長い一日 ~無戸籍の者②

「調味料があんまりないね」

「塩と砂糖じゃダメなの?」


 わたしの言葉に、後ろから覗き込んできたアーシュさんが不思議そうに言う。アーシュさんは絶対自分で料理なんかしたことないと思う。


「森林領ではハーブをたくさん使うんだよ。穀倉領だって、味噌とかいろいろあったでしょう?」

「ああ、そういえばそうだったね」


 笑顔で頷くアーシュさんに、緑灰の男も呆れている。


「……あなたたちは料理はしないの?」

「動具が使えないんだ。火を熾すことができん」

「火を熾すのなんて最初だけじゃない。それと料理は別でしょ?」

「…………別、なのか?」


 緑灰の瞳が自信なさげに揺れる。今まで考えたこともなかったようだ。


「だって、例えば食事処とか、一日の始まりに誰かが火を熾したら、その日はもうずっとその火を使うんだよ? 火を熾すなんて料理人にとってそれほど大きなことじゃないよ。今だって、ほら。もう火はあるんだから動具が使えなくたって料理はできるはずでしょ?」


 もう1人の男が興味を持ったように身を乗り出してくる。さっきの鐘の音で交代した人で、濃い茶色の髪を凍らせて入ってきた時は死人のように唇を紫色にしていた。火にあたって血色が良くなると、こちらも整った顔立ちをしている。茶色い瞳は、光を映すと緑色を含んで見えてキレイだった。


「……火を熾す以外に動具は使わないのか?」


 茶緑の瞳は他の2人よりもキラキラしている。たぶん、成人していくつか過ぎたくらいなのだろう。好奇心を隠しきれていない。


「料理は包丁でやるし、お湯は鍋で沸かすんだもん。動具なんてないよ」

「……動具がなくても、生きていけるのか……?」


 少し不安げに呟く声に、少し考える。


「うーん……、あとは水を汲むこととお手洗いとか……あ、そういえば、あなたたちはお手洗いはどうしてるの?」

「穴掘って埋めてる」

「へぇ…………、んん? それって、農家と同じだよね…………」

「農家?」


 アーシュさんが首を傾げる。アーシュさんは輪番に行ったことはないだろうか。


「うん。アーシュさん、輪番に行って農家のお手洗いに行ったことない?」

「うーん……、輪番は一度だけ行ったことがあるけど、お手洗いは使わなかったなぁ」

「農家のお手洗いはね、焼却処理しないんだよ」

「え、そうなの?」

「うん。蓋は動具になってるけど、基本的に排泄物は下に貯めるようになってるの。だから蓋さえ外しちゃえば、あとは動具になってない」

「……動具になってない?」


 緑灰の男が驚いたように声を上げる。きっと、最新の動具がすぐに導入される立派なお邸とかにしか入ったことがないのだろう。穀倉領でも、領都では焼却処理する動具になっていた。


「うん。排泄物ってね、肥料になるんだって。だからお手洗いの穴に貯めておいて、定期的に取り出して肥料を作るんだって言ってた」

「へぇ~。さすがアキちゃん。不思議なことを知ってるね」


 アーシュさんに褒められて胸を張る。穴に落ちそうな怖い思いをしながらも好奇心に負けて使ってみて良かった。


「あと、農家で思い出したけど、農家の水場って、縄で手繰り寄せるタイプの井戸なんだよ。つまり、組み上げの動具もない」

「……え……、水、汲めるの?」

「……動具が、いらない…………」


 2人が動揺したように呟く。


「しかも、穀倉領は森林領ほど寒くないから、こんなに服も着込まない。ブーツとか履かない」

「………………」

「………………」


 言葉もなく立ち尽くす2人を見て、そんなことも知らないのかと同情する。知っていればもしかしたら、嫌なことをさせられる前に抜け出して、新しい生活を送るなりしていたのかもしれない。


 ……ずっと同じ環境にいたのなら、知らなくて当然なんだ。


 わたしだって、実際に目にしたり経験したりしたから知っているのだ。穀倉領出身で、領主様とも親しいはずのアーシュさんが知らないことをわたしが知っているのは、それを知る機会があったからだ。


「まぁ、そもそも、そういうところにいれば役人に見つけられるはずなんだけどね」


 ああ、そうか。彼らが無戸籍である状態を利用したい人が隠していたのなら、どのみち簡単には逃げ出せなかっただろう。


「戸籍がないと、何がいいの? どうしてわざわざ隠してまで無戸籍のままでいさせたかったの?」

「…………便利だろ……?」


 アーシュさんに聞いたのだが、答えは違う方から割って入ってきた。


「便利?」

「命令すればその通りに動き、失敗しても仲間のために口を噤んだまま自害し、どんな使い方をしても動ける限りちゃんと戻ってくる」

「………………」


 どんな使い方をしてもという言葉に、彼らの境遇が映し出される。


「動具が使えない者にできる仕事などない、生きていくことすら難しいと何度も聞かされて育った。あの邸を追い出されたらもう生きていけないんだと」


 緑灰の瞳の奥に、暗い光が揺れる。


「実際、町中で喉が渇いても、水場で水すら汲めない。用を足そうにも町中では穴を掘ることもできない。オレたちは、森の中で獣のように生きるしか道はないんだ。だが、それすらも無理だろう? 森の中で獣のように生きる術すら、オレたちは持っていないんだ。あの邸しか、生きていける場所なんてないんだ……!」


 茶緑の男が、自嘲するように、吐き捨てるように叫ぶ。大きな声ではないのに、耳に響く。


 ……人間で、いられないんだ。


 人として生活するためには、動具を使う必要がある。獣が生活するのに動具は必要ないのに。まるで、そういう風に世界が作られているように感じられて、ゾクッとする。

 戸籍というものの重さが、改めて実感される。


 ……きっと、そんなこと、ほとんどの人は知らないのに。


 戸籍の登録はするものなのだと、みんな当然のように考えている。知らない間に、そんな重いものを選択させられている。万が一にも登録から漏れれば、人としての最低限の生活すら、できないのに。


「言うことを聞くしかない。どんなに嫌だと思っても、追い出されたら生きていけない。そして、どんなに嫌だと思っても、やはり、あそこに戻るしか道はない。オレたちは、仕事先で死ぬその時まで、あそこで飼われているんだ」


 緑灰の瞳が、問いかけるようにじっとわたしを見る。その強い視線に、目を逸らせない。わたしもその人も、一歩も動いていないのに、じりじりと追いつめられるように焦燥感が募る。


 ……でも、わたしにできることなんて…………。


 息が苦しい。喘ぐように、途切れ途切れに呼吸する。


「……まだ、境光が落ちる様子はないね」


 何かを突きつけられているように困惑していると、アーシュさんが換気口を覗き込んで、小さく呟く。


「アキちゃん、料理はまだかかる?」

「え……あ、うん。まだ……」


 食材は割と豊富にあった。干し肉や干し魚もあり、種類は少なかったが雪下野菜もあったようだ。


「……そんな野菜も使えるんだ」


 茶緑の男、アーロさんが興味を持ったように少し離れたところから見つめて来る。


「うん。すごいよね。雪の中で保存するなんて、森林領に来るまで知らなかった」

「穀倉領だとそれほど雪が積もらないしね」

「ただ、米とか小麦粉がなかったから主食がないの。ジャガイモがあったからそれでお腹を満たすしかないね」

「……食えればなんでもいい」


 緑灰の男にアーロさんが神妙な顔で頷く。


「腐ってたり、毒が入ってなければ何でも美味いよ」

「…………毒?」

「……毒味はオレたちの仕事だ」


 一瞬、言葉の意味が分からずポカンとして、すぐに思い至り、息を飲む。


 他人の食事に毒が入れられていないか、代わりに食べる役割だ。それは、その人の食事には毒が入っている可能性があり、そして、その場合、その人の代わりに、毒味を行った人がその毒を受けるということだろう。


 ……誰かの、身代わりにされる命。


 どうだっていい命だと、さっきこの人は言った。それは、少なくとも、この人とその主にとっては言葉通りのことなのだろう。


「…………そんな……」


 何かを言いかけて、でも、何を言えばいいか分からない。何かを言いたい気はするのに。もどかしい。


「まぁ、それがオレたちの仕事だ。今回は毒味じゃないし食材もこちらが持って来た。様子を見ていても何かを入れたり不審なところはなかったから、あとは食えればどうでもいいんだ」


 二人とも、本当にどうでもいいと思っているようだ。だが、それはなんだか納得できない。


「……ねぇ、アーロさん。食材と一緒にバターとかなかった?」

「バター?」

「そう」


 調味料が少ないのでは、美味しい料理は難しいし、どれも同じ味付けになってしまう。せめてバターでもあれば、少しは違う味付けになる。


「……よく分からないな」

「分からない物を全部持って来てくれない? それか、わたしを一緒に連れて行って」

「あ、いいねぇ。どうせなら僕も美味しいものが食べたいし、実はアキちゃんの手料理って食べたことないんだよね」


 アーシュさんがパッと顔を輝かせて呑気に言う。


 ……なんか今、一気にそして無駄にハードルが上がったよね。


「………………」

「あ、信用できないなら、外に出てる間僕をまた縛ってていいよ?」

「…………そうさせてもらう。アーロ、ヨルクに縄持って戻ってくるように言え」


 アーロさんが頷いて外に声をかける。しばらくすると、鼻と頬を真っ赤にしたヨルクさんが縄を持って戻ってきた。

 アーシュさんの両腕を後ろに回して縛ると、アーロさんとヨルクさんがアーシュさんを見張り、緑灰の男がわたしを外に連れ出すことになった。


「じゃあ、アキちゃん。調味料ふんだんに使って美味しいもの作ろうね」

「うん……。でも、まだわたしが知らないハーブとかもあるからなぁ」

「僕、料理は分かんないけど、ハーブは結構詳しいよ。薬に使ったりもするから」


 ……そっか。アーシュさんて薬剤師さんなんだった。


 忘れがちだが、たしかに色んな植物に詳しそうだ。


「じゃあ、分かんないのがあったらとりあえず持ってくるね」

「うん。いっぱい持っておいで」


 両腕を縛られた状態のアーシュさんに明るい声で見送られる。


「……意外と自由にできるんだね。あの黒い人の指示がないと何もできないのかと思ってた」

「あの男に命じられたのは、中が二人外が一人で見張るということだけだ」


 ……なるほど。それでいいのか。


 結構緩い命令なんだなと思う。


「最終的に、あんたを生きた状態で指示された場所に連れて行く。それさえ達成すれば過程については問われない。条件は、依頼主に繋がる証拠を残さないこと。捕まれば依頼主に繋がる恐れがあるので自死を選ぶ」


 緩い命令の重い内容をサラリと告げられて、自分がやはり誘拐されてここにいるのだと改めて認識する。

 わたしのことも、自分のことも、命というものについてあまりに軽やかに口にする。この人のこれまでの生き方の中で、命というものがどういうものだったのかが、なんとなく察せられた。


 小屋の裏手に更に小さな納屋があって、食材などはそこにあったらしい。


「……さっきはどうして、調味料持って来てくれなかったんだろう」

「どれが何に使われるか知らないからな」


 納屋には食材もあるが、調味料もいくつかあった。普段使っているバターやハーブはもちろんお酒やミルクを発酵させた酸味のある調味料もある。中には初めて見るハーブなどもあって、よく分からないのでとりあえずいろいろ掴む。


「結構いろいろあるんだね」


 釘もここにあった。何に使うのかよく分からない動具もあり、斧やノコギリもあった。


「ここの持ち主の許可はもらってるの?」

「さぁな。特に何も言われてない」


 わたしを誘拐しろと命じた人が持ち主なのだろうか。


「…………わたしにずいぶんいろいろと話してくれるんだね」

「あんたは攫ってくる対象であって敵ではないからな。どこかに移動せずにここで他の奴らも戸籍の登録ができるのなら、今すぐ開放してやってもいいくらいだ」

「……それって、依頼主を裏切るってことじゃないの?」

「オレは褒美が欲しくてやってるだけだからな。欲しいものが先に手に入るのなら構わん」


 例えば今、わたしに戸籍を登録できる技術があったとして、それを提供して、解放してもらう代わりに彼らを逃がすことは、正しいことなのだろうか。

 正しいことと正しくないことが、あまりに複雑に交錯しすぎていて、基準が曖昧になってくる。






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