第16話 好きなものと嫌いなもの

 響樹から歌い始めて交互に一曲ずつ、今は吉乃の四曲目。

 カラオケが初めてだと言っていた吉乃はどんな曲を歌うのだろうと、そもそも歌える曲があるのだろうかと思っていた響樹は、彼女の三曲目の辺りでそんな考えを一掃しなければならなかった。


 一曲目は少し切ないバラード、二曲目は有名なアイドルの可愛らしい曲、三曲目は男性ボーカル、そして現在の四曲目は演歌だ。技術的な事は響樹にはわからないが、それぞれで違う雰囲気を出せていてそれが堂に入っている。

 本当にカラオケが初めてなのかと疑いたくなるのだが、一度間違えて入れた曲を消してしまったり、キーを変えようとしてテンポを上げてしまったりと、確かに不慣れな様子も多く見られた。


 恐らくしっかりと予習をしてきたであろう吉乃は、そんな小さな失敗に少し恥ずかしそうな顔をしていた。響樹は一応見ないふりをしておいたが、彼女からは恨めしげな視線を送られた。

 あとは、一曲目を歌い終わった後で満足そうな顔をしたかと思えば、響樹の拍手に気付いて頬を赤らめてはにかみながら毛先をいじる姿は可愛かった。

 澄んだ声でバラードを歌う姿は美しいとすら思ったもので、美しいと可愛いの天秤は中々安定しない。


「お疲れ様」


 四曲目を終えた吉乃に拍手と労いの声をかけると、彼女は「ありがとうございます」とはにかんでドリンクに手を伸ばした。


「レパートリー広いな。しかも上手いし。カラオケ初めてなんだろ?」

「ありがとうございます。カラオケは初めてですね」

?」

「小学生の頃合唱団に入っていましたので、その関係で音楽教室にも通っていました」

「なるほど、どうりで。歌うの好きなんだな」


 歌っている最中は曲の雰囲気に合わせたような表情をしていたが、歌い終わった後の吉乃は楽しそうに見えた。初めてのカラオケを楽しんでいるだけではないのだなと、彼女の説明に納得する。それならば誘って良かったと本当に思うのだが――


「好き……なんでしょうか、私。歌う事が」


 面食らったように目を丸くした吉乃が、どこか茫然とした様子で言葉を発した。響樹に対しての疑問ではなく、自問自答のような独り言に聞こえて、響樹は喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 好きだろう。見ていればわかる、疑いようなど無い。「楽しくなかったのか?」と、そう尋ねてしまいたかった。


「俺にはそう見えた」

「そう、なんですね。天羽君がそう言ってくれるなら、きっとそうなんですね」


 頬を綻ばせて目を細めた吉乃は儚げな美しさを湛えていて、静かな声には嬉しさの色が滲んでいた。本当に綺麗だなと思う反面、響樹は内心ですらそれを褒める気になれない。

 言われた内容については、自身への信用があると受け取れて嬉しくはある。しかし逆に、響樹が歌っている吉乃がつまらなそうだったと言ったのなら、彼女は自分の感情すら誤魔化してしまったのだろうか。そんな事はあってほしくない、そう思った。



 その後の吉乃は吹っ切れたように楽しそうな表情を見せている。

 歌う曲の雰囲気に合わせてはいたが、合間合間で響樹と目が合うと笑顔を見せてくれ、可愛らしいなとそのたびに思った。


 五曲目六曲目と、段々と吉乃の表情が明るくなっていく様は見ていて微笑ましかった。

 しかし七、八曲目と進むと、何故かところどころで彼女が首を捻るようになった。常にという訳ではないが、首を傾げるタイミングで僅かに悲しそうな色を覗かせ、響樹の胸が痛む。


 そして九曲目が終わり、響樹が次の曲を入れようとしたところで、「天羽君」と呼びかけられた。視線を向けると、吉乃が堅い顔をしていた。またも胸が痛む。

 響樹の視線が自身に向いた事で言葉を続けようとしたのか、桜色の薄めな唇が開く。しかし音は聞こえず一瞬で閉じられ、きゅっと結ばれる唇。


「どうかしたか?」

「……楽しいですか? 天羽君は」

「……楽しいけど?」


 何かを言いかけた吉乃に響樹の方から尋ねてみれば、意を決したように開かれた唇から飛び出したのは思いもしなかった質問。

 からかわれているのだろうかとも思ったが、吉乃の顔は真剣そのもので、声もどこか硬い。辛さを堪えるような、そんな風な吉乃に一瞬反応が遅れた。


 正直なところ、素直にこれを言うのは気恥ずかしい面もあった。

 もしも吉乃が普段の調子で、いたずらっぽい笑みを浮かべて尋ねてきたのなら誤魔化すように適当な返事をしただろう。だが、今日の、今の彼女には本心を伝えなくてはいけないと思った。


「楽しんでるよ」

「そう、ですか?」

「ああ。ってか何でそう思ったんだよ」


 目つきが悪い自覚はあるが、私服だとそれがマシになると言ってくれたのは吉乃だった。今日の響樹は不機嫌そうな顔をした覚えが――優月が来た時にはしたかもしれないが――ない。特に歌い始めてからはずっと、楽しかった。


「天羽君、時々とても辛そうな顔をしていましたよ?」

「俺が?」


 響樹を気遣うように、労わるように、優しい声色。それなのに、この上なく整った顔には悲しい色が滲む。


「そんなはずは……」


 吉乃の表情を見れば嘘など言っていない事は瞭然で、自分自身無意識に彼女を不安にさせるような顔をしていた事になる。


「私が歌っている時に何度か。最初は見間違えかとも思いましたけど」


 響樹からすれば無意識なはずなのだが、最悪のタイミングだろう。吉乃はきっと自分を責めている。せっかく楽しんでくれていたのに台無しになった。


「天羽君が歌っている時にも、合間に曲を選んでいる時にも、一度もあんな顔はしていなかったです。だから、私が――」

「それだけは違う!」


 泣きそうな吉乃の言葉で、一つの仮定が頭に浮かんだ。認めたくはないが、恐らく正しい。

 吉乃には知られたくない、響樹の嫌いなもの。


「多分、いや……恋愛系の歌が嫌いなんだと思う」

「恋愛系の、歌?」

「ああ」


 響樹は恋愛に関する話が嫌いだ。当然それを詩にした歌もあまり好きではない。

 それでも吉乃の歌は上手で心地良く、まさか無意識に歌詞に対して拒否反応を起こしているとまでは思わなかった。一体自分はどれだけそれが嫌いなのだと、情けなくなる。


「もっと言うと、恋愛系の話全般がダメだ。だから多分、無意識にそんな顔したんだと思う。ごめん」


 言いたくはなかった。恋愛にまつわる話が嫌いな響樹は、高校入学後割と早い段階で級友たちから空気の読めない奴、ノリの悪い奴という烙印を押された。

 これに関しては仕方のない事だと思っている。そういった話はまあ盛り上がる。それなのに嫌そうな顔をしたり話を拒否したりと、一人水を差す奴がいるのだから周囲としては面白くないだろう。面白がったのは海くらいなものだ。


「歌詞くらいなら大丈夫だと思ってたんだけど、悪い。迷惑かけて」


 世に出ている歌謡曲は恋愛にまつわるものが多い。それが嫌いではカラオケを楽しむ吉乃に水を差したも同然だ。

 級友たちから言われた言葉と同じように思われていたらと怖くて、吉乃の顔が見られなかった。本当なら目を見て謝罪をするべきなのに。


「天羽君……私、梅干しが嫌いです」

「は?」


 何を言われるかと思って身構えていたが、突然訳のわからない事を言われて間抜けな声とともに顔を起こしてしまった。

 吉乃が優しい微笑みを浮かべていた。


「どう思いますか?」

「どうって、別に好き嫌いくらい――」

「誰にでもありますよね? いいか悪いかで言えば無い方がいいでしょうけど、仕方のない事ではありませんか?」

「それとこれとは違わないか?」

「同じですよ」


 ニコリと笑った吉乃は「考えてみてください」と人差し指を立て、言葉を続ける。


「自分の嫌いな物を排斥しようとしたのならともかくですよ? 天羽君は私に恋愛系の歌を歌うなとは言いませんでした。だからただの好き嫌いです。私だって天羽君がいきなり梅干を口いっぱいに頬張りだしたら多分嫌そうな顔の一つや二つすると思いますよ?」

「……そういうもんでいいのか?」

「そういうもんでいいんです」

「そうか」

「ええ」


 息を吐いた響樹に頷き、吉乃は自慢げに笑った。


「ここからはそういう歌を無しにして楽しみましょう」

「ありがとう」

「……やっぱり素直な天羽君はちょっと気持ち悪いですね」

「おい」


 吉乃はそう言ってふふっと笑い、「冗談です」とほんの少し首を傾げてみせた。


 別に嫌いなものが嫌いでなくなった訳ではない。

 それでもだいぶ心が軽くなったような気がするのは、紛れもなく吉乃のおかげだ。


(また大きな借りができたな)


 どうやってそれを返そうかと考えても思いつかない。それなのに何故か、楽しく思えた。

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