いじっぱりでさみしがりな彼女が完全無欠の美少女であり続ける理由

水棲虫

一章

第1話 濡羽色の美少女

 天羽響樹あもうひびきは家庭の事情により高校一年の九月末という中途半端な時期から一人暮らしを始める事になった。

 最初はどうなる事かと思っていた響樹だったが、引っ越し完了から数日して十月に入った現在、少しずつ八畳1Kの部屋にも慣れてきたつもりでいる。


 部屋の隅にはまだ何箱かのダンボールが積まれているが、一人暮らしに必要な荷物の量が分らなかった結果で、直近で必要な物は全て荷解きが済んでいる。

 なので残りは徐々に進めていくつもりで放置してあるのだが、覗き込んだ冷蔵庫の中身は放置しておけない状態だった。


「買い物行くしかないよな」


 視線をやった窓の外ではそれなりに強い雨が降っているが、夕食を抜きたくもない。

 予報では降ると言っていなかったので雨もすぐに止むだろうと判断を下し、傘を持って部屋を出てアパートの階段を下ると、軒先には人影があった。


 後姿ではあったが響樹と同じ高校の制服を着た女子だとわかる。恐らく雨宿りだろう。

 身長は高校生の女子としては恐らく高い部類、それでいて非常に細身で脚が長く、後姿だけでも相当に目を引く。特に――


(髪、綺麗だな)


 腰より少し上までまっすぐに伸ばされた黒い髪は僅かに青みがかったように見える。濡羽色ぬればいろと言うのだったかなと思いながら、その髪から視線を外せないままに響樹が歩を進めると、軒下の彼女が振り返った。


「すみません。急な雨で、雨宿りをさせてもらっています」

「あ……」


 響樹が上手く言葉を発せなかったのは少女の容姿があまりにも整っていたから、だけではなく、知っている相手だったから。

 烏丸吉乃からすまよしの、それが申し訳なさそうに頭をさげた誰もが見惚れるほどに美しい少女の名前で、響樹と同じ学校で同じ学年、隣のクラスに在籍している。


「ええと、気にしないでください。そこに立ってても邪魔にはならないし、そもそもここ俺の所有物じゃないし」

「ありがとうございます」


 穏やかに微笑んだ吉乃は、当然ながら響樹の事を知らないようだった。しかし響樹は彼女の事を知っていた。むしろ同じ高校で吉乃の事を知らない生徒はいないと断言できる。


 吉乃を端的に言ってしまうのであれば、成績優秀な可愛い女子。そしてそのどちらにもとびきりという修飾がされるほどの、完全無欠の美少女。


 まず容姿については一目瞭然。

 美しい黒髪と対照的に肌は透き通るように白くきめ細やか。

 長い睫毛に縁どられた切れ長ぎみの大きな目も、形の良い緩やかなアーチを描く細めの眉も、高く通った鼻筋も、桜色の薄めな唇も、一目見れば忘れられないほどに美しい少女であるというのが全校一致の意見であるらしい。


 加えて試験成績は二位に大差をつけてぶっちぎりの一位。総合平均点が五割を切る試験で常に九割以上をマークしている。

 そして立ち振る舞いの上品さと品行方正っぷりから、良家のご息女であるとの噂も聞いた事があった。


 言ってしまえばこの上ない高嶺の花なのだが、一生懸命に手を伸ばそうとする者も多いようで、響樹の友人が言うには夏休み前の時点で足の指まで使っても数えきれないほどの男子からアプローチを受けたとの事だ。

 響樹としてはそんな噂は眉唾だと考えていたが、すれ違いざまに近距離から吉乃を見れば意外とあり得るのではないかと思えてしまった。それほどまでに彼女の容姿は整っている。


「そういう事なんで、雨宿りくらいならご自由に――」


 ただ、それでも響樹には関係ない。そう思いながらそのまま通り過ぎようとした時に気付く。ブレザーが紺色なので分かりづらいが、吉乃の肩の辺りが少し濡れていた。

 まだ十月頭とは言え雨の降る夕方、こんな所に長居をしたら風邪をひく可能性も低くないと思えた。雨が止むまでにそれほど時間はかからないだろうが、早めに着替えるに越したことはない。


「この傘使ってくれ。ちょっと濡れてるみたいだし、早く帰った方がいい」

「え?」


 突然立ち止まった響樹に対し僅かに首を傾げた吉乃に傘を差し出すと、彼女は少しだけ目を丸くして傘と響樹へ交互に視線を送り、それから口を開いた。


「ありがたいお申し出ですけど、あなたが困るのではありませんか? 目的があって出てこられたのでしょう?」


 丁寧な口調ではあるが雰囲気は少し硬いように思えた。僅かに窺えるのは警戒の色、だろうか。

 響樹からすれば放っておいた結果風邪でもひかれたら罪悪感が残りそうで嫌なだけで、別に下心がある訳ではない。しかしそれを説明するのもわざとらしくて嫌だった。


「部屋に戻ればもう一本あるし、外に出てみたら思ったより寒かったからもうちょっと後にする事にした。どうせコンビニにアイス買いに行くだけのつもりだったし」


 口からでまかせを並べながら「ほら」と改めて傘を差し出すと、少し悩んだ様子こそ見せたものの、吉乃は「ありがとうございます」と穏やかに笑い、綺麗に腰を折った後でそれを受け取った。


「それじゃ、俺は部屋に戻るから気をつけて」

「待ってください。お名前かお部屋を教えていただけますか? お借りした傘をお返しできませんし」

「そこに置いといてくれればいい」


 集合ポスト脇のスペースを指差すが、吉乃は納得しない。整った眉を僅かに寄せ、遠慮がちに反論をしてくる。


「流石にそれでは失礼になりますし、他の方に持って行かれてしまう可能性もあるのではありませんか? せめてお名前だけでも」

「名乗るほどの者じゃない」


 まさか一生の内で言うとは思っていなかった台詞を吐き、今度こそと思って軽く手を挙げると、吉乃はニコリと微笑んだ。

 ほんの少しだけ口角を上げて僅かに目を細めた顔は、元々この上なく整っている事もあいまってそれはもう見惚れるほどに綺麗だったのだが、何故か威圧感があるような気がしてならなかった。


「お名前をお教えいただけないのであれば傘もお借りできません」


 そう言って一度は受け取った傘を両手で丁寧に響樹へと突き返す。圧を感じさせる笑顔はそのままに。


「いやいや。濡れてるんだからさっさと帰れよ。そんなとこに突っ立ってられても邪魔だし」

「先ほどは邪魔にならないと仰いませんでしたか?」

「記憶違いだろ」

「記憶力には自信があります」


 さすがは学年首席。などと少し場違いな事を考えた響樹だが、目の前の少し自慢げな吉乃にかすかな違和感を覚える。

 直接話した事はなかったが、烏丸吉乃と言う少女は人当たりの良さも有名で、だからこそ高嶺の花でありながらも多くの男子から言い寄られていると聞いていた。

 いつでも穏やかな笑みをたたえ、容姿や出来の良さを鼻にかける事もなく、嫌味もない。少なくとも表立って吉乃を悪く言う声を聞いた事はなかった。


「ああ言えばこう言うな」

「それはあなたの方ではありませんか?」


 それなのに、今目の前にいる吉乃はどこか勝ち気に見える。

 もしかすると意外に負けず嫌いと言うか、いじっぱりなのかもしれない。

 名乗るほどの者じゃないなどと言ってしまった手前もあり、意地を張って名乗らない響樹が思えた義理ではないが。


「とにかくだ。もう貸したから俺はそれを受け取らない。どうする? ここに置いてくか? ここに傘を置くって結果が同じなら使ってから置きに来た方が合理的じゃないか?」

「……雨が止むまで待ちます。そうすればあなたもお買い物に出て来ますよね?」

「寒いからアイス買うのやめた。今日はもう部屋から出ない」

「ずるいです」


 少しムスッとした様子の吉乃は、誰もが見惚れるような完全無欠の美少女と言うよりも、ほんの少しだけ幼く見えてとても可愛らしかった。

 だから自然と笑いが漏れてしまったのだろう、恨めしげな視線が響樹に向く。

 だがそれでも、もう吉乃が理屈を捏ねる事は難しいはずだ。響樹は今度こそ背を向けて階段を上った。


「あの! ありがとうございました」


 背後から聞こえたお礼の声に振り返らぬままひらひらと手を振って応え、そのまま自室に戻った。


 その後気になって僅かに開けた窓の隙間から外を覗いていたのだが、割とすぐに見覚えのある傘がアパートの敷地から出ていくのが見え、響樹は胸を撫でおろした。

 そうかと思えば黒い大きな傘は立ち止まり、少しだけ響樹のアパートの方へと傾いた。恐らく吉乃が軽くお辞儀でもしたのだろう。


「律儀だな」


 響樹はたまたま見ていたが、吉乃がそれを知る術はない。きっと彼女の謝意なのだと響樹は受け取った。もしかしたら意地もあるのかもしれない。

 そんな事を思うと、またも少し笑みがこぼれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る