いしないでください」
コートとマフラーを身に着けてバッグを持った吉乃に尋ねてみれば、彼女はそう言って頬を膨らます。
「ただの定型句だろ」と応じながら靴を履いてドアを開けると、黒い背景に白い何かが無数に映り込んだ。
「雪ですね」
玄関の扉を抑える響樹の背後からひょこりと顔を出し、吉乃が透き通った声で目の前の自然現象の名を告げる。
雪、響樹の記憶によれば今年二回目。幸いに風は無いが、降雪はそれなりの量だ。このまま続けば明朝には少し積もるかもしれない。
「予報で言ってたっけ?」
「いえ、今日は天気は崩れないと言っていましたね」
という事は吉乃は傘を持っていないだろう。提げているバッグは小さく、あれに入るようではあったとしても子ども用の折り畳み傘くらいなものだ。
「あー。傘一本しかないんだけど……」
吉乃を家まで送って行きたいところではあるのだが、そうしようとすると必然発生する行動があり、言葉を濁してしまう。
吉乃はというと、玄関脇の黒い傘に視線を向け、その後で響樹を見上げた。何かを企んでいるような、そんな楽しそうな笑みだった。
「初めて話した日、響樹君は傘が二本あると言っていましたね。もう一本は壊れてしまったんですか?」
言われて思い出すが、吉乃に傘を押し付ける際にそんな事を言ったような気がする。のだが、今更嘘でしたというのも何となく癪で誤魔化しの言葉が口を衝く。
「そんな事言ったか?」
「ええ。なのでてっきりもう一本を隠してあって私と一つの傘で歩きたいのかと思っていました」
「なっ……そんな訳、無いだろ。傘は一つだけだ」
吉乃がからかうように口にしたのは半分だけ図星を突く言葉。
あからさまな動揺を見せた響樹に対し勝ち誇ったようなにこやかな笑みを浮かべた吉乃が、「そうですか」と口にして傘を手のひらで示した。
「ではすみません、傘をお借りしてもいいでしょうか? 明日こちらに来る時にお返ししますので」
「送ってくよ……もちろん、吉乃さんが嫌じゃないならだけど」
「え……その、一つの傘で、ですか?」
送って行くか迷いはしたが、やはり吉乃を一人で帰すのは嫌だった。
先ほど自分でそれを口にしたくせに、目を丸くした吉乃は響樹と傘との間で視線を行ったり来たりさせている。
「恥ずかしいならやめとくか?」
実際に嫌がられるとは思っていなかった事もあり、いまだまごつく吉乃にからかうような言葉をかけてみると、想像の通りに彼女は口を尖らせた。
「恥ずかしいなんて事はありません。ただ、足元が悪いのに響樹君を往復させたら悪いなと思っていただけです」
「俺は構わない」
「それでは送って行ってください」
頬を染めながら黒い大きな傘を掴んだ吉乃が、両手に持ち替えて丁寧に響樹へと差し出す。
初めて話した日もこんなふうな事があったなと記憶が蘇り、笑みがこぼれた。
「ありがたく送らせてもらいますよ」
と、調子に乗って吉乃をからかってみたのはいいのだが、思った以上に恥ずかしい。
所謂相合傘という行為。二人でも入れるサイズの傘ではあるのだが、流石に普段の距離感では吉乃が半分ほどはみ出てしまう。だから今の距離感はたまに肩が触れ合うくらい。
クリスマスを思えばもっと密着していた訳だが、あの時は場の雰囲気というものが後押ししてくれていた。今は肩が触れ合うたびに体が強張ってしまう。
「響樹君」
「はい」
口元をマフラーで隠しながら目を細めた吉乃がこちら向き、優しい声で呼びかける。
思わず敬語になってしまい、吉乃がくすりと笑った。
「左肩に少し雪が積もっていますよ。私の方にはまだ余裕がありますからそちらに寄せてもらって大丈夫です」
「了解」
右手で雪を払った後で左手に持った傘を少し自分の方に寄せるのだが、歩いている内に吉乃の方に傾いていたらしく、「戻っていますよ」と彼女はまたもくすりと笑う。
「仕方ありませんね」
「ん?」
目を向けてみると視界に映った白く輝く吐息が霧散していき、吉乃が響樹を見上げて笑っていた。
そして次の瞬間右腕を押される感覚があり、二人の距離感が変わる。たまに肩が触れる、から、常に腕が接している、に。
響樹はよく吉乃の肌の白さを雪のようだと思っていた。しかし、今の彼女は傘の外でゆらめく雪とは似つかない色の頬をしていた。
「響樹君が濡れてしまうので仕方なくですよ?」
「……それはどうもありがとう」
少し首を傾けて笑う吉乃に、マフラーに口元を埋めながら二つの意味を込めて返す。
「歩きにくくありませんか?」
「俺は全く。吉乃さんは?」
「私も全くです」
優しい声の次に、今度は肩に少し重みがかかる。
「これは、歩きにくくありませんか?」
「全然。吉乃さんは?」
預けられた吉乃の頭を置き去りにしないように速度には気を遣うがそれは些細な事で、足元を少し不安にする雪も今はまるで気にならない。
足が軽い。きっと足だけではないのだろう。しかし――
「私は少し歩きにくいです」
「おい」
くすりと笑う声とともに肩から重みが離れた。軽くなったはずなのに、それが逆に重い。
「でも。今のようにして歩いてもいいですか?」
「ダメな訳ないだろ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいますね」
吉乃を送るいつもの道。
雪が降っている
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