第17話 最後の歌と寝ぼけた頭
「次飛ばしてくれ。喉がちょっと」
歌い始めてから2時間以上が経過した。大人数ならともかく二人で回しているので、途中で短い会話を挟んでいるとはいえ歌った回数は多く、喉に違和感を覚え始める。
「そっちは大丈夫か?」
「私は大丈夫ですけど、天羽君は痛みますか?」
「いや、まだ痛みは無い」
「それなら良かったです」
心配そうな顔が綻んだかと思えば、吉乃は隣に置いてある自分の赤いバッグから何かを取り出した。
何だろうと思ってみていると、少し身を乗り出した吉乃が「どうぞ」と優しく微笑みながら差し出してくれたのはスティックタイプののど飴。
「俺に?」
「他に誰がいるんですか」
のど飴と吉乃の顔を見比べて尋ねた響樹に、彼女は少し呆れたように笑う。
「いや、悪い。ありがとう」
「そうやって最初から素直に受け取ってくれればいいんです」
「素直な俺は気持ち悪いんだろ?」
「ああ言えばこう言いますね」
そう言ってくすりと笑った吉乃はいまだ腰を浮かせたまま。流石にこれ以上待たせるのは悪いなと思って響樹も同じように身を乗り出し、ちょうど二人の間にあるテーブルの上でのど飴を受け取る。
伸ばした手は少し硬いのど飴の感触と、ほんの一瞬だけそれとはまるで違うやわらかな何かに触れた。
「あ、りがとう」
「どういたしまして」
ニコリと笑って腰を下ろした吉乃には変わった様子はない。ほんの一瞬の事だったので気付かなかったのか、それとも全く気にしていないのか。
対して響樹の方は、言葉にも僅かに表れたが内心はもう少し動揺していた。
触れた感触はまず間違いなく吉乃の指もしくは手だ。ちらりと窺ってみれば、透き通るような、雪のような、そんな形容が似合う色合いの手と指。服装が黒いのでそれがより際立つ。
少し力を加えたら折れてしまいそうなほど細いのに、骨と皮だけなどという訳ではなく美しい手指。見た目でもやわらかさを覚えるのは今触れたからだろうか。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない」
少しきょとんと首を傾げた吉乃に頭を振って応じ、貰ったのど飴を口に放り込むと、パッケージ通りに含まれたはちみつの風味が広がる。
「甘い」
「甘い物はダメでしたか?」
「いや、ちょうどいい」
誤魔化しの言葉で少し心配そうな顔をさせてしまった吉乃に首を振りつつ応じると、彼女はホッとしたように笑う。
少し申し訳ない気持ちになりながらも「ありがとう」と残りののど飴を持って吉乃へと手を伸ばすのだが、彼女の方は僅かに首を傾け、髪を揺らした。服の黒とは少し違う色がさらりと揺れる
「差し上げますよ?」
「いや、ありがたいけど烏丸さんも喉痛めるかもしれないし」
「もう一つありますので」
ニコリと笑った吉乃はそう言ってバッグからもう一つ同じのど飴を取り出した。つまり最初から一つは響樹の分として用意してあった訳だ。
「流石。準備のいい事で」
「お褒めいただき光栄です」
自慢げに、そして嬉しそうに吉乃は笑う。そうかと思えば僅かに細められた目を一瞬大きくし、いたずらっぽい笑みへと表情が変わる。
「因みに、これは貸し借りだと思わないでくださいね。天羽君はそのあたり気にしそうですから」
「……了解。ありがたく貰っとく」
あと一月もすれば冬がだいぶ近付き、空気も乾燥する。ストックがあって困る訳ではないだろうしと、同じのど飴をいくつか買って返すつもりだった響樹としては先手を打たれた格好だ。
吉乃はそんな響樹の様子を見てか、どこか勝ち誇ったように笑っていた。
「そろそろ帰りますか?」
「そうだな……」
吉乃は穏やかな笑みを浮かべながらそう尋ねた。
「フリータイムで取ってるし、都合があるなら別だけど時間的にもまだ大丈夫じゃないか?」
帰宅時間を考えたとしても、買い物の時間から考えられる吉乃が夕食の支度をするであろう時刻まではまだまだ余裕がある。
響樹の喉を帰る口実にしたのかもしれないと考えたが、違う。吉乃は自分用ののど飴も用意していたのだからもっと歌うつもりでいたのだと思うし、今日の彼女はずっと楽しそうにしていた。だからきっと、純粋に響樹の喉を気遣ってくれたのだと、そう考えたかった。
「時間が経てばちょっとくらい歌えるだろうし、のど飴のおかげで。それまでは烏丸吉乃オンステージで頼む」
「……天羽君がどうしてもと言うのなら――」
「どうしてもだ」
ぱちくりとまばたきをして、少し照れたように笑いながら上目遣いの視線を向けてきた吉乃の言葉を奪った。もう一度、吉乃の大きな瞳がまばたきを見せる。
「わかりました。それでは、歌います」
「よろしく」
考えが外れていなかった事にホッとしつつ響樹がタブレットを渡すと、吉乃は大事な物に触れるように両手で受け取り、曲を選び始めた。タッチペンを上下左右に、視線は少しだけ上下にそれぞれ動かしながら、楽しそうに。
微笑ましいなと思って眺めていると、顔を上げた吉乃とバッチリ目が合った。一瞬照れくさそうに前髪に触れた彼女の頬が少しずつ膨らむ。
「なんだか、子どもを見るような目で見られました」
「気のせいだろ」
肩を竦めてみせると、吉乃はぷいっとそっぽを向いてしまった。
◇
それから一時間と少し、響樹も何曲か歌いはしたが、基本的には吉乃の歌を聴いている。音楽教室に通っていたので喉が痛くならない歌い方やケアを心得ているらしく、彼女は響樹のようにはならなかった。
「そろそろにするか?」
手首を返して腕時計に視線を落とした吉乃につられて響樹も時間を確認すると、彼女は「そうですね」と穏やかに笑った。
「じゃ、締めの一曲頼む」
「……はい」
ほんの少しだけ眉尻を下げてふっと笑んだ吉乃が選んだのは、ドラマの主題歌にも使われたらしい優しい曲調の歌。
澄んだ歌声とマッチしていて非常に心地いい。夜に聴かされていたらそのまま眠ってしまうのではないかと思うくらいに、体の力が気持ちよく抜けていく。
歌っている吉乃とは何度か目が合い、そのたびに彼女は優しい笑みを浮かべ、その中に少しの気恥ずかしさを滲ませていた。
ディスプレイに視線は向けず、そんな吉乃を響樹はずっと眺めていた。
「天羽君、見過ぎです。恥ずかしいではありませんか」
曲が終わると同時に大きな拍手で称えた響樹に対し、恥ずかしそうに笑って頭を下げた吉乃は、顔を戻すと同時に口を尖らせた。
「悪い。綺麗だったから、目が離せなかった」
「え……な……」
不意に口から出た言葉に固まったのは吉乃だけではなかった。
色付いて行く吉乃の顔と僅かに震える口元に、あまりの心地良さで半分寝ぼけていたような響樹の頭が一瞬で覚醒する。
「いや、まあ、あれだ」
しかし、頬を朱に染め僅かに瞳を潤ませたような吉乃の表情が覚醒したはずの脳の働きを鈍らせる。
「帰るか」
「……そうですね」
はあ、と大きく息を吐いた吉乃は穏やかに笑い、小さく頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます