第54話 君の名前

「響樹君」


 物心ついた頃からほぼ毎日耳にしている自分の名前。それなのに、最も聞き慣れた三文字に覚える感覚は今までにないもの。以前吉乃が勘違いから呼んだ事はあったが、あの時ともまるで違う。

 気恥ずかしさは相当にあるのだが、やめてほしいとは全く思わない。


「響樹君」


 もう一度、優しく笑いながら響樹へと向けた先ほどとは違い、今度はその言葉自体を噛みしめるかのように少し目を伏せて口にし終え、それから朱に染まった顔に少しだけ弛んだ笑みを湛えて、まっすぐに響樹を見つめた。


「響樹君」


 三度目。

 ほんの少し眉尻を下げ、僅かに首を傾げた吉乃が何を望んでいるかは当然わかる。

 不満ではなく不安をかすかに覗かせる吉乃に、響樹も覚悟を決めて口を開いた。


「吉乃さん」

「はい、響樹君」


 顔が熱い。

 優しい声、細められた目に綻んだ頬。そしてスッと体を滑らせるように距離を詰めた吉乃がすぐそこにいる。

 しかし、顔が熱い理由はそれだけではない。むしろ別の原因の方が大きいのではないかと思う。

 彼女の名前を呼んだ瞬間、反応を見る前にはもう自覚していた。「吉乃さん」と口にしただけで。


「響樹君」

「……吉乃さん」


 ふふっと、嬉しそうな笑みを浮かべ続けている吉乃が、今度はほんの少しだけ顔を近付けた。


(今その顔を近付けるのはやめてくれ)


 吉乃に名前を呼ばれる事は嬉しい。やめてほしいとは思わないと、先ほどはそう思った。

 しかし今はもうやめてほしい。呼ばれたら呼び返さないと吉乃が悲しそうな顔を見せるし、その整いに整った顔との距離も近い。そんな状況で、たった二度彼女の名前を呼んだだけにもかかわらずもう精神が限界に近い。それなのに――


「どうかしましたか? 響樹君」


 吉乃は今までであれば「天羽君」をつけなかったような部分にさえ「響樹君」と付け加える。

 本当の自分を誰にも見せず、一線を引いて人と接していた吉乃だ。こうやって下の名前で呼び合う事はだいぶ久しく、新鮮なのだろう。

 しかし、響樹にとっても新鮮な経験なのだ。自分の名前を呼ばれるだけでこれほどもどかしい感覚を覚える事など今まで無かった。誰かの名前を呼ぶだけでこれほど心がざわつく事など知りもしなかった。


「いや、何でもない……吉乃さん」


 三度目。口にするだけで精神の消耗が激しいのは、ただそれだけで異様なほどの高揚を感じるからだと、三度目にして気付く。

 気付いたところでもう本当に限界で、このままでは吉乃の目の前でどんな無様を晒すか自分でもわからず、彼女から顔を逸らした。


 それなのに、このとびきりの美少女は覗き込んでくるのだ。ずっと朱に染まったままではあるが気遣うような表情が浮かんだ顔が傾けられ、濡羽色の綺麗な髪が重力に従ってさらさらと下方に流れる。

 そんな風に、ソファーに座ったまま響樹の逸らした顔を下から覗くので距離は更に近付く。吉乃の膝が響樹の腿の辺りに軽く触れる。素肌同士の接触という訳でもないのに、半ば反射的に体が跳ねあがり、響樹はソファーの端まで後ずさった。


 一瞬目を丸くした吉乃はゆっくりと体勢を戻して僅かの間だけ頬を膨らませたかと思えば、これ以上ないほど造作の良い顔に妖しい笑みを浮かべ、響樹との距離を詰めにかかった。

 ソファーの上にもう逃げ場は無い。ゆっくりと近付く小悪魔はしかし、顔を真っ赤にしている。


 吉乃も恥ずかしいのだなと思うと少し冷静になる事ができ、反骨心といたずら心が芽生える。

 それに従って響樹の方からもずいっと距離を詰めてみると、緩やかな速度でこちらに向かっていた小悪魔がびくっと反応を示し、後ろに手をついた。


 驚かせてしまって悪かったなと思い口を開こうとしたのだが、眉根を寄せて唇を尖らせた吉乃はそのままついた手に力を込める様子を見せ、その華奢な体を押し出すように響樹との間を詰めた。

 脚と腕がぴったりとくっつくゼロ距離。響樹が慌てて上体を逸らせば、吉乃が勝ち誇ったように笑うので、響樹としては元の姿勢に戻さざるを得ない。


「響樹君は負けず嫌いですね」

「吉乃さんにだけは言われたくない」


 互いに正面を向いたまま、隣の吉乃が口元を押さえてくすりと笑った。そんな小さな動作さえもが、響樹の腕に触れる吉乃の肩から伝わったような気がした。

 お互いに冬用のそれなりに厚い服を着ていて、体温など伝わりようがないのに吉乃と触れ合っている部分がたまらなく熱く感じる。


 自分の感覚が鋭敏になっているように思っていたのに少し鈍くもなっていたようで、今になってようやく吉乃から漂う少し甘い花の香りに気付いた。

 横目で見える隣の吉乃がどこか楽しそうに体を揺らすと、やわらかな肩から伝わる振動とともにふわりと香り、響樹の精神を揺さぶる。


(この無防備さは困る。マジで)


 もちろん誰にでもこうであるとはけっして思わない。吉乃がこういう姿を見せるのは現状響樹に対してだけだと自負しているし、それは嬉しく誇らしい、とてもとても。

 しかしである、響樹も一応健全な男子高校生なのだ。吉乃ほど容姿の優れた異性にこれほど密着され、意地を張って平静を装ってはいるものの――装いきれていない自覚は多分にあるが――内心は穏やかでいられるはずが無い。


 しかもだ、今まで自分でも理屈の壁を幾重にも張り巡らせて見ないようにしてきた事も、流石にもう無視をできない。

 今日という日を吉乃と過ごし、まだたったの数時間ではあるが色んな事があった。


「吉乃さん」と、彼女の名前を呼ぶ内に全ての壁を越えて気付いてしまった。

 それなのに、気持ちの整理をつける間も無くこれである。


「響樹君」


 綺麗で可愛らしい顔は正面を向いたまま、更にもう一度「響樹君」と優しい声が聞こえた。


「私の名前も呼んでください」

「吉乃さん」

「はい」


 名前を呼ぶだけで感じた高揚。今となってはわかる、これは幸福感だ。

 吉乃の名前を呼ぶだけで堪らない幸せを感じるし、響樹へと嬉しそうな顔を向けてそれに応えてくれる吉乃が可愛くて仕方ない。


「吉乃さん」

「はい。響樹君」


 雪崩れ込むような幸福で満たされ溢れた精神はとっくに限界を超えているのだと思う。

 それなのに口が勝手に動く、「吉乃さん」と何度も何度も。

 そしてそのたびに吉乃も「響樹君」と優しい声を耳に届けてくれる。


 五感のほとんどを吉乃に奪われて時間の感覚を忘れ、結局響樹は夕食までも彼女の家で食べさせてもらう事になった。

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