第34話 濡烏のとまり木
響樹の背中に回された吉乃の手に力がほんの少し入ると、同じように響樹も吉乃の小さな背中に回した腕に僅かだけ力を込めた。
どちらが先に始めたかはもう記憶にないが、互いにそれを繰り返していつの間にか強く抱擁を交わすような体勢になってしまっている。
胸元にあったはずの吉乃の頭は今や響樹の肩の辺りにあり、下手に自分の頭を動かせば彼女と顔が触れ合ってしまいそうな距離。
吉乃の背中に置いた響樹の手に触れる彼女のサラサラな髪との距離も縮まり、少し甘い薔薇のような香りが鼻腔をくすぐる。
その上、吉乃のやわらかさが伝わるのだから始末に負えない。硬くごわごわした素材のブレザー越しのくせに、華奢でまるで肉の付いていないように見える彼女の体が非常に心地良い。
吉乃を胸元に迎え入れた時に感じた温かい気持ちはどこへやら、響樹は現在幸福な地獄にいた。
吉乃に思いと言葉を伝え、彼女はそれをしっかりと受け止めてくれた。
今こうしている時間は、きっと吉乃が受け止めてくれた言葉を受け入れるのに必要な時間なのだと思う。その間を過ごす場所として響樹の胸の中を選んでくれた事は光栄極まるのだが――
(無防備が過ぎる……)
元はと言えば響樹が吉乃を抱きしめたいという衝動を抑えられずに彼女の背中に手を回した事が発端だが、それにしてもだ。
吉乃も自身の容姿がどれだけ優れているかを認識しているはずだが、時々こんな風にそれが
響樹としてはずっとこうしていたい反面、吉乃の弱みに付け込むような抱擁に罪悪感もあり、しかも健全な男子高校生としての自分に反して理性も保たねばならず、中々にキツイ思いをしていて、流石にそろそろ限界が近い。
「そろそろ、暗いし送ってく」
ちょうど吉乃の耳元で声を出してしまったせいか、彼女の華奢な体がぴくりと震え、響樹を抱きしめる腕の力が増した。それがまた響樹を甘い地獄に突き落とす。
「今日は送っていただかなくて結構です。天羽君は病み上がりですし、怪我もしていますから」
「いや、そういう訳にもいかない。……そう言えば何で病み上がりとか知ってるんだ?」
「噂になっていましたから」
「噂?」
尋ね返してみれば、くすりと笑った吉乃が僅かに頭を動かすのが視界に映り、彼女は澄んだ声で囁くように「はい」と響樹の耳をくすぐった。
先ほどの意趣返しだったのか、響樹が体を震わせた事で吉乃はふふっと笑う。それがまた耳の近くでなされるので背中がぞくりとする。
「少し洗面をお借りしますね」
「……ああ、どうぞ」
そう言って、響樹が必死に緩めた腕の間から吉乃はするりと、あっさりと抜け出していった。どんな顔をしているかは吉乃が隠したので見えなかった。
離れてもらいたいと思っていたはずなのに、実際に離してしまうと喪失感に襲われた。僅かに残る彼女の甘い香りが少しずつ薄れていく事に、言いようのない寂しさを覚える。
響樹は大きく息を吐き、そのままカーペットに寝転がった。
◇
「試験後に倒れた、解答用紙が血染めだった。そんな風な噂が流れていましたよ」
数分後に戻ってきた吉乃は完全にいつも通り、響樹の良く知る彼女の姿。それなのに、あれだけ見たいと思っていた姿に少し寂しさを覚えたのはどうしてだろう。
「試験後はちゃんと家に帰ってきたし、倒れてはいないぞ」
試験後の記憶はないので、恐らくHR辺りでは意識が落ちていたのだろうが、倒れてはいないはずだ。噂が独り歩きした面もあるのだろう。
「花村さん経由で島原君からお話を聞いています。家に帰ってすぐ倒れて、そのまま一晩を明かして風邪を引いたそうですね」
「……はい」
ニコリと美しい笑顔で圧をかけてくる吉乃に思わず姿勢を正すと、彼女は小さなため息をついた。
「その分では左腕の怪我も酷いのではありませんか? 服を脱いでください」
「え?」
「肌着は着たままで構いませんから、ワイシャツまで」
「いや、その……大丈夫、ですよ?」
「大丈夫かどうかは見て判断します。脱いでください」
「……はい」
本当はあまり吉乃には見せたくなかったのだが、今の彼女には逆らえない。
ワイシャツを脱いでシャツ一枚になってから傷口に当てておいたガーゼを剥がすと、吉乃が顔をしかめた。だから見せたくなかったのだ。
「痛むと思いますけど、洗いますよ」
そのまま吉乃に連れられてバスルームのシャワーで傷口を洗ってもらったのだが、「痛いとかわいそうなので手を握ってあげましょうか?」といたずらっぽく笑った彼女に「子ども扱いするなよ」と強がってみせたところ、吉乃は不満げに口を尖らせていた。
本当なら外科医院に連れて行きたかったと口にした吉乃だが、今日は既に閉まっている。付近で明日も午前まで開いている所もあるようなのだが、やはり土曜という事で混むらしく、病み上がりの響樹を長時間外出させたくないと気を遣ってくれた。
そんな風に口を動かしながらも、吉乃の手は休まず動き、響樹の腕に化膿止めを塗ってガーゼを当てて包帯までもスムーズに巻いてくれた。軟膏を塗られる時は「痛んだらすみません」と言われたが、正直
「凄い手際良いな」
「覚えておいて良かったです。知識はいつ役に立つかわかりませんからね。はい、ひとまず終わりです。服を着てください、できれば制服以外で」
「了解、ありがとう」
感謝を告げて立ち上がると、吉乃は嬉しそうにふふっと笑う。
笑顔が眩しいとはこういう事を言うのだろうと、響樹は急に今までの接近が恥ずかしくなり、吉乃に背を向けて収納から取り出した部屋着に着替えた。
「それでは最後の仕上げをします。じっとしていてください」
「ん?」
何やら白く大きな布を持った吉乃が満面の笑みで響樹に近付き、これまた恐ろしいほどの手際で響樹の左腕を吊った。
何でもないように距離を詰める吉乃のせいで高鳴る心臓を誤魔化すように、響樹は固定された左腕を僅かに動かしてみせる。
「いや、骨折った訳じゃないんだけど」
「大きな傷でしたから。まだ塞がってはいませんでしたし、左腕に負荷がかかるのは良くないです」
「まあそうかもしれないけど、これじゃ家事ができない」
吉乃の気遣いはこの上なく嬉しいが、流石に一人暮らしでこれは致命的だ。掃除まではギリギリで何とかなっても、炊事と洗濯は厳しい。
試験期間にだいぶ不摂生をした響樹としては、そろそろちゃんとした食事を作りたいところであった。
「私がするので問題ありません」
やわらかな笑みを浮かべてしなをつくるように少し首を傾げた吉乃に目を奪われ、発言の内容への理解が遅れた。
「今から買い物に行ってきますので、少し待っていてください」
「いや。そんな事までしてもらう訳には――」
「いいではありませんか。私がしたい事ですから」
可愛らしい上目遣いの視線。本当に、その容姿でこんな事をするのは心臓に悪いのでやめてほしい。
「天羽君。私がからっぽではないと、言ってくれましたよね?」
「ああ」
「だから、したい事をするんです」
目を細めた吉乃はそう言って優しく微笑む。
「それが俺の世話なんかで――」
途中まで言いかけた言葉を、頬を膨らませた吉乃が響樹の口先に人差し指を突き付けて止めた。ギリギリ触れてしまわない距離に、彼女の細くしなやかで綺麗な指がある。
「なんか、ではありませんよ。大切な事です。とても」
そう言ってもう一度、吉乃は優しい微笑みを覗かせる。
「したい事も、大切な事も、好きな事も。天羽君のおかげで見つかるような気がしています。だから、待っていてください」
「ああ……待ってるよ。気を付けてな」
「ええ。ありがとうございます」
嬉しそうに笑って濡羽色の髪を揺らした吉乃を玄関から見送り、カーテンを開けた。
外は暗くなっていたが、街灯の明かりの下の吉乃は響樹を見つけて小さく手を振ってくれた、少し照れたような仕草を窺わせながらも。いつもの彼女ならば会釈をするところだろうに、何故かとても自然な姿に映る。
そして窓際まで椅子を転がして座り、吉乃が帰って来るまで響樹はずっとそこにいた。
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