長い一日 ~通信機

 馬車の中で急いで描いたランプ代わりのお皿の破片が、炭ほどではないが意外と明るく照らしてくれて、それだけが心の支えのように思える。アーシュさんに引かれているこの手が離れたら、とりあえず光を用意しよう。もう戻ることもできない以上そうして待つしか、わたしにできることはない。


 もうずいぶん歩いた。

 途中で何度か動物に襲われたが、緑灰の目の人が倒してくれた。大型の動物は冬は動かないものが多いらしく、襲ってくるのは中型の動物なのだが、何せ真っ暗闇の中から突然光の中に飛び込んで来るのだ。咄嗟に避けるなんて真似はわたしにはできないので、この人がいなければわたしもアーシュさんも今頃ケガで動けなくなっていたかもしれない。


「ハァ、ハァ、ハァ……」


 ただ歩いているだけなのだが、雪が重く絡まる中で歩を進めるのはとてつもない労力を費やす。喘ぐように必死に息を吸い、体全体でなんとか足を持ち上げては前に落とす。その作業を黙々と繰り返している。

 疲れすぎて眩暈がする。声なんてとっくに出ない。それでも、アーシュさんが止まらない以上、止まったらいけないんだろうと、必死に体に力を込める。


「少し休もうか」


 アーシュさんが息を切らしながら指差した先には大人の背丈くらいの段差があり、その壁面が抉れたように窪んでいた。すぐ近くには小さな池もある。

 少しでも冷たい空気を遮断しようと、その窪みに身を寄せる。


「………………」


 しばらく言葉もなく、土壁に背を持たれかけてしゃがみ込む。止まって口元の覆いをはずして改めて呼吸すると、空気の冷たさに喉が切れそうに痛む。


「…………池、凍ってないね」


 袖で口元を覆い、できるだけ空気を温めて呼吸を整える。多少、しゃべる余裕ができてきた。


「そうだね。湧き水なんだろうね。しかも、少し温かい……かな?」

「湧き水は、凍らないの?」


 アーシュさんが相変わらず家庭教師をしてくれる。池の渕では、緑灰の目の人がしゃがみこんで水を掬っている。冷たくないのだろうか。


「土の中は暖かいんだよ。だから、表面に出てきた時の水は凍るほど冷たくはないんだ。あと、動いてるものは凍りにくいね」


 わたしの息が一番に上がるのは当然だし、緑灰の目の人が鍛えられているから余裕があるのも分かるのだが、アーシュさんが意外と息を切らしていないのが納得できない。そういえば、さっきは剣も使っていた。


「……アーシュさんって戦えるんだね」

「まぁ、気休め程度だけどね」

「薬剤師って、戦う能力も必要なの?」

「…………アキちゃんがナリタカ様と初めて会った旅ね、僕、行けなかったんだよ」


 たしかに、あの旅でアーシュさんには出会ってない。


「僕はナリタカ様が生まれた時から従者になるように言われてたんだよ。もちろん僕自身もそのつもりだった。薬剤師の知識があれば、ナリタカ様がたとえケガをしてもなんとかできるでしょ? 何があってもナリタカ様を助けることができるように、すごく勉強したんだ」

「従者になれたでしょ?」

「うん。だけど、置いていかれた。薬剤の知識があってもダメだった」

「どうして?」

「足手まといになるからって。自分の身も守れないのに、危機に際してナリタカ様の役に立つことはできないって」


 もう7年も前だ。アーシュさんだって、今よりずっと若かったはずだ。


「……ショックだったよ」


 王族の従者というものは、若くてもずいぶんたくさんのことを要求されるらしい。


「ナリタカ様に何かあっても大丈夫なように、努力して身に付けた知識なのに、いざ何かある場面に近くにいられないんじゃ、使い道がない」

「……それで、戦う練習もしたの?」

「そう。あと乗馬ね。僕の馬、元々ナリタカ様の馬だったんだけど、僕が馬に乗れるようになった時に、ナリタカ様からご褒美に下賜されたんだ」


 なるほど。ずいぶんキレイな馬だと感じたことを覚えている。元々王族が所有していたのだと聞かされて、納得する。


「もっとも、戦う方はやっぱりそれほど上達はしなかったけどね」


 そう言ってアーシュさんは笑うが、それでも、ちゃんと自分とわたしまで守れていたのはその練習のお陰だ。


 ……アーシュさんがすごいのは、ちゃんと努力した結果なんだ。


 なんとなく、アーシュさんは普通の人とは違って生まれた時からすごい人なんだという気がしていて、アーシュさんが物知りでも全く驚きもしなくなっていた。だけど、そんなはずはない。生まれた時は誰だって、何も知らずに何も持たずに生まれてきているのだ。今、アーシュさんが持っている物は、アーシュさんが自ら手に入れたものなのだ。


「……アーシュさんも人間だったんだねぇ」

「プッ、ハハ、なにそれ」


 アーシュさんの笑顔は変わらないものだけど、今までよりちょっとだけ身近に感じる。


「ねぇ、そういえば、さっき投げたあれ、なんだったの?」


 森に入る前、アーシュさんが投げ付けた何かで、男たちが急に苦しみだした。あの光景はちょっと怖かった。


「ん? ああ、あれね。調味料だよ」

「へ? 調味料?」

「そ。アキちゃんが取って来てくれた調味料をいろいろ混ぜておいたの。よく分かんない物もあったから適当だけど、刺激物も結構あったからね。助かったよ」


 そういえば、調味料を取りに行くのにとても乗り気だった。わざわざ縛り直されてまで美味しいものが食べたいのかとちょっと不思議に思ったが、あれはそういうことだったのかと納得する。お皿を割っていたことといい、アーシュさんはすごく周到で、演技が上手いんだなと思う。


 ……わたしも身に付けといた方がいいかな?


「……っつ、うっ……く……!」


 アーシュさんと話していると、池の方から呻くような声が微かに聞こえた。あの人の声だ。


「どうしたの?」


 アーシュさんが光を向けると、蹲っているような影が浮かび上がる。しばらく待っても動く気配がない。


「えっ、なに? どうしたの!?」


 一歩踏み出しかけて、ハッとして踏み止まる。最初に攫われたのは、こうしてむやみに飛び出したからだった。どんなに心配でも、一人で飛び出してはいけない。


「アーシュさん……」

「はいはい」


 困ってアーシュさんを見上げると、苦笑しながら先に立ってくれる。アーシュさんは保護者じゃないけど、それでもやっぱり、とても頼れる人だ。


 近付くと、左腕をギュッと抑えて蹲っている。


「え……、腕、ケガしたの?」

「あと、寒いんだろうね。出血して体が冷えたのかもしれない」

「……助けないの?」

「うーん……どうしようかねぇ」


 アーシュさんが迷っている理由がよく分からない。


「彼、犯罪者なんだよねぇ」

「そうだね」

「アキちゃんは気にしないんだね」


 わたしの答えに、アーシュさんが苦笑する。


「だって、さっき助けれくれたでしょ?」

「そうなんだよねぇ……。ただ、彼が僕らと行動を共にして領都に戻ると、それはそれで捕まっちゃうんだよね。しかも、捕まったら処刑されるようなことを言ってたし」

「あ…………」

「でも、ここで僕らが彼に気づかなければ、少なくとも一緒に戻って捕らえられるようなことにはならない」

「でも…………」


 今の時点で蹲ってしまっているのだ。しかも、動具を使うことができないので、体を温める手段がない。


「まぁ、放っといたら凍死するだろうね」


 アーシュさんの言葉に息を飲む。


 どうしたらいいのか、どう判断したらいいのか分からない。何をすることが、この人のためになるのか。


「……アーシュさん…………」

「うん。まぁ、罪があるならそれは白日の下に晒されなければならないし、目の前で死にそうな人を放っておくのは教育上良くないね」


 判断もできず、でも放っておくこともできないわたしがアーシュさんを見上げると、アーシュさんがニッコリ笑って頭にポンと手を乗せる。


「じゃあ、アキちゃん。お願いがあるんだけど」

「なに?」

「この人をどうにかして温めなければならない。どうしたらいいと思う?」


 そんなのは簡単だ。本人が動具を使えないのなら、わたしが使えばいい。


「分かった!」


 さっきの窪みの壁面に神呪を描き作動させ、穴を深める。そこに蹲る体を移動してもらい、以前、ペトラの上着に神呪を描いた時のように、窪みの周囲に神呪を描いて蓋のような膜を作り、その内部を温める。


「…………なるほど。これはすごいね」

「いい考えでしょ?」


 アーシュさんに褒められて、エヘンと胸を張る。


「じゃあ、とりあえず止血をするけど……ここでできることなんてたかが知れてる。あとは、助けが来るまでに体力が持つかどうか、運しだいだね」

「助はいつ来るの?」

「難しいね。そもそも、僕らがどこにいるのか細かいことを知らせる手段がないからね。もしかしたら、敵の方が先に見つけてしまうかもしれない」

「えっ!?」

「なにせ、真っ暗だからね。どんな痕跡を残してきたか想像もつかない」


 たしかに、痕跡が残っていたら、どちらが先かということになるだろう。だが、心配はそれだけじゃない。


「……痕跡が、なかったら……?」

「ああ、さすがアキちゃん。やっぱり、その可能性に気付いちゃうよね」


 アーシュさんの返事に顔から血の気が引くのが分かった。


「…………見つけてもらえない?」

「通信機では伝えられる情報に限りがあるからね」


 アーシュさんがもっているのは普通の通信機だ。あらかじめ決められた言葉しか伝えられない。周りにどんなものがあるのかとか、細かい部分を伝えるのは難しいのだろう。


「………………」

「そこで質問なんだけどね」

「…………なに?」

「アキちゃん、通信機、持ってるよね」

「………………」

「しかも、自分で作ったんじゃない?それも、高性能の」

「………………」

「アキちゃん」


 さすがに、この緊急事態に、唯一頼りにできるアーシュさんに隠し事はできない。

 わたしは上着を脱いで、首から肩を通って脇の下辺りに紐からぶら下がっている通信機をはずす。


「相手はダンさん?」

「うん」

「ちょっと性能を見せて欲しいから、連絡取ってみてくれる?」


 コクリと頷いて、通信機を作動させる。


「……ダン、ダン」

「………………どうした?何かあったか?」


 お休み通信をする時間帯はいつもだいたい決まっていて、後の5の鐘を過ぎたことは一度もない。今日はもう、5の鐘なんてとっくに過ぎている。もしかしたら、もう寝てしまったかもと思ったが、ちゃんと待っていてくれたようだ。


 ……熱を出した時も、待ってたのかな。


 以前、熱を出して倒れてしまった時は、気が付いたらもう翌日になっていて、お休み通信できなかった。

 もしかして、一晩中待っていたのだろうかと考えると申し訳なく思う。


「え…………、え、いや、いや、待ってアキちゃん!? なんかニヤニヤしてるとこ悪いけど、それ何!?」


 アーシュさんが焦ったような声で聞いてくる。そういえば、声で通信するって説明する前に作動させてしまった。


「えっと……通信機?」

「いや、なんで疑問系!? ていうか、どういうこと!?」


 ……アーシュさんが慌てるのって珍しい。


 なんとなく、勝ったような気分になる。戦ってないけど。


「ダン、今ね、アーシュさんと怪我した誘拐犯と森の中にいるの」

「…………誘拐犯はどうしてるんだ?」

「出血がひどかったみたいで気を失ってる」

「当面の危険はないんだな?」

「うん。あ、誘拐犯の人ね、わたしとアーシュさんが逃げるのを手伝ってくれたの」

「………………ハァ。意味が分からねぇな。とりあえず最初から話せ」


 ……ダンのため息って久しぶりだ。


 わたしは、今朝、ペトラとアーシュさんと待ち合わせて楽しく領都を散策したことから詳細に説明した。

 説明し始めてしばらくしたところで、埒が明かないからアーシュさんと替れと言われたので、ペトラとアーシュさんと一緒に行ったレヴァナ・イェンナの鳥肉のハチミツ味噌漬けが美味しかった話を最後に、アーシュさんと交代した。


 ……最初から話せって言ったのはダンの方なのに。





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