第55話 否定してきたものを理解した日

 目覚めは良かった。『響樹君』と、彼女の声が頭の中に響いたから。

 起き上がって右を見ながら「吉乃さん」と口に出してみて、当然ながらそこに対象となる人物がいないのにもかかわらず浮遊感にも似た高揚を覚えた。

 そしてちょうど壁際に置いてある全身鏡で自分の顔を見てしまい、客観視する事で自身のあまりにもな有様に気付いて自分の顔を叩いた。


 普段はぬるま湯で行っている冬の洗顔ではあるが、今日は水を使った。

 冷たく引き締まるような感覚を覚えるのだが、いまだ顔は熱い。

 食事を作って食べ終えてもそう。昨日の事を思い出すと、いや、思い出す必要も無く昨日の記憶が何度も何度も繰り返され、響樹の顔を冷ましてくれない。


 昨日は多分感覚が麻痺していたのだと思う。

 吉乃の家で夕飯までご馳走になり、何だかんだと家に帰って来たのはそれなりの時間で、ふわふわとした感覚のまま風呂に入って割とすぐに寝てしまった。

 気持ちの昂ぶりは感じていたのだが、恐らく精神的な疲労が大きかったのだと思う。もちろん嫌なものでは全くなく、ベッドに入ってからは心地良さしか覚えなかった。


 そして一夜明けて冷静になり、現状である。


「何してんだ昨日の俺……」


 もちろん後悔などは一切無いし、この上なく幸福を味わったと言っていい。

 ただそれはそれとして、この身悶えるような感覚をどうにかしてほしいのだ。


 自身の感情が落ち着けられなくてままならない。

 響樹が吉乃に抱いている感情は恐らく今まで響樹が嫌ってきたもので、理解できずにいたものだ。

 にもかかわらず昨日一日で気付いてしまった、知ってしまったその感情の落としどころがわからない。


 響樹が吉乃の事を知ったのは入学式の当日だった。

 三組の教室に入ってしばらくすると、「隣のクラスにすげー可愛い子がいる」と男子が騒ぎ出し、大勢が教室からいなくなった事を記憶している。

 そして帰って来た連中の会話が聞こえてきて、噂の人物が烏丸吉乃という名前である事を知った。


 その後の入学式で隣のクラスの席に誰よりも目立つ少女を見つけ、彼女こそが烏丸吉乃当人であろうと確信した。しかし当時はただ認識しただけで、精々凄く綺麗だなと思った程度だったはずだ。

 入学後の実力テストの結果が貼りだされた時も、あの見た目で成績まで抜群なのは反則だなと思った程度。

 それから一学期の中間試験と期末試験の結果と聞こえてくる噂から、とにかく吉乃が完全無欠の美少女であると、響樹の認識はそういうふうに固まっていった。


 その後の夏休みと二学期が始まってすぐは家庭の事情でそれどころではなく、吉乃の事を意識さえせずに印象はずっとそのままだった。あの日、彼女に出会うまでは。


 それからいくつかの偶然の助けもあって吉乃と話すようになり、彼女がけっしてただ単に完全無欠の美少女で無い事を知った。

 いじっぱりで負けず嫌いなところを好ましいと思うようになった。彼女が誇る高い能力の裏に弛みの無い研鑽がある事を知り、尊敬するようになった。


 そう、最初はやはり尊敬だったと思うのだ。尊敬できる吉乃に親しみやすい要素があり、どことなく親近感を覚えたのではないだろうか。

 そして時折寂しさを覗かせる彼女を放っておきたくないと思うようになったのも、恐らく最初の内はシンパシーに近い感情があったと思う。


 それがいつの間にかこれだ。吉乃と出会ってまだ3ヶ月経っていないというのに、たったそれだけの期間で自身が否定していた感情を持たされてしまった。

 そんな感情を抱いてしまってはこれまで否定してきた自分が惨めだと考えていた。実際に今でも頭ではそう思うのに、まるで悔しさを覚えないのは今もなお溢れ続ける高揚感のせいか、それとも別の何かなのか判断がつかない。


 結局この日は何をしていてもふとした瞬間に吉乃の顔が浮かんだ。こんなにも彼女に頭の中を支配されるのは二度目だが、あの時とは自身の感情が全く違う。

 胸が苦しいような感覚はけっして痛みによるものではなく別のもので、話に聞くだけだと思っていたそれを初めて理解した。



 翌日の目覚めも良かった。

 やはり頭の中で『響樹君』と聞こえたような気がしたが、流石に今日は独り言はやめておいた。


 朝食を終えて午前の勉強をし、昼食を終えて午後の勉強をし始めたのだが、やはり今日も昨日と同じで吉乃の事と自身の感情ばかりが頭を支配する。

 勉強の効率は非常に悪いような気がしている。一目吉乃に会えればと、そんな事さえも思い始めてしまい、自分の顔を叩いた。


「走るか」


 二日経ってもまるで整理できない頭を落ち着かせたいと思ったのもあるが、試験前に比べるとやはりまだ鈍ったままの体を動かしておきたいとも以前から考えていたのでちょうどいい機会だ。

 そして何よりも、吉乃が運動面でも努力をしているのだから響樹も負けてはいられないのだ。


 元々響樹は非運動部としてはそこそこ動ける方ではあるが、流石に最近使っていなかった体は3キロ走った程度で悲鳴をあげ始めた。特に心肺が。

 結局帰りはクールダウンも兼ねて歩き、部屋に戻ってシャワーを浴びる。

 冬なのでシャツを変えるくらいでもいいかと考えたのだが、今日は木曜なので買い物に出る。もしも吉乃に会うかもしれないと思うと、体を洗う以外の選択肢は無かった。


 その後疲労もあって少しだけ昼寝をし、夕方いつもの時間に家を出た。

 吉乃から聞いた話では昨日は優月たちと出かけるとの事だったが、それ以外は特に予定が入っていないとの事で、今日彼女が普段通りの時間に買い物に出る可能性は低くないと思う。


 会えるだろうかという疑問と、会いたいという思いと、会ったところでどんな顔をすればいいのかという不安が頭の中をぐるぐるとかき回している内にスーパーに辿り着いてしまった。

 そして、すぐに気付いた。入口から少し離れたところに立っている彼女に。そして吉乃も、響樹にはすぐ気づいたようだった。


「こんばんは……響樹君」

「こんばんは……吉乃さん」


 顔を綻ばせた彼女に近付くと、はにかみながらの上目遣いで名前を呼ばれた。

 少しだけ間が空いたのは照れなのだろうかと、ほんの僅かに色付いた頬を見て、そして自分の方も同じようになってしまった事からそう思う。


「待ったか?」

「今来たところです」


 彼女のお気に入りのやり取りを始めると、ふふっと笑った吉乃は可愛らしく小首を傾げて「でも」と言葉を付け足す。


「響樹君を待っていました」

「……俺が来なかったらどうするつもりだったんだよ」


 待っていたと言ってくれた事は嬉しいが、吉乃に無駄な時間を使わせる事は嫌だ。


「響樹君の夕食の支度を考えて、あと20分くらいして来なければ諦めていましたので、それほど問題はありません」

「いや、そういう……まあとにかく、今日もいつも通りに来て良かったよ」


 きっぱりと言い切る吉乃相手に軽く息を吐いて見せると、彼女は少し得意げに笑った。

 吉乃を無駄に待たせずに済んだ事、そして彼女と一緒に買い物ができる事。それが何より嬉しい。


「それでは行きましょうか、響樹君」

「ああ、よろしく、吉乃さん」


 どんな顔をして会えばと思っていたのに、いつの間にかそんな事を忘れていた。

 吉乃の隣の居心地と彼女が呼ぶ自分の名前が、不安など一瞬で消してしまったのだろう。

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