第2話 いじっぱりの恩返し

 翌朝響樹が家を出ると、言っておいた場所に傘が立てかけられていた。黒い傘に添えられた白い封筒がよく目立っている。

 自室の玄関に傘を置きに戻り、封筒を開く。シンプルな横長の洋封筒から出てきたのは、やはり同じくシンプルな横書きの便箋。吉乃のイメージには合うような気がした。


 便箋には傘を借りた事と体調に問題がなかった事に対する礼が丁寧な言葉と文字で綴られており、こちらもやはり印象通り。ただそれだけに、昨日のいじっぱりな吉乃の様子をつい思い出してしまう。

 響樹はその手紙にもう一度目を通し、封筒に戻して机の引き出しにしまった。別に靴箱の上に置いておいてもよかったではないかと登校中に思い返したが、過ぎた事だと気にするのはやめた。


 善行と呼べるような代物ではないが、一応その結果として吉乃は風邪をひかずに済んだらしい。響樹が傘を押し付けなくてもそうだったかもしれないが、気分がいいか悪いかで言えば悪い気はしなかった。


「機嫌良さそうだな」


 だからなのか、教室に着くと友人の島原海しまばらかいからそんな声をかけられた。


「そう見えるか?」

「ああ。一人暮らしを謳歌中ってとこか?」

「まあ、ようやく慣れてきた感じはあるな」


 そんな調子で少し雑談をしていると予鈴が鳴り、海は「その内遊びに行くから片付けとけよ」と言って席に戻って行った。



 一日まあまあな気分で過ごした響樹は、帰宅後に制服から私服に着替えて学校とは反対方向に約10分ほど歩き、一番近いスーパーに辿り着いた。

 昨日は予想外に雨が長引いたので、結局スーパーよりも近いコンビニで夕食を済ませた。今日こそはしっかりと買い物をして、少なくとも土日の分までの食材を冷蔵庫に入れておきたい。


 しかし、そんな気合とは裏腹に食材を探すのにも選ぶのにも時間がかかる。海には一人暮らしに慣れてきたと言ったし、実際に多少慣れてきているとは思う。しかし引っ越してから二度目となる買い物には、まだまだ慣れる気配すらない。

 料理自体はそれなりにできる響樹だったが、一人暮らしの自炊で求められるのは調理スキルだけではない。初回の買い物で思い知らされたが、ある程度買う物を決めておかなければ買い物の効率は著しく落ちる。


 引っ越し後の片付けでそこまで気が回っていなかった響樹は、結局今回も店の中を散々うろうろしながら買い物を終え、疲労感を覚えながらサッカー台に辿り着いた。

 袋詰めも苦手なんだよなあと思いながらため息をついたところで、隣から声をかけられた。


「こんばんは。またお会いしましたね」

「……どうも」


 見慣れた制服姿の烏丸吉乃からすまよしのが、穏やかな笑みをたたえながらそこにいた。


昨日さくじつはありがとうございました。おかげ様で体調も崩さずに済みました。傘は受け取っていただけましたか?」

「ああ。手紙も読ませてもらった」

「よかったです。重ねてありがとうございます」


 軽く頭を下げた吉乃に「どういたしまして」とだけ返すと、彼女の方もそれ以上何も言わずに通学鞄から白いエコバッグを取り出して袋詰めに移っていった。


(上手だな)


 ちらりと視線をやってみたのだが、吉乃の袋詰めは上手で、エコバッグは形を保ったまま膨らんでいく。

 対して響樹の手元にあるビニール袋は酷いものである。


「卵は下に置くと安定するのでおすすめですよ」

「え? 割れないか?」


 そんな惨状を見かねたのか、吉乃が響樹にアドバイスをくれた。

 しかしにわかには信じがたい。


「卵のパックは上下からの圧力には強い造りになっていますから割れませんよ。もちろん絶対と言う訳ではありませんけど、今日のお買い物の内容でしたら相当変な詰め方をしない限りは大丈夫だと思います」

「へえ」


 試しに上の方に乗せた卵パックを軽く押してみるが、確かに思っていたより耐久性が高そうだった。


「因みに他にはどんなテクが?」

「そうですね」


 自分の方の袋詰めを終えた吉乃が「昨日のお礼という事で」とふふっと笑い、響樹の方へ向き直る。


「この内容でしたら――」


 土台を作るだの壁を作るだの、吉乃はまるで家でも建てるかのような言葉を使いながら手ほどきをしてくれ、その通りに詰めた響樹の袋はしっかりと整った姿へと変貌していた。


「おおっ! 凄いな。こんなに変わるのか」

「ええ」

「助かったよ、ありがとう」

「どういたしまして」


 穏やかな笑みをたたえたままの吉乃に礼を言うと、その表情に少しだけ喜色が浮かんだように思えた。


「返せないと思っていた恩が返せてホッとしています」

「たかが傘を貸したくらいで大袈裟な」


 一瞬呆れたような目をした吉乃がニコリと笑う。昨日と同じで少し圧のある笑顔だ。


「普通のやり取りの末にお貸しいただいたのならともかく、拒んだ私に無理矢理でしたから――」

「おいやめろ。人聞きが悪い」


 慌てて言葉を遮り辺りを見回してみるが、今の話を聞かれた様子はなさそうで響樹は軽く息を吐いた。

 そんな響樹を見た吉乃は口元を押さえてくすりと笑う。


「こちらのお返しもできましたので満足です」

「お返し?」

「ええ。昨日はやり込められたような形になってしまいましたので。もちろん感謝はしていますけど、少し悔しかったのも事実です」


 自慢げな笑みを浮かべる吉乃に、響樹はため息をついてみせた。


「君、やっぱり負けず嫌いなんだな」

「あなたに言われたくはありませんね」

「自覚はあると」

「ええ、まあ」


 あっさりと認めるんだなと意外に思った。学校で聞こえてくる吉乃の評判とはやはり違うが、彼女に気にしたそぶりはなくすまし顔をしている。


「まあ何はともあれ、これで貸し借りはゼロって事でいいか?」

「ええ。とてもすっきりしました」


 晴れ晴れとした笑みを浮かべ、吉乃は姿勢を正して響樹へと向き直る。


「改めまして、傘をお貸しいただきありがとうございました」

「こちらこそ。袋詰めのコツ教えてくれて助かった」


 吉乃はきっちりと、響樹は軽く頭を下げてお互いに感謝を述べる。

 それが終わって顔を見合わせると、吉乃は何がおかしかったのか口元を押さえてふふっと笑った。


「それでは、そろそろ夕食の支度もありますので失礼します」

「ああ。日が落ちるの早くなってきてるから気を付けてな」

「ありがとうございます。失礼します」

「ああ、それじゃあ」


 今度はお互いに軽く会釈程度で済ませ、そのまま店を出て反対方向に別れた。


「烏丸さんも一人暮らしか?」


 帰り道でふと思い至ったが、買い物にも慣れている様子であったし、今から夕食の支度をするとも言っていた。

 響樹が言えた義理ではないが高校生の一人暮らしなどは中々に珍しいだろう。通う高校は県下有数の進学校ではあるが、これといった特色がある訳でもないのでわざわざ選んで越境入学をしてくるほどとも思えない。


(まあ関係無いな)


 仮に一人暮らしだとしてもよその家庭の事情、響樹が興味本位で顔を突っ込むような事ではない。

しかも烏丸吉乃は天羽響樹という個人を認識すらしていない。もうこれ以上関わる事もないのだから。

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