第49話 同じ目線で

「広いな」


 玄関よりも少しだけ花の香りが強くなったリビングダイニングに招き入れられ、そんな第一声を発した。キッチンとリビングスペースのみだけで響樹の部屋全てが入るくらいだろうか。

 1LDKのマンションは玄関前のスペースから扉を入ってキッチンスペース、少し入ったところにリビングダイニング、そしてその側面には吉乃の私室として使われているであろう部屋の扉が見える。


 内装はやはり玄関部分と同じく白が基調とされており、家具の類もほとんどがモノトーン。

 白いソファーとその前にテーブルがある以外は観葉植物が置いてあるだけで、必要最低限といった印象を受ける手入れの行き届いたシンプルで綺麗な部屋。しかし――


「何だあのごついの」


 目に入ったのはルームランナーの横にある響樹の身長よりも背の高い物。


「トレーニングマシンです」


 ケーキを冷蔵庫にしまって戻って来た吉乃が響樹の独り言に答え、振り返った響樹にやわらかな笑みを向けた。


「飲み物は何がいいですか? 緑茶、紅茶、コーヒーはお出しできますけど」

「昼前だしいいよ。気持ちだけ貰っとく」

「わかりました」


 優しく微笑んだ吉乃に促されてソファーに腰を下ろすと、一つしかないので隣には当然のように彼女が座った。


「料理はいいのか?」

「ええ。あとはメインのローストチキンだけですので、昼が近くなってから調理します」

「そうか。料理任せて悪いな、ありがとう」

「そういう役割分担ですのでお気になさらず」


 吉乃は響樹の方へと顔を向けてふふっと笑い、先ほど響樹がごついと称したトレーニングマシンにほんの少し細めた目を向けた。


「あのマシンは横のルームランナーと一緒に中学生の頃に買ったものです」

「あんなの買う女子中学生がいるのかよ」

「ここに一人」

「まあ、そうなんだけど」


 響樹も、くすりと笑った吉乃からマシンの方へと視線を送る。

 見えるのはトレーニング器具、そして吉乃の研鑽の跡。


「やっぱり運動も頑張ってるんだな。毎日やるのか?」

「色んな部位が鍛えられる物なのでローテーションで毎日どこかしらのトレーニングはしていますけど、運動部の方ほどではありませんよ。筋肥大が目的ではないので高負荷もかけませんし」

「それでもだ。他の事をきっちりこなしながらだし凄いと思う」

「ありがとうございます。天羽君に褒めていただけると、嬉しいです」


 響樹へと視線を戻した吉乃が可愛らしくはにかむ。

 吉乃はもう、誰かに褒められるためだけに頑張っている訳でない。それでも彼女の努力は響樹にとって尊敬できる事で、可能な限りそれを言葉で表したいと思っている。


 そして、ズルをして一瞬だけ吉乃の隣に立てたが改めて彼女が遠い所にいるのだなと実感し、少しだけ悔しいと感じた。

 それでも焦りや不安などは覚えない。吉乃の隣に立つために自分を磨く事が、どちらかと言えば楽しみになっている。自分は負けず嫌いなのだろう、吉乃が頑張るのだから負けていられないと、そう考えると何故か楽しい。


「あれは中学二年になって少しした頃に買った物です。かかったお金は大卒初任給くらい」

「それって……」


 少しだけ遠い目を見せた吉乃が発したのは、聞いた覚えのある金額。中学二年というのも記憶の中の時期と合致する。


「はい。私を見てくれない父に叱られたくて買った物です。欲しかったのも事実ですけど」


 わざわざ聞かせてくれなくてもいいと、そう思った。しかし眉尻を下げて苦笑した吉乃からは辛い思い出を語っているという雰囲気は感じられず、響樹は彼女の次の言葉を待った。


「大丈夫です。天羽君に聞いてほしくて、見てほしくて。だから私の部屋を会場にしたんです」

「わかった。聞かせてくれ」


 目を見つめて頷けば、吉乃は「ありがとうございます」と優しく笑い、スマホを取り出して響樹に「見てください」と差し出した。


「これは、この部屋か?」

「ええ。だいぶ印象が違うでしょう?」


 楽しげに笑う吉乃が見せてくれた写真は確かにこの部屋の物なのだが、彼女の言葉通り印象はまるで違う。

 家具の配色や配置は同じだが、画面の中のこの部屋にはとにかく物が多い。もちろん整理整頓が完璧になされているので乱雑さは一切感じないが、シンプルなインテリア用品や多くのクッションなどが目立つ。


「試験の後でだいぶ片付けたんです。まだクローゼットの中にありますけど」

「模様替えって訳じゃないんだろ?」

「ええ。変わったのは気持ちです」

「気持ち?」


 やわらかな笑顔を湛えた吉乃が「ええ」ともう一度頷いた。


「以前の私は自分がからっぽだと思っていました。そして初めてそれを思った頃です、学校から帰って部屋の中を見た時に、物の少ない部屋がからっぽな自分と重なって見えて。それ以来、私は部屋に帰るのが怖くなりました」

「怖く……」

「だから色んな物を買って部屋を埋めてみましたけど、結局ダメでしたね。部屋に帰るのは怖いまま、だから帰ってすぐに夕食の支度ができるように時間を調整していました。料理に集中していれば、その間に気持ちを落ち着かせる事が出来ましたので」

「それで、図書室にいたのか?」


 表情を変えぬまま、吉乃は「はい」と頷き「今までは、ですけど」と苦笑しながら付け加えた。


「試験の後、天羽君のおかげで部屋に帰る事が怖くなくなりました。だから気持ちの整理を兼ねて部屋を片付けたんです」

「そういう事か」

「ええ。今はもう帰宅が怖くありません。だから、今図書室で勉強をしているのは純粋にそうしたいからです。天羽君と一緒に過ごす時間が楽しいからです」

「そうか」


 いつの間にか体ごと響樹の方を向けていた吉乃は、「ええ」と言って少しだけ赤い顔に自慢げな笑みを浮かべている。

 まっすぐに響樹を見つめたまま視線を逸らさない吉乃と顔を合わせていると、それに耐えられず「俺も」とだけ言って響樹は顔を逸らした。


 どこか嬉しそうにふふっと笑う声が聞こえ、「一緒ですね」と優しい言葉が耳に届く。


「だから天羽君。あれからずっと色々ご心配をかけてしまっていますけど、私はもう大丈夫です。すぐにとは言いませんけど、ゆっくりとで構いませんから、一人の私を見てください」


 その言葉にハッとして顔を向けると、優しい笑みを湛えていた吉乃が口を尖らせて眉根を寄せた。どちらもだいぶわざとらしく、可愛らしい。


「最近の天羽君は、前にも言いましたけど私の事を子ども扱いし過ぎです」

「……そんなにだったか?」

「はい、それはもう」


 わかりやすく憤った表情を作ったままの吉乃が、大きく二回頷いた。


「嫌ではありませんし、天羽君の優しいところだと思いますから嬉しいですよ? 元はと言えば私が散々心配をかけてしまった事が原因ですし。でも、やっぱり同じ目線で向き合いたいです」

「……ああ。ありがとう、気を付ける」


 同じ目線でと言ってくれた吉乃。それは響樹が彼女の隣に立ちたいという思いと似ているのだろう。だから、ごめんではなくありがとう。

 そう言って響樹が頷くと、吉乃が満足げな笑みを浮かべて同じように頷き、口元を押さえてくすりと笑った。


(でも、子ども扱いだけじゃないよなあ)


 以前も思った事だ。響樹としては子ども扱いなどしているつもりではなかったが、吉乃からそう見えたのならば多少そんな風に接してしまっていたのだろう。

 だがやはり、吉乃が傷つくような事はあってほしくないと今でも思う。大切なのだと思う。


 これはきっと違う子ども扱いとは違う感情だと、それだけは理解した。

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