第32話 天羽響樹が差し出すもの
「頼みがある」
吉乃と勝負の約束をした翌日の朝、廊下に誘い出した海に頭を下げた。
「改まってどうした」
響樹が頭を上げるのを待って口を開いた海の声と表情からは、疑問というよりも心配をしているような雰囲気を感じられた。
「次の試験で一位を取りたい。どうしても勝ちたい相手がいる。協力してほしい」
そしてもう一度、先ほどよりも深く頭を下げて言葉を続ける。
「試験が終わったら必ず借りは返す。俺にできる事なら何だってする。だから――」
「響樹。顔上げろよ」
海の静かな声に言われた通り顔を上げると――
「おいこら」
「つっ!」
額に少し硬い感触と痛み。恐らく指で弾かれたのだろう。
「お前なあ、借りだとかなんだとか別に要らねえよ」
額を抑える響樹に対して長く大きなため息をついた海は、だいぶ呆れた様子を見せながら口を開いた。
「響樹が本気なのは見りゃわかる。普通に頼れよ、友達だろ?」
「ああ、悪い」
「悪い? 違うだろ」
「……サンキュー、海」
「おう、それでいい」
満足げに笑った海が大きく頷き、「で」と話しを戻した。
「何を手伝えばいいんだ? 社会二科目教えればいいのか?」
「お前の伝手で過去問手に入れてほしい。社会二科目と国語、できれば過去5年分」
「……マジ? 過去問やんの? 定期試験だぞ?」
「ああ。そうでもしないと勝てっこないからな」
海が驚くのも無理はない。たかだか高校の定期試験で過去問や傾向分析等の試験対策をするのは愚行だ。定期試験を機に苦手を潰したり得意分野を伸ばしたりと勉強をする事とは訳が違う。
綺麗事を抜きにするならば普通高校の勉強は大学受験のためにある。一度の定期試験の対策ごときにリソースを割くなど本来はあり得ない。
しかし今はその本来が通用しない。何しろ相手が相手、悔しいが烏丸吉乃は天羽響樹が通常のやり方をして敵う相手ではない。
だからやれる事は何でもやる。吉乃に勝って、伝えなければならない事があるのだから。
「わかった。その代わり絶対勝てよ」
「ああ」
海が不敵に笑い突き出した拳に、響樹も同じように突き出した拳を合わせた。
少し恥ずかしかった。
◇
「響樹、頼まれてたやつ」
「もう集めてくれたのか。ありがとう、海」
水曜の朝、海は紙が収納されたクリアファイルを大量に差し出してきた。一番上の物には「世界史・問題」と海の字で書かれた付箋がテープで貼り付けられていた。
「7年分ある。科目ごとに問題と解答で一つずつ、要らないだろうけど一応
「しかも頼んだより多く……マジでありがとう」
「優月にも事情は言わなかったけど手伝ってもらったから、響樹の事情知らせてもいいならいつか礼言ってやってくれ」
「ああ、会ったら言っとく」
軽く頭を下げてからクリアファイルを受け取ると、海は「おう」と笑みを浮かべた。
「あとついでに社会二科目は傾向分析もしといてやるよ。乗り掛かった船ってやつだな」
「いや、流石にそこまでしてもらう訳にはいかないだろ。お前の勉強の邪魔になる。それは俺としても嫌だ」
「いいよ。元々遊んでた時間使うつもりだし、手伝わせろって。そうだな、優月に言っていいならあいつも巻き込むか。あんな日本語怪しい感じの見た目のくせに国語の成績超優秀だぞ」
「手伝ってもらってる以上花村さんに言うのはいいけど、ってか言い方酷いな」
「じゃあ声かけてくるな」
「あ、おい」
響樹がかけた声を無視して、シュッと手を挙げてみせた海はそのまま教室を出ていってしまった。
(あいつ自分が花村さんといる口実を作りたいだけじゃないのか?)
一瞬そんな事を考えて、すぐにそれだけではない事に気付く。
普段から二人で遊びに出かけている海と優月に一緒にいるための口実などそれほど必要無いはずで、これは響樹に対する気遣いなのではないか。海自身にもうまみがあるように見せれば、響樹が感じる申し訳なさを軽減できると、海ならば考えそうなものだ。
本当に頭が下がる。響樹には過ぎた友人で、吉乃を含めて自分が周りの人間に恵まれている事を再認識し、決意がより強くなる。
「天羽君、理由はよくわかんないけど国語に関しては大船に乗ったつもりでいていいよ」
海に連れられてきた人懐っこそうな少女もそうだ。響樹の知っている優月らしく中々の高気圧っぷりを発揮してはいたものの、配慮なのか声は抑えぎみ。
「その代わり一位取れなかったら罰ゲームね」
人好きのする笑みをわざとらしく歪め、悪どい――つもりだろう――顔を作ってみせた。
「ああ、何でもしてやるよ」
そう言って笑えば、目の前の二人が揃ってサムズアップを見せた。
試験まではあと19日。
◇
「天羽君。体調があまり良くないように見えますけど、大丈夫ですか?」
「気のせいだろ」
吉乃との勝負の約束をして10日、流石に誤魔化しが利かなくなってきている。
約束した初週の間に睡眠時間を7時間から6時間へ、6から5へと減らしており、今週は更に4時間に体を慣らした。海からも心配の声をかけられたが、勉強会帰りに吉乃にも同じような事を言われてしまった。
「ここのところ顔色も良くないと思っていましたけど、今日は特に。それに足取りもだいぶ重いですよ、比喩ではなく」
「まあ、睡眠時間ちょっと削ってるから体が重い気はするけど、別に問題無い」
気遣わしげな、本当に心配してくれている吉乃に対し、申し訳ない気持ちと同時にほんの少しの喜びを覚えてしまい、響樹は彼女から見えないように手のひらに爪を立てて握り込んだ。
「試験勉強のためですか?」
「ああ。それだけ誰かさんに勝つのは大変なんだ」
おどけてみせたが、当の誰かさんの表情は晴れない。
「俺の事は気にせずに全力で試験受けてくれよ。本気の君に勝たないと意味が無い」
「……手を抜くつもりはありません。ですけど……せめて、体調が良くないのですから、家まで送っていただかなくても大丈夫です」
少し俯きがちで声も小さかった吉乃だが、体調を気遣ってくれる時には顔を上げてしっかりと響樹を見据え、静かでありながらも意志の強さがわかるよく通った声を届けてくれた。
「来週は、そうだな。俺としては不本意だけど、一緒に勉強するのを止めようと思ってる」
「え」
「一週間前になってもライバルの世話になってるのも情けないしな。だから、今週は送らせてくれ」
「来週……」
「寂しいか?」
先ほどまでの強い瞳はどこへ行ったのか、一瞬驚いて目を丸くした吉乃にからかうように声をかけた。こう言えば、いじっぱりな彼女ならば――
「寂しいですよ?」
揺れる瞳がまっすぐに響樹を見つめる。
冗談で言った言葉がそのまま返って来て、響樹は寂寥感と胸が締め付けられるような感覚を覚えてしまう。
「……なんて、言うと思いました?」
しかし一瞬で彼女のそんな表情は霧散し、いたずらっぽ笑みを浮かべた吉乃が可愛らしく首を傾げてみせた。
だから、響樹もはっと笑ってそう言ってくれた吉乃に乗っからせてもらう事にする。
「まさか。俺がそんなに簡単に騙されると思うか?」
「どうでしょう? 天羽君は簡単に騙されそうですよ」
「心外だ」
渋い顔を作って言ってみせると、吉乃はふふっと笑った。
「でも、天羽君。もうすぐ十二月でただでさえも体調を崩しやすい季節です。くれぐれもご自愛ください」
「ああ、ありがとう。烏丸さんもな」
「ええ、ありがとうございます」
綺麗に腰を折った吉乃は、「体調不良の不戦敗でも言う事は聞いてもらいますよ?」と優しく笑った。
試験まであと11日。
◇
試験一週間前の月曜、響樹は学校を休んだ。担任に熱が出たと電話をし、家にいる。このまま数日は休んでしまうつもりだ。
実のところ体調は良くないが熱は無い。嘘偽りなく言えば、授業をサボって自宅で勉強をしている。
現在睡眠時間は2時間にまで減らしており、食事も全て既製品で済ませているが、それでもまだ想定する最低ラインにすら届いていない。あくまで最低、そこにさえだ。
そんな状況なので、試験期間後半に入り授業が全て試験範囲外の内容になった今週、それを幸いにと家で試験対策をするつもりでいた。
この先の事を考えるのなら愚か極まりない行いだ。自分でもよく理解している。通常の勉強ではなく定期試験の対策ごときに時間を割き、本来疎かにすべきでない授業やその予習復習も完全に捨てた。
試験に対する向き合い方としても、恐らく今までと同じように通常の勉強の一環として取り組むだろう吉乃と比べ、響樹のやり方は酷く卑怯だ。だが、それでもどんな事をしても吉乃に勝ちたかった。
あの日吉乃が話してくれた事、彼女が自分自身をからっぽでつまらないと言った事を、響樹は否定した。しかしその言葉は吉乃に届かず、彼女が響樹に求めたのは今まで通りである事。
悔しくて腹が立った。吉乃に対してではなく自分自身に。
吉乃はどうして、絶対に他人に知られたくないような事を話してくれたのだろうか。もちろん、図書室で嫌な空気を作ってしまった詫びもあるだろう。だが、それだけだろうか?
もしかしたら、吉乃自身無意識かもしれないが、響樹ならば何とかしてくれるというような期待がありはしなかっただろうか。それは響樹にとって都合のいい妄想かもしれない。だが、あの時、もしも彼女の助けになれる人間がいたのならば、それは天羽響樹以外にはあり得なかった。
しかし結果、響樹は吉乃の助けになれず、彼女は今まで通りを望んだ。
だから響樹は思う。烏丸吉乃を支えられる天羽響樹でありたいと。
吉乃が今まで積んできた研鑽に、響樹のこれまでは遠く及ばない。だから差し出せるものは全て差し出す。健康だろうが受験に対する備えだろうが、天羽響樹が持っているもの、これから手に入れるものを、全部。
たった一瞬でいい。吉乃が今まで必死で、涙を堪えて自分を高めるためにしてきた努力に、一度でいいから釣り合うだけの何かが欲しかった。
今見上げるだけの吉乃の隣に、一度でいいから立ちたい。すぐに崩れてしまう脆い足場でもいい、一度だけでいいから彼女と対等でありたい。
吉乃のためではない、響樹のプライドにかけて。そうして胸を張って彼女に言葉を届けたかった。
試験まであと7日。
◇
土日に最後の追い込みを終えて試験当日の月曜日、教室に入ると奇異の視線に晒された。「お前大丈夫か?」と、普段話さないような級友からも何度か声をかけられた。
「響樹、お前……その左手何だよ……ってか鏡見たか?」
「そりゃ、見るだろ。悪い、色々世話になったけど、話はまた今度にしてくれ」
「……ああ。勝てよ」
「任せろ」
最初眉を顰めていた海は、緩やかに首を振ってから笑い、響樹の肩を優しく叩いて自席の方へ戻って行った。
それを最後までは見届けず、響樹は参考書を開く。眠気と頭痛と吐き気を堪えるため、既に傷だらけの左腕に爪を立てながら。
朝のHRで教師の話も聞かずに迎えた一時限目の試験は英語。得意科目であり、それ故に一問でさえ取り逃しは許されない。
試験の間、やたらとワイシャツの左側が腕に張り付いて鬱陶しかった事だけを覚えている。
二、三、四時限と試験は進み、午前中だけで英語、国語、世界史、倫理の試験が終わった。英語以外は響樹の苦手科目が揃っているが、もう出来がどうだったか記憶に残っていない。
昼食も取らずに迎えた午後は得意の化学と数学、またも取りこぼしの許されない科目が待っている。
五時限目の化学も無事かどうかはわからないが終え、残すは定期試験最難関の数学。それ故に数学を得意とする響樹にとってはここが吉乃と差を付ける最大のチャンスである。
状態は最悪だが気合は最高潮。試験中も引っ掛かりを覚える事無く問題を解いた感覚だけが記憶に残った。
試験終了後、左腕に張り付いたワイシャツを引っ張った時に激痛が走った。そしてそれが、響樹の中に残った試験についての記憶の最後だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます