第63話 彼女の唇が紡ぐ言葉

「響樹君」


 ファミレスに少し長居をしたせいもあってもう夕方に近い時刻、帰り道を並んで歩く吉乃が響樹の肘の辺りを摘まんだ。

 今日はこれが多いなと思ったのだが、ブーツを含めた僅かな身長差の分瞳を上向かせる吉乃が可愛らしいので響樹にとっては喜ばしい事だ。本来は。


 顔を向けると見えた吉乃の表情からは響樹を気遣う様子が窺える。

 店内では最初こそ似たような顔をさせてしまっていたが、その後は普段通りに戻っていたので安心していた。しかしやはり、吉乃がしてくれた心配が消えてしまった訳ではなかったのだ。


「どうかしたか?」


 響樹が努めていつも通りを意識して尋ねても吉乃の表情は変わらない。


「家に寄らせてもらっても構いませんか?」

「ああ、いいよ」

「ありがとうございます」


 ここでようやく吉乃の顔が少しだけ綻ぶ。


「ありがとう」

「どうして響樹君がお礼を言うんですか?」


 普段の調子を取り戻した吉乃が、少し眉尻を下げて笑いながら首を傾げた。


「吉乃さんが来てくれるのが嬉しいから? かな」

「響樹君はっ……またそういう事を」


 目を丸くして尖らせた唇を少しだけもにょもにょと動かし、吉乃はそんな口元を紺色のマフラーの中に沈ませた。

 少し恨めし気な上目遣いの視線だけが響樹に向くのだが、やはりそれが可愛らしい。



 自宅に戻り吉乃のコートとマフラーを預かってハンガーに掛け、自分のコートとマフラーも同様にして彼女の物の横に吊るした。


「コーヒーと紅茶どっちがいい?」

「では紅茶をお願いします」

「了解」


 キッチンに向かう前にポケットから財布とスマホを取りだして机に置こうとし、そこで通知がある事に気付く。

 海か優月から連絡だろうかと思って見てみると、メッセージではなくメールが届いていた。差出人の名前は、天羽真樹。電話を折り返すのをすっかり忘れていた、逃げていた相手。

 受信時間を確認すると電話の少し後で、何らかの用件があった事がわかる。流石に無視する訳にはいかずに指に無理矢理いう事を聞かせて開いてみると――


「響樹君?」


 内容を確認して大きく息を吐いたところで背後の吉乃から声がかかる。

 声色からもわかったが、振り返ってみると立ったままの吉乃は悲しささえ感じるほどに響樹の事を心配してくれていた。させてしまっていた。


「……ああ、ごめん。すぐ支度する――」

「いえ。それより先にこちらに来てください」


 いつも通りのように振る舞ってみたつもりだが、吉乃は真剣な顔で首を振り、響樹を招く。


「……ええと?」

「来てくれませんか?」

「いや……」


 わざとらしさは存分に発揮されていたが、悲しそうに目を伏せたところから上目遣いのような視線を送られては逆らいようがない。

 あと一歩分の距離までゆっくりと近付いたが、吉乃は「もう少しです」と響樹を促す。そして響樹にとっての少しの幅を詰めるのだが、まだ「もう少し」らしい。


「まだ遠いですけど、今はこれで良しとしておきます」


 意識しなくても吉乃の少し甘い香りが漂う三十センチほどまでに近付くと、彼女はそう言ってふふっと笑い、まっすぐに響樹を見つめた。


「先に言っておきます。響樹君が言いたくない事を無理に聞こうとは思いません。響樹君が言わなくても、私がそれに対して悪く思う事はけっしてありません」

「何を……」

「それから、少し卑怯な聞き方をします。いいでしょうか?」

「……それにしてはだいぶ堂々としてるな」


 表情を崩さぬままで僅かに首を傾げた吉乃におどけてみせると、彼女はくすりと笑って「ええ」と頷いた。


「いいよ。吉乃さんがする事なら、俺は何でも信じるから」

「……響樹君の方が卑怯ですね、そういう言い方は」

「どこがだよ」


 ほんの少し熱を帯びた頬の吉乃はそれを隠そうと首元に触れる仕草をするのだが、そこにマフラーは無い。それが一層彼女の頬を朱に染める。

 その次に待っているのは恨めしげな上目遣い。やはり何よりも可愛いのだと再認識するのだが、そんな吉乃に多大な心配をかけている現状で、ただそれを喜ぶ事は出来なかった。


「響樹君は、目付きが鋭いのでそういう辛そうな顔が映えますけど、似合いませんよ」

「……どっちだよ」


 今の表情の事を言っているのだろう。吉乃は自分の両目の下に人差し指をあてがい、優しく笑いながらほんの少しだけ目尻を下げてみせた。


「私、響樹君の目が好きです。鋭くて力がありますけど、とても優しい響樹君の目が大好きです」

「なっ……」


 いつものからかうような笑い方ではなく、とても優しい笑み。それが響樹の心拍を一瞬で跳ね上げる。

 もちろんわかっている。吉乃が言及したのはあくまで目についてだ。しかしわかってはいても、彼女の唇が紡ぐその二文字の破壊力は絶大だった。


「私では響樹君の支えになれませんか? 力不足ですか?」


 ふっと息を吐いた吉乃が表情を変え、その視線はまっすぐに響樹を射抜く。


「私は響樹君に支えてもらいましたし、今でも支えてもらっている自覚があります。だから、できるのなら響樹君の支えになりたいです」

「……うん。ありがとう、吉乃さん」


 少し頭を振り、響樹は覚悟を決めるべく深呼吸を一度した。のだが、甘い香りが集中を乱し、そんな自分がおかしくて笑いがこぼれた。


「まあ、簡単に言うと俺は親と折り合いが良くないんだ」


 本当はあまり吉乃に言いたくはなかったし、詳細に話すつもりは無い。彼女の方は折り合いが良くないという以前の問題なのだから。

 しかし吉乃は、そんな響樹の懸念とは裏腹にただただ真剣な表情で響樹を見つめてくれていた。


「で、昼の電話は珍しくその親からだった。今のメールもそれ。呼び出しがかかった」

「呼び出し、ですか?」

「と言っても会う訳じゃないけど。明日実家の大掃除に業者手配してたらしいんだけど、親が戻って来られないから立ち会えってさ。それだけ。前日に、急だよな」


 メールの内容を見た時、少し、いやだいぶホッとした。

 無いとは思っていたが、年末だから帰って来るという連絡だったらどうしようかと思っていたので拍子抜けしたほどだ。


「だからまあ、心配かけて悪かったんだけど、今日のところは大丈夫。ごめん、ありがとう」

「それでは明日は実家に戻るんですね」

「ああ。勉強会は悪いけど――」

「いえ、それは気にしないでください」


 頭を下げようとした響樹の言葉を遮った吉乃は少し目を伏せ、考えるようなそぶりを見せた。

 そして顔を上げ、珍しくおずおずと口を開く。


「私もついて行ったらダメですか?」

「ダメじゃないけど……する事無いと思うぞ?」

「それは響樹君も一緒ではありませんか? 二人の方が時間も効率的に使えますよ。勉強道具を持って行ってもいいですし」


 響樹が「ダメじゃないけど」と口にした瞬間から吉乃の表情は変わり、今では同行する気満々のようである。

 昼食の問題や、まだ実家にいた頃業者の清掃に立ち会った経験などを提示し、吉乃は自分を連れて行くメリットをこんこんと語る。


「わかったよ。是非一緒に来てくれ」

「はいっ」


 根負けしたような態度を取ったが、吉乃が同行してくれる事は素直に嬉しい。

 両親に会う訳でないとは言え、少し気の進まない道程になる事は事実だったのだし、何より吉乃と連日出かけられる事が嬉しい。


「俺の部屋辺りを先に掃除してもらってそこで勉強でもしてるか」

「ええ。お弁当を作っていきますね」

「前半と後半繋がってなくないか?」

「そんな事はありませんよ」


 そう言ってふふっと笑う吉乃の笑顔が、響樹の心にあった重みを全て消し飛ばしてくれた。

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