第8話 迷子のいじっぱり
「天羽君、一人暮らしを始めたのは二学期からですか?」
「先月の終わりからだな」
生鮮食品コーナーの終わりを迎えた頃に吉乃から尋ねられ、響樹は素直に答えた。
「わかるのか?」と尋ね返してみれば、吉乃は「なんとなくでしたけどね」と少し眉尻を下げて笑う。しかし吉乃はそこで言葉を切り、それ以上は尋ねてこない。
「なんでそんな中途半端な時期から、って聞いて話題を広げるところじゃないのか?」
「私は人様のプライバシーを覗くようなデリカシーの無い人間ではありませんから」
「ああ言えばこう言うな、ほんとに」
「機転が利くという褒め言葉ですね」
いつかの意趣返しをしてやろうと考えたのだが、いたずらっぽい笑みを浮かべた吉乃が一枚上手だったようで失敗に終わった。
少し渋い顔をしている響樹を見てか、吉乃は「天羽君は負けず嫌いですね」と、楽しそうにふふっと笑いながら先を促す。
「買い忘れがないように気を付けてくださいね。行ったり来たりは時間も勿体ないですけど、商品を見る機会が増えますので買うつもりがなかった品物をついつい手に取ってしまったりと、お財布にも優しくないですから」
「あー、なんかわかる」
買い物初心者の響樹はついついあれもこれも欲しくなる。今日はメモがあるのでまだマシではあるが、以前はこれは使いそうだな、これは美味そうだな、などといつの間にか買い物かごが無駄に重くなっていた。
「安いからと言ってたくさん買ったりして結局使えなくて無駄にする、なんて事も注意してくださいね」
「……ああ、それもわかる」
「慣れた方はそういった事も柔軟に織り込んでいきますけど、天羽君は今のところは事前のメモ通りに買い物するのがいいと思いますよ」
「烏丸さんはそういうのはしないのか?」
響樹からすれば吉乃も熟練の主婦のように思えるのだが、本人はそのつもりがないようで少しだけ苦笑を浮かべて小さく首を横に振った。さらりと流れる黒い髪が光を浴びて艶めく。
「本当は安売り情報をこまめにチェックしてそれを基に献立を考えられれば理想的なんでしょうけど、私の場合は労力の割に大した節約になりませんので。もちろんちょうどいい安売り品があれば買いますけど」
「へー、そんなもんか」
「そんなもんです。それに学生の身分ですからまずは学業優先ですね」
「まあ、そりゃそうだな」
吉乃の言う事にどれだけの手間がかかるかは分からないが、そこに全力を費やした結果学生の本分を疎かにしては確かに本末転倒もいいところだろう。その本分で文句なしの結果を出している吉乃が言うのだから説得力も増すというものだ。
その後も吉乃は響樹にあれこれとレクチャーをしながら自身の買い物もきっちりと済ませていく。
そして響樹の買い物が全て終わったところで腕時計に目を落とせば、かかった時間は今までの半分以下。それに少しの驚きを覚えていると、更に大きな驚きが与えられた。
「これでお互い全て買えましたね」
「どういう記憶力してんだよマジで」
響樹の驚嘆を褒め言葉と受け取った――実際その通りだが――のか、吉乃は誇らしげな笑みを浮かべている。
響樹と自身の買い物内容の把握に加えて響樹へのレクチャー。記憶力ももちろんだが、それらのマルチタスクを平然とこなしているところにも吉乃の能力が窺えた。
これならセールに合わせた献立作りも容易なのではと思えるのだが、吉乃が言う以上はそうでもないのだろうという信頼感が勝るほどだ。
「どうでしたか? 今日のお買い物は?」
「すげー効率が良かった」
「そうでしょう? 家事全般に言える事ですが、段取り次第で手間が大きく変わります。目先の労力を惜しむとかえって大変になる事も多いですよ」
またも人差し指を立てたどこか楽しそうな吉乃が、響樹に金言を授けてくれる。
「慣れない内は特にそうですね。慣れてくれば自然と力を抜ける箇所や自分に合ったやり方がわかってきますので、最初はセオリー通りがお薦めです」
「肝に銘じるよ、ありがとう」
ここまでくればもう疑う余地は少ない、吉乃は一人暮らしなのだろう。
同い年の高校生、それも学業成績で響樹よりも上、しかも容姿端麗。学業はもちろん容姿についても、生まれ持ったものだけで皆の羨望を受け続ける事が出来る、などとは流石に思わない。
一人暮らしを始めてから家事の大変さを身に染みてわかっている響樹としては、それをこなしながらも自己研鑽を怠らない吉乃に素直に敬意を抱いたし、今回の件への感謝も増すというものだ。しかし――
「天羽君が素直で気持ち悪いです」
「おい」
じろりと睨めば、吉乃は口元を押さえてふふっと笑い、「冗談です。ごめんなさい」と軽い会釈を見せた。
「まあとにかく、借りが一つ出来た訳だから何かの形で返す」
「気にしなくてもいいですよ」
「いや。返す」
「強情ですね、天羽君は」
「君には――」
「言われたくない。ですよね?」
「……ああ」
苦々しい顔を作って応じれば、いたずらっぽく覗き込んで来た吉乃が勝ち誇ったように口角を上げた。
「試験が終わったら褒めていただく事になっていますから、それに対してのお礼の先渡しという事にしておいてください」
「まだ一位は決まってないだろ」
「いいえ」
響樹としてはたったその程度の事で今回の分と貸し借りゼロになるとは思えなかった。
だから軽口を叩いて別のお礼をしたかったところなのだが、吉乃は真剣な顔でそれを否定する。
「一位をとりますよ。そうでなければ誰も…………いえ。自信があるので大丈夫です」
「……そうか。後から別で礼をよこせとか言っても何もやらないからな」
真剣と言うよりも、怯えていると言った方が正しかったのかもしれない。本当にかすかではあるがそんな色を感じた。一位でなくては価値がない、吉乃が言いかけたのはそれに類する言葉なのだろうか。
だが、吉乃がそんな表情を見せたのもほんの一瞬で、即座に穏やかな笑みを浮かべて取り繕った。だから響樹も、何も見なかった事にしてもう一度軽口を叩いた。
「意外と心の狭い」
「どっちなら満足なんだよ」
わざとらしく驚いたような顔を作った吉乃にため息をついてみせると、「さあ、どっちなんでしょうね」と苦笑が返ってくる。
独り言のように発された小さなその言葉は、誤魔化しではなく吉乃本人にもわからないとでも言いたげに聞こえて、まるで迷子を前にしたような感覚を覚えた。
「まあとにかくだ。九位が一位に言うのも何だけど、試験頑張れよ」
「ありがとうございます。天羽君も頑張ってください」
「ああ、ありがとう」
「こちらからもそうですね、天羽君が順位を上げたらお祝いに良い物をあげましょうか」
ニコリと微笑んだ吉乃を見て、元通りの彼女だと安心した響樹だったがそれも束の間、いい事を思いついたとばかりに吉乃は口元を押さえてふふっと笑った。
「借りが増えるから遠慮しとく」
「却下します。と言うか、良い物と言ったんですから『何?』くらい聞いたらどうですか?」
実際に興味はあったのだが、聞いてしまえばきっと借りを増やしてしまいたくなる。
吉乃が「良い物」と言う以上は響樹が欲しがりそうな何かなのだろうと、そこを疑う気にはならなかった。
そんな響樹に吉乃は口を尖らせて「むー」などと言っていたが、一瞬目を見開いたかと思えばすぐにいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それじゃあそろそろレジに並びましょうか」
「……ああ、それじゃあな」
そんな吉乃の表情に一瞬身構えた響樹だったが、飛んで来たのは普通の言葉。
そう思ったのは吉乃への理解度が足りなかったと、次の瞬間思い知らされた。
「試験後を楽しみにしていますので、天羽君も楽しみにしていてくださいね」
「俺は別に――」
「放課後はほとんど図書室にいますので。それでは失礼します」
「あ、おい。……気をつけて帰れよ」
有無を言わさぬ吉乃に諦めて声をかければ、優しく微笑んだ彼女が軽く腰を折り、その綺麗な髪を揺らした。
「どうやって返そうか、借り」
そう呟いて、順位が上がったつもりでいる自分に気付き苦笑した。
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