第9話 試験後の約束①
スーパーで吉乃と無理矢理約束をさせられたのが木曜。響樹は金土日と祝日の月曜、今までの試験前よりも勉強に励んだ。本来であれば行いたくなかった睡眠の犠牲も多少は許容した。
受験を見据えて勉強するのであれば、一度の定期試験に対して睡眠時間を削るという行為が愚かな事だとはわかっている。それでも、ただその一度に限定するのであれば一夜漬け――徹夜こそしていないが――は有効な手段なのだ。
別に彼女の言うご褒美に乗せられた訳ではないと響樹は思っている。
ただ、一位をとると断言した吉乃の前に立つために、少しでも順位を上げておきたいという小さなプライドがあったのではないだろうか。
その甲斐あってか週明け火曜日の試験では少しだけ手応えがあった。
試験の難易度としては前回とさほど変わりがなかったように思うので、これならば順位を上げる事も叶うだろう。
試験は一日で六科目全て行われるため、それまでの勉強疲れもあってかクラス全体がぐったりした雰囲気に包まれている。
今までの試験も同様だったし、恐らく例年そうなのだろう、担任の教師は苦笑交じりに二分ほど話し、早々に帰りの
それから少しずつ、教室に話声が広がっていく。休み時間は直前の勉強に充てる者がほとんどなので、試験についてのああだこうだはこの時間から始まる。
響樹とそんな話をする相手である海は、最終時間が苦手の数学だったためいまだに机の上で潰れており、近くの席の級友に背中を叩かれていた。
響樹としては社会二科目でそれなりの手応えを感じた礼をしておきたかったのだが、海の隣の席を中心とした輪が広がってしまっている。
諦めて帰る事にした響樹は隣のクラスを一瞬だけ覗いてみたが、誰よりも目立つであろう目的の人物は既に見当たらなかった。
(烏丸さんは試験どうだったか)
そんな事を考えると、自慢げに笑う吉乃の顔がふと脳裏に浮かび、響樹からは苦笑が漏れた。
◇
試験があった週の金曜日の帰りのHR、試験結果の個人票が配布された。
個人票には科目ごと及び総合の得点と順位、平均点が記載されており、これは必ず試験のあった週の金曜までに渡される事になっている。
今回の試験は祝日の関係で火曜に行われたため教師陣は採点が大変だったとは思うが、答案は今日の午前までに全て返却が済んでいた。
そこまでするのは、自分の試験結果を踏まえて週末――土曜は一応半日授業があるものの――を過ごせという意味があるのだという。
HR後に試験結果について海と少し話した後、吉乃に言われた通り早速図書室に向かった響樹だったが、目当ての人物を見つけるのに苦労した。
探す事五分ほどだっただろうか、入り口から見えない奥まったエリアにある一間程度の折り畳み式長机の前で、吉乃は綺麗な姿勢で座っていた。
「ここ、いいか?」
「……ええ」
参考書を開いて勉強中の吉乃に声をかけるのは少し憚られたが、流石学年一位の集中力と言うべきか、彼女が響樹に気付く様子はまるでなかった。
諦めて声をかけると、ゆっくりと上げられた顔には最初穏やかな笑顔が浮かんでいたが、響樹を認識した吉乃はニコリと笑う。端正な顔が与える影響のせいかこの上なく品の良い笑みだと感じる反面、どこか自慢げな様子が見え隠れする。
「一位おめでとう」
「……ありがとうございます。どなたかから聞きましたか?」
そう言ってから腰を下ろして正面を見れば、吉乃は少し驚いたように目を丸くしていた。
「いや。顔見りゃわかる」
「不覚です」
握っていたペンを離し、吉乃は自身の頬に触れて指で少し押した。指に込められた力は大した事がないように見えたが、白雪を思わせる肌にふにふにと沈む。
(やわらかそうだな)
全体的にとてもスレンダーな吉乃は、顔もどちらかと言えばシャープな印象ではあるが、こうして見ると女性的なやわらかさも兼ね備えているようで不思議で仕方ない。
「天羽君は私の
「……大人だから気にしないんじゃなかったのか?」
「何の事です?」
「わざとらしい。ご自慢の記憶力はどうした」
わざとらしくきょとんと首を傾げる吉乃に、図書室という事を差し引いてもなお小さく吐き捨てると、彼女はふふっと笑いながら口元を押さえる。
「まあとにかく、一位だったんだろ? 改めておめでとう」
「ええ、一位でした。ありがとうございます」
ほんの少しだけ誇らしげに微笑んだ吉乃が軽く頭を下げて濡羽色の髪を揺らす。首だけでしたものではなく背筋が伸びた綺麗な会釈をした吉乃は、そのまま隣の椅子に置いてあった鞄から試験の個人票を取り出した。
「見ますか?」
「いや、いい」
来週になれば結果は貼り出されるのだからここで嘘をつく意味などないし、そもそも一位だろうと思っていた。何より吉乃がそんなつまらない嘘をつくはずがない。
「そうですか。それでは」
個人票をしまい直した吉乃はニコリと笑いながらあざとく首を傾け、響樹に向かって手を差し出した。手のひらを上にし、何かをよこせと言わんばかりに。
「何か欲しいのか?」
「約束したものを頂きたいと思いまして。忘れていませんよね?」
「……ああ」
そのためにわざわざここに来た訳で、当然覚えている。実際のところ切り出し方をどうしようか悩んでいたので吉乃から言ってもらえたのは助かった。
向かいの吉乃はそんな響樹の内心など当然知らず、にこやかな笑みを浮かべている。先ほどと同じで、顔の良さが作り出す淑やかな雰囲気に反した印象を受けるのは、彼女の瞳が期待に輝いているように感じるからだろうか。
(何と言うか、やっぱちょっとだけ子どもっぽい感じなんだよな)
何度か見た猫被り時は大人びていると言って差し支えない雰囲気であったし、他人に褒め言葉を要求するような事もしていないだろう。そもそも、要求するまでもなく誰もが口々に吉乃を褒めるのだが。
そう考えると、どうして吉乃は響樹の褒め言葉などを欲しがるのかという疑問が浮かぶが、尋ねても答えてはくれないだろうという気がした。
先週スーパーで会った時、吉乃が誤魔化し響樹が見なかったフリをした一位に固執する姿。なんとなくだが、あの時と同じように彼女の秘密なのではないだろうか。
(まあ、何はともあれ)
「一度しか言わないからな」
「ええ、十分です。記憶力には自信がありますから」
ほんの少し自慢げに、吉乃はニコリと笑う。
「あー、一位おめでとう。凄いと思う。上から言うみたいで申し訳ないが、四連続一位だし、凄い頑張りだと思う。素直に尊敬する」
面と向かって褒めるのはやはり恥ずかしく、視線を逸らしながら伝えたのだが、言い終わって五秒ほど経っても吉乃からの反応が無い。ちらりと窺ってみると、切れ長ぎみの大きな瞳を丸くした吉乃がまばたきを忘れていた。
「……ダメだったか?」
「……いえ。すみません。天羽君が意外にしっかりと褒めてくれたので驚きました」
「俺を何だと思ってる」
全てが本心だ。
県下有数の進学校であるここで一位を取り続ける事の難しさは響樹にだって想像はつく。才能がなければ不可能ではあるだろうが、吉乃がそれを頼りにするだけでなく研鑽を怠っていない事はわかっていたし、今し方見せてもらった集中力もそれを証明していた。
「意外に優しい同級生だと思っています」
真面目な調子でそう言った吉乃が、優しい微笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「ありがとうございます、天羽君」
先ほどと同じく美しい、そして先ほどよりも少し深い礼。さらりと大きく動いた髪がとても綺麗だった。
そして響樹の前に戻ってきた吉乃の顔には変わらず優しい微笑みが浮かんでおり、やはり綺麗だと思った。造作だけの話でなく、やわらかな雰囲気を感じさせる表情が良く似合う。顔色が変わった訳でもないのに、新雪のような頬の色に冷たさを感じはしない。
「どうかしましたか?」
「いや、別に」
まさか綺麗だと思ったと正直に言う訳にもいかず、響樹は首を傾げる吉乃に対して誤魔化しを口にした。
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