長い一日 ~逃走
「アキちゃん、手を後ろに縛られてるフリして。外に出て合図したら走るよ。できる?」
耳元で囁くようなアーシュさんの問いかけに、ゆっくり息を吸って、しっかりと頷く。
……大丈夫。ちゃんと動ける。
アーシュさんと一緒にじりじりと幌の出口に身を寄せる。
「なんだ! どうした!」
「脱輪だ! だから言っただろう!」
男たちの苛立ったような怒鳴り声が聞こえてくる。
「早く直せ!」
「分かっている! とりあえず中の二人を降ろさないとどうにもならんだろう!」
だんだん近づいてくる声は、緑灰の目のあの人だろうか。ほんの僅かな交流だったのに、他の人でないことがなんとなくホッとする。
「待て。降ろすことは許さん!」
「何を言ってるんだ!? そのままじゃ車輪は直せないだろう!」
幌のすぐそこで、言い合う声がする。
「逃げられたらどうする!」
「この暗闇では逃げられんだろう! しかも、相手は両腕を縛られているんだぞ!」
「………………」
どうやら、緑灰の人はわたしたちを降ろそうとしていて、他の男がそれに反対しているようだ。声の感じからして、反対しているのは、あの黒い目の男ではなさそうだ。
「……いいだろう。降ろせ」
……この声は、あの男だ。
偉そうだと思っていたが、この中でもやはり偉い立場らしい。男の言葉を合図に、幌がガサガサと揺れる。
やがてゆっくりと幌が開き、男が中を覗き込む。後ろからランプに照らされているため、目の色は影になって確認できなかったが、輪郭から、緑灰の目の人だと知れた。
「……あんたから順場に降りろ」
わたしとアーシュさんの腕をチラリと見て、わたしに告げる。
「先に降ろすのはいいけど、どこかに移動させる時は僕を待ってくれ。この子は結構繊細なんだ」
「ああ」
小屋を出る前に、わたしがパニックを起こしかけたのを見ているので、特に拒否はされなかった。
アーシュさんを振り仰ぐと軽く頷かれたので、後ろ手に縛られたフリをしたまま、出口ににじり寄る。
「……そのまま」
荷台の端まで来ると、緑灰の人は、わたしにしか聞き取れないような小さな声でそう呟いて、わたしを荷台から降ろす。
脇の下を抱えられて降ろされたので、腕を動かさずに済んでホッとする。
そのまま、緑灰の人と荷馬車に挟まれるように立って、アーシュさんが降りてくるのを見守る。荷馬車を背に男たちに向き直ると、暗さもあって、縄がほどけていることに気付く人はいないようだった。
そうして、後ろは荷馬車、前は二人の男に見張られた状態で、車輪が直るのを待つ。見張っている男たちの後ろは闇に塗りつぶされたように真っ暗で、ランプの明かりが届くほんの森の入り口にだけ、雪に埋もれた木が薄っすらと浮かび上がっている。
あの、迫りくるような圧倒的な黒の中に、飛び込まなければならないのだ。
……いつ、逃げるの。
時間が過ぎるのが、妙にゆっくりに感じられる。それが、修理に手間取っているせいなのか、緊張で鼓動が身体中に激しく打ち付けられているからなのかは分からなかった。
「直ったぞ」
緑灰の目の人がそう言うと、黒い目の男がアーシュさんに、顎で荷台を指す。
どうするのかと緊張して見ていると、アーシュさんがわたしを見てニッコリと笑った。
「じゃあ、先に乗るね。大丈夫だよ」
………………え?
アーシュさんは、抵抗する様子もなく、あっさりと荷台に戻る。
ちょっとポカンとしていると、すぐさまわたしも抱えられて荷台に戻される。
それから、何事もなかったように荷馬車が走り出す。
「……たぶん、また脱輪する」
わたしがアーシュさんを見上げると、アーシュさんが小さく呟く。
「……え?」
「敵の敵は味方ってことだね」
アーシュさんが何を言っているのかは分からなかったが、それからしばらく進むと、また、馬車が激しく揺れて、停車する。
怒鳴り合う声の中に、脱輪という言葉が聞こえた。
それから更に2回、同じことが繰り返された。
脱輪して止まり、荷台から降ろされ、直るとまた戻される。その間、アーシュさんが逃げようとする素振りは、全くない。
「……アーシュさん…………」
「うん」
さすがに不安になってアーシュさんに呼び掛けると、少し緊張した様子で返事が返ってきた。
「そろそろだよ」
「え?」
「向こうの男たちにだいぶ油断が見えてきた」
「え?」
アーシュさんの言葉に目を見張る。
「ただ、あの黒い目の男だけは油断を見せない。恐らく、これ以上何度やっても変わらないだろう」
「……油断させようとして、何度も脱輪させてたの?」
「たぶんね」
「…………あの人が?」
アーシュさんが静かに頷く。
「理由は分からない。もしかしたら、このままだと自分の身が危ないと感じているのかもしれないね」
ヨルクさんとアーロさんは、戻って来なかった。あの人も、用事が済んだら同じことになるかもしれない。
「彼は、僕らが縄を切っていることに気付いてるよ」
「…………うん」
それは、なんとなく気付いていた。
いくら暗いと言っても、あれほど何度も抱き上げられて、気付かれないはずがない。
「……たぶん、次だ」
アーシュさんの言葉に、ハッとして顔を上げる。
「一緒に逃げるつもりなのかは分からないから、その時に判断する。僕がアキちゃんの手を引くから、アキちゃんも絶対に離れないようにね」
境光の落ちた森は真の闇だ。
いつか、境光が落ちた夜中に廊下を歩いた時の恐ろしさは、まだ覚えている。
あの時は邸の廊下で、わたしの邪魔をするものなど全くなかったのだが、今回は違う。進むのはきっと、道のない森の中で、膝下まで埋もれる雪の中だ。恐怖は計り知れない。
「大丈夫。僕は絶対に、アキちゃんを助けるからね」
吐き気がするほどの緊張を覚えて、それでも拳を握って静かに心を固めていると、それを見透かしたように、アーシュさんが笑った。
……大丈夫。アーシュさんがいてくれるから、大丈夫。わたしは絶対、ダンの元に帰るから。
「脱輪だ!」
「クソッ!何度目だ!?」
男たちの怒号に、隠す気のない苛立ちが混じる。
「遅れるだろう、早くしろ!」
アーシュさんと二人で荷馬車に背を向けて立たされる。
「まだか!?」
首を伸ばしてイライラと車輪の方を覗き込む。
「もう少しだ。だが何度も脱輪しているからクセになっている」
緑灰の男がそう答えながら作業を続けるのを、男たちが舌打ちしながら見つめる。黒い目の男だけが、修理の様子に興味を向ける様子もなく、静かに佇んでいる。
「直ったぞ」
そう言って、こちらにやって来た緑灰の目が、男たちに背を向けてわたしに手を伸ばす前に、チラリとアーシュさんに向けられる。
「………………」
「………………」
わたしを抱き上げたその人が、わたしをそのままアーシュさんに向かって降ろす。その直後、背後でシャンッという金属が擦れる音がして、男の悲鳴が上がる。
「ギャアァァァッ!」
一瞬にして緊迫した空気に包まれる。荷馬車を背に振り向くと、ランプに照らされた明かりの中で、剣を手にする男の人と、その足元に倒れ伏す人、そして、その右手側で剣を構える人が二人見えた。
立っていた男が、足元に転がる剣をこちらに向けて蹴る。それを、足で跳ね上げるようにして、アーシュさんが掴み、一歩前に出る。
「うおおぉぉぉ……!」
緑灰の人を囲んでいた中の一人がこちらに向かって剣を振り上げる。
キッ…………ン!
金属が擦れる音が後を引くように響く。
思わず体を固くするわたしの前で、アーシュさんが剣で相手の剣を受け止めながら横に流し、体を半分捻るようにして男の左手に回り込む。次の瞬間、剣を横に凪ぐ。
「うっ……、ぐあぁぁ……!」
「ヒッ……!」
アーシュさんの剣は、男の脇腹を掠めるように撫でる。一拍後、振り上げた剣を落とし、脇腹を抑えながら男が蹲る。
「大丈夫! 死んでないよ!」
目を剥いて息を飲むわたしの手を引きながら、アーシュさんが怒鳴る。その言葉にハッとして、急いで足を動かす。
走り出しながら横目で周囲を見渡すと、誰かが、剣を振りかざす相手のその剣を、自分の剣で振り払っているのが見えた。だが、暗い上に混乱していて誰が誰か分からない。
……あの人は……!?
振り払った男が踵を返してこちらに向かってくるのが見えて、必死に足を動かす。追ってくる相手が誰だろうが、とにかく逃げてここを離れなければならないことに違いはない。
「こっち!」
「うぐっ……!」
アーシュさんに引きずられるように必死で足を進めるわたしの後ろで、キンッという金属音と、ザザッと入り乱れる足音と、くぐもった男の声が聞こえてくる。その足音が、いつこちらに迫ってくるかと思うと、更に必死に足を動かす。
雪が積もる森に入る直前、アーシュさんが振り返り様に、ポケットから取り出したものをパッと空中に撒くように広げる。
「!?」
「うっ……、なんだこれ!」
「……ゲホッ、ゲホゲホッ、グッ……いってぇ……!」
男たちの呻き声が聞こえるのを尻目に、アーシュさんが雪の中に飛び込む。ザクザクと、雪を踏む足音が響いて、男たちにわたしたちの居場所を伝える。
わたしが、このまま足音を立てて逃げてはダメだと気付いた直後、アーシュさんが、持っていた動具を後ろに向けて作動させ、横に凪ぐように動かす。次の瞬間、ザーッと音を立てて、地面に積もっていた雪が舞い上がる。
「なっ……!」
「!?」
すぐ斜め後ろから声が聞こえて、心臓が縮み上がる。
息を飲んで振り返ると、緑灰の目が走りながら後ろを振り返っていた。
「あの男は!?」
「あんたのおかげで足止めされていた。あとは分からん!」
アーシュさんの問いかけに男が答える。あの男とは、あの黒い目の男のことだろう。
舞い上がった雪が降り積もれば、それで足跡を消してくれるはずだ。吹雪のように空中で激しく舞う雪は、わたしたちと男たちを分断し、姿も隠してくれる。
「もう少しこのまま進もう。明かりは待って」
途中で何度か風を起こし、森の中を走る。
わたしたちと男たちを分断する吹雪は、同時にわたしたちとランプの明かりも分断する。ほんのちょっと先も見えない中、アーシュさんの手だけを頼りに、雪に足を取られながらも必死に走る。雪は膝の下くらいの深さがあり、時々、スカートが雪や草にに引っ掛かるのを感じる。
……職人の服だったら、もっと走れたのに!
アーシュさんがどこに向かっているのか、どこかに向かっているのかすら全然分からないが、とりあえず息を切らして付いて行く。走っているはずだが、それほどスピードが出ないのがもどかしい。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
もうずいぶん走った気がする。この暗闇の中、道から大きくはずれたら、わたしにはもう自分がどっちに向かっているのかすら分からない。こうして足跡を消して進んでいるので、戻ることももうできない。
……「途中で境光が落ちたらどうするつもりだ!?」
重い足を引きずるようにして黒く塗りつぶされた森の奥深くに入って行きながら、ふと、コスティの言葉がよぎった。
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