第57話 敵に塩を贈り合う
吉乃と約束した勉強会は響樹の家を会場にする事にした。
吉乃に出向いてもらうのは少し気が引けたのだが、女性の家に何度も上がり込むのもどうかと考えた事と、お邪魔したらしたでそのたびに歓待を受けてしまいそうだとも思った事が理由だ。
「それではまた明日」と、昨日そう言って別れた吉乃が響樹の家を訪れたのは約束通り彼女の登校時間とほぼ一緒だった。
冬休みでも学校でするのと同じように勉強を習慣づけておこうという互いの考えが一致した結果である。
そうして始めた勉強会、昨日一昨日と頭の中の吉乃にだいぶ集中力を乱されたものだが、今日目の前にいる吉乃は逆に響樹のやる気を刺激してくれる。
吉乃の部屋ほどではないが響樹の部屋の防音性能も中々によく、隣人が在室なのかどうかすらわからない。あとは精々自室の空調機から音がするくらいで、響樹の耳は吉乃が勉強する音をしっかりと捉えられた。
テーブル上には勉強道具の他に飲み物と吉乃が焼いてくれたクッキーが置かれており、時折それに手を伸ばすと彼女はそのたびに嬉しそうな微笑みを見せる。
そして今回も同じく優しい笑みを見せた。違うのは読んでいた教科書を閉じた事。
「少し休憩にしますか?」
「吉乃さんのキリがいいなら」
「私は今教科書を読んでいるだけですので、構いませんよ」
「それじゃお言葉に甘えて」
閉じた教科書をテーブルから下ろした吉乃に倣い、響樹もノートと問題集を閉じて自分の横に置き、クッキーを口に放り込んだ。
「美味い」
「ありがとうございます、響樹君」
「こっちのセリフじゃないか?」
勉強中には口にできなかった言葉を口にすると、吉乃が僅かに頬を緩める。
「私のセリフでもありますので」
「そうか。じゃあまあ俺からも。ありがとう、吉乃さん」
「どういたしまして、響樹君」
やわらかな笑みを湛えた吉乃の顔を見るだけで、先ほどまでの集中力はすぐに霧散して意識が休憩へと切り替わった。
吉乃との勉強で効率がいいのはきっとこういう部分もあるのだろうと、今更ながらに悟る。きっと今までも、気付かなかっただけで彼女の笑みに精神的な疲れを癒されていたのだろう。
「やはり響樹君と一緒だと勉強が捗ります。休憩時間もこうやって話す事ができますし、本当にお願いして良かったです」
「それこそこっちのセリフだな」
飲み物に口をつけて文字通り一息ついた吉乃は少しだけ体の力を抜いたように見えた。そしてそれは響樹も全く同じで、少し肩を上げ下げしてみせると彼女がふふっと笑う。
「敵に塩を送った事を次の試験で後悔させてやる」
「それこそこちらのセリフですね」
挑発するように笑ってみせると、吉乃も響樹からの視線を受け止めて少しだけ圧を感じさせながらニコリと笑う。
そしてしばらくその表情で顔を合わせ続け、全く同じタイミングで崩した。響樹はふっと肩を竦め、吉乃はくすりと口元を押さえて。きっと同じように面白かったのだと思うと、なんとも言い難い感覚が胸を占める。
何となくそのまま目を逸らせず、吉乃のこの上なく整った顔が真正面にある。雪原を思わせるほどの白い頬に温かさを覚えるのは何度目だろうか。
そうやって見つめ続けて何秒経っただろう。少しはにかんだような吉乃が顔の横を流れる綺麗な髪に触れ、僅かに首を傾けた。
「……吉乃さんは、それ、二年の教科書だろ? どの辺まで進んだ?」
じっと見ていた事は誤魔化しようがないが、吉乃がテーブルの横に置いた教科書を指差し、その理由は何とか誤魔化した。
「ひとまず全ての教科書に目は通しました」
「……まだ一年の十二月だぞ?」
事も無げに「ええ」と笑う吉乃だが、改めてとんでもない相手だと認識せざるを得ない。ひとまずなどとは言っているが、吉乃の記憶力ならば粗方頭にも入っているだろう。
一方響樹は理数科目以外はまだ一年の復習段階だ。高校一年生としては十分な進度ではあるが、響樹の目標はそこには無い。
「ん? でもその教科書地理じゃないか? 使うのか?」
「授業で選択するつもりはありませんけど、地理の知識があると世界史の理解度がだいぶ違いますよ。覚えておいて損はありません」
「そうなのか?」
そもそも受験で使わない科目の知識をしっかりと覚えておけるほど余裕のある学生がそうはいないだろうが。響樹の知る限りでは吉乃以外にそんな事をしそうな人物はいない。
「専門的には地政学という学問があるくらいに奥深い分野です。簡単に言ってしまっても、地形や気候といった条件は人々の生活、ひいては国の在り方、国と国の関わり方に大きな影響を与えます。わかりやすいところで言えば大河の恵みを受けて文明が発達したり、特に近代以前の海洋国家が他国からの侵略を受けづらかったりと言ったところですね」
「なるほど。そういうのを詳しく知っとくと歴史の理解度が違うのか」
「ええ」
吉乃はそう言って満足げに笑いながら頷いた。
「好きなんだな、そういうの」
「勉強に限りませんけど、新しい知識が増えると考え方の幅が広がります。だから、楽しいですね」
少し照れがあるのか僅かに頬を染め、吉乃はやわらかな笑みを浮かべた。
「以前の私はこんな事もわからずにいました。こうして色んな事が楽しいと思えるようになったのは響樹君のおかげです。ありがとうございます、響樹君」
やわらかな表情のまま、吉乃は響樹をまっすぐに見つめて頭を下げ、濡羽色の美しい髪を揺らす。
「俺も、吉乃さんのおかげで毎日が楽しい。ありがとう」
目を丸くした後で吉乃が見せた優しい笑み、「はい」と綺麗な唇の間から発された声に心臓の鼓動が早くなる。
何かを言わなければ、そう思ったのに声を出せずにいると思わぬところから救いの手が差し伸べられた。
「花村さんからメッセージが届きました」
「俺にも海から」
ちょうど同じタイミングで震えた二人のスマホには、それぞれの友人からのメッセージ。内容も同じで電話してもいいかという事らしい。
「二人とも一緒にいるんでしょうか?」
「だと思う。キッチンの方で電話してくる」
「わかりました。ありがとうございます」
立ち上がり移動して海に電話をかけると、すぐに応答があった。
吉乃の方も小声で話し始めたので優月の方もすぐに反応したらしく、やはりあの二人が一緒にいるのだろうとわかる。
『響樹、明日一緒に遊ばないか? ボウリングとかどうだ。午前から行って昼飯食って解散』
「突然すぎるだろ」
『別に明後日でもいいぞ』
「そういう問題じゃねーよ。とにかくちょっと待ってろ」
『おう』
一旦通話を終えて吉乃の元に戻ると、彼女は「予定を確認してみます」と少しだけ困ったように響樹へと視線を向けた。
「明日遊びに行こうって話?」
「はい」
「午前からボウリング?」
「響樹君の方も、ですか?」
「ああ。あいつら敢えて言ってないんだろうけど四人でって事だと思う」
肩を竦めてみせると、吉乃の方も苦笑を見せた。
恐らくサプライズ演出のつもりなのだろうが、響樹と吉乃が一緒にいるせいで筒抜けだ。
「どうしますか?」
「吉乃さんがいいならだけど、行かないか? せっかくだし」
「はい。ご一緒させてください」
こうして、二人の明日の予定が変わった。
始めたばかりの勉強会が二日目にして無くなってしまったが、それでも明日が楽しみで、その後の勉強にも気合が入った。
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