第33話 天羽君のばか
『大丈夫か?』
「普通に熱出た。気が付いたら朝だった。玄関で寝てたらしい」
『お前、馬鹿じゃないのか?』
電話の向こうでもわかるほどに大きなため息をついた海は、心底呆れ果てたような声でそう言い、『心配させやがって』と付け足した。
響樹に記憶は残っていないのだが、試験後は海が家まで送り届けてくれたらしい。「ちゃんと寝ろよ」と玄関を閉めた海に響樹は「任せろ」と満足げに答えたとの事だ。
その結果がこれなのだから何を言われても仕方ない。
しかも現在時刻は火曜の夜。試験後に送り届けてもらってから丸一日以上連絡がつかなかったのだから、どれほど心配をかけた事だろう。
「悪い」
『悪いと思ったらさっさと治して学校来て直接謝れ』
「ああ。いや、悪い。頼みたい事が一つあるんだけど」
◇
海との電話から三日が経ち、今日は金曜日。熱は昨晩には下がっていたが、今日まで大事を取って休む事にした響樹は、昼過ぎには暇になっていた。
それなので試験のおかげでぐちゃぐちゃになった部屋の片付けを済ませる事にして、鈍った体に鞭を打って一生懸命に動かした。
自分でも気持ち悪いくらいにグロテスクになった左腕がまだだいぶ痛んだが、じっとしてなどいられない。
何しろ今日は試験結果の個人票が配布される日だ。響樹が学校に行けなかった場合は海に届けてもらうように頼んであるので、いつ彼が来てくれると思うと何かをせずには落ち着いていられなかった。
「響樹ー。来たぞ」
そうこうしている内に夕方になり、チャイムを使わずに玄関を叩いた海の声に響樹は玄関まで走った。
「頼まれてたやつ、持って来たぞ」
海が差し出した茶封筒には「天羽響樹」と文字が書かれていた。
「サンキュ。ほんと色々ありがとう、それからわる――」
「おい、言ったろ? 謝罪は学校来てからしろって。大体お前の顔、それどころじゃなさそうだからな」
「……ああ、ありがとう、海」
頭を下げると、笑った海は「おう、じゃあな」と軽く手を挙げて去っていった。
響樹はそれを見送ると、そのまま机へと走り椅子に腰掛けた。心臓の鼓動がかつてないほど早いのは、病み上がりだからや今走ったからだけではない。
深呼吸を繰り返して暴れる心臓を落ち着け、もう一度長い息を吐いて封筒を開き、目を瞑って中身を取り出して恐る恐るまぶたを上げると見えたのは裏面で、「間抜けか俺は」と苦笑した事でいい具合に力が抜けた。
だからそのまま、あっさりと手首を返す事ができた。
「総合得点 557/600 総合順位 1/323」
右手に持った手のひらサイズの紙を何度も何度も穴が空くほどに凝視し、響樹は声にならない声を上げて左手を思い切り握り込んで突き上げる。この時ばかりは痛みも無視できた。
しかしこのまま喜びに身を任せてはいられない。するべき事があるのだから。
響樹はもう一度深呼吸をして、メッセージを送った。
『今から会えるか?』と。
◇
そうして呼び出した吉乃が何故か家に来ている。
学校へ呼び出されてもいいように制服に着替えておいた響樹は自分が出向くと伝えたのだが、吉乃は「天羽君は病み上がりなんですから」とこちらに来る事を譲らず、結局は響樹が折れて部屋番号を教えた。
どうして病み上がりなのを知っているのか、部屋を片付けておいてよかった、などと考えながら部屋の最終チェックを済ませたところでちょうど吉乃がチャイムを鳴らし、そのまま上がってもらった。
飲み物を出すと言ったのだが固辞されたので、コートを預かってハンガーに掛け、テーブルをどかして向かい合う形で座っている。せっかくなので、間に余計な物など無い方がいいだろう。
「それで、ご用件は?」
静かに言葉を発した吉乃の顔には穏やかな笑み。しかし、それが逆に痛々しい。
当然吉乃も試験結果の個人票は既に見ているだろう。自分自身をからっぽだと卑下する彼女の心の拠り所の一つ、最大のものが今日失われた、響樹が奪った。
どんな気分だろうか。響樹には想像もつかないし吉乃はそれを隠しているが、少なくともこのまま彼女にそんな気持ちを持たせ続ける事は絶対に嫌だった。
だから響樹は前置き無しで本題に入る。
「これ、見てくれ」
「やっぱり、一位は天羽君だったんですね」
差し出した響樹の個人票に目を落とす吉乃の表情は変わっていない。しかし、それを持つ指先が少し震えていた。
「おめでとうございます。本当に、本当に凄いと思います。一度の試験で、こんなに……」
穏やかな笑みは少しだけ崩れ、響樹を称賛する声に震えが混じる。
華奢な肩にも震えが伝わり、吉乃が一旦言葉を切ったところで、響樹は彼女に声をかけた。
「約束、覚えてるか?」
「……ええ」
「じゃあ、早速だけど聞いてくれ」
「……はい」
一瞬硬い表情を見せた吉乃だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて姿勢を正した。
響樹はそんな吉乃に頷き、一度大きく息を吐いてから口を開いた。彼女の瞳を正面からまっすぐに見据えて。
「君は……烏丸吉乃はからっぽでつまらない人間なんかじゃない。それを覚えておいてくれ。自慢の記憶力で、絶対に忘れるな」
「……え」
響樹の言葉から一拍遅れて吉乃が目を丸くした。
「負けた方は一つ言う事を聞く約束だったろ? だから、これを絶対に忘れないでくれ」
「……それだけ、ですか?」
「ああ」
いまだに目を丸くしたまま、小さく首を傾げた吉乃に響樹は大きく頷いてみせた。
「あの話を聞かせてもらってから今日まで、ずっと君の事だけ考えてた。だから烏丸さんがからっぽなんかじゃない事は俺が自信を持って言えるし、誰にも否定はさせない。たとえ君本人が違うと言ったって、俺がそれを許さない」
「でも! 私には、何も無いんです……何も」
勢いよく反論したものの、吉乃の言葉は後ろになるにつれて弱くなり、最後には消え入りそうになってしまう。自分の言葉で自分を傷つける彼女は、きゅっと拳を握って震わせた。
表情は響樹が見た事もないほどに悲痛で、きっとあの日も響樹の後ろでこんな顔をさせてしまっていたのだろう。
(だけど、今日で最後だ)
響樹は吉乃とは違う思いで拳を握り、もう一度彼女を正面から見据える。
「違う。そんな事はない。君自身にも否定させないって言っただろ?」
「でも……」
吉乃はそれだけ言ってきゅっと結んだ唇を僅かに震わせた。
「さっき言ってくれたよな。『一度の試験でこんなに』って。59点だ。俺が前回から上げた点数」
「はい。本当に、凄いと思います。本当に」
「それが、烏丸さんがからっぽなんかじゃない事の証明だ」
「……どういう、事でしょうか?」
本当に意味がわからなかったのだろう、一瞬だけ悲しみを忘れたように首を傾げた吉乃に、響樹は笑ってみせた。
「一度でいいから君に勝って、対等な立場で胸を張ってさっきの言葉を伝えたかった。君の事だけ考えて、自分で言うのもなんだけど死ぬ気で頑張った。正直もう二度と同じ事はできないと思う」
吉乃は丸くした目を一瞬響樹から逸らしたものの、すぐに戻してくれた。響樹の言葉を聞き漏らさないよう、そんな風に思ってくれているような気がして胸が温かくなる。
「正真正銘俺の全力だ。烏丸さんがからっぽでつまらない人間だったら、俺はこんなに頑張れなかった。だから、証明完了だ」
言いたかった事をこれでもかと伝えると、見開かれた吉乃の瞳が少し揺れたような気がして、彼女はそのまま俯いた。
そして「天羽君は」と小さな声を、僅かに震えるような声を響樹へと届ける。
「天羽君はばかです。そんな事のために、私なんかのために……倒れるまで……」
「それは違う。俺にとって烏丸吉乃は『なんか』でも『そんな事』でもない。大切な事だ」
「……本当に、ばかです」
俯いていて表情は良く見えない。それでも、震える声は優しい色を含んでいたと、響樹にはわかる。
「またカラオケ行こう。好きだろ? 歌う事」
言葉での返答ではなく、俯いたままの吉乃は小さく、それでもしっかりと頷いた。
「ほら、顔上げろよ。笑ってくれ」
「ダメです。今、とてもお見せできません」
「前にも言ったけど見られて困るような顔してないだろ」
響樹がそう言って吉乃の体を起こそうと手を伸ばすと、彼女はクッションの上で器用に反転して背中を向けてしまった。
狭い背中をまっすぐに下る濡羽色の髪は今日も綺麗で、一瞬見惚れた後で響樹は苦笑する。
「そういうところです。天羽君は……ばか、ばかです」
「バカで結構だ」
笑いながら、響樹は反対を向いた吉乃の後ろ側に回ろうとするのだが、彼女はまたも器用に反転し、もう一度響樹が後ろに回ろうとしても同じ。
結局元の位置関係に戻ってしまい、響樹は苦笑して一計を案じる事にした。
「っつぅ……ってぇ」
「大丈夫ですか!?」
ここ数日散々聞いた自分が痛いときに出す声を真似てみると、背中を向けていた吉乃が弾かれるようにこちらを向いた。
雪が解けてそのまま茹ってしまったような吉乃、その両目からはきらきらと光る雪解け水の流れ。笑った顔が見たいと言ったくせに、それがとても綺麗で目を奪われる。きっと、悲しみによるものでない事がわかるから、こんなにも心が動くのだろう。
「あ」
そんな響樹の様子を見た吉乃は察したのだろう、恨めしげな視線を響樹に向けた後でまたすぐに反転をしようとしたが――
「捕まえた」
「ずるいですっ。離してください」
「嫌だ」
小さな両肩に手を置き、少し暴れる吉乃に笑ってみせた響樹はそのまま正面に腰を下ろした。
「笑ってくれって言ったのになんで泣くんだよ」
「じゃあ、見ないでくださいって言ったのにどうして見るんですか」
笑いかけてみせれば、吉乃は真っ赤な顔のまま、涙もそのままに恨めしげな視線を響樹に向けてくる。
「あー。見たかったから?」
「じゃあ私も、泣きたかったからです。ばか」
今まで見た中で一番綺麗だと思った。
涙に濡れた真っ赤な顔、その上に浮かべられた彼女の優しい笑み。
「天羽君のばか」
そう言って、吉乃はゆっくりと響樹の胸に額を当てた。
「こうすればもう見られません」と少し震える声はしかし、どこか誇らしげだった。
まずいくらいに跳ねている心臓の鼓動が聞こえてしまわないかと少しの不安はあったが、響樹は吉乃の肩に置いた手をゆっくりと背中へと動かした。
「ばか……」
響樹の背中にも、吉乃の細い腕と小さな手のひらが触れた。
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