長い一日 ~無戸籍の者①
板で窓を塞いでしまったので、部屋の灯りは暖炉の火しかない。明々と燃える炎に照らされて、緑灰に落ちる影が揺れる。
「……戸籍って……浮浪児でもあるって…………」
たしか、初めて戸籍の事を教えてもらった時に、そう聞いたはずだ。
「うん。たいていはね。ただ、漏れもあるし、どこかに隠されていたり、特殊な場所にいたら、役人でも見つけられない」
「……特殊な場所?」
「そう。例えば、貴人の邸内とか」
二人の男を交互に見る。状況が想像できない。例えば、アンドレアス様やナリタカ様のような人が、戸籍の登録もさせずに邸に人を隠す理由が、思い浮かばない。
「……そうだね、例えば、不義で生まれた場合は体面として隠したいだろうし、他にも普通の人に頼めない仕事をさせるため、とかかな?」
「…………オレたちは物心ついた時からいろんなことをさせられる。今更、戸籍が欲しいなんて名乗り出れば、そのまま捕まって処刑台行きだ」
アーシュさんの言葉を否定しないのは、彼らがそういう立場だということなのだろう。
「……戸籍のために、わたしを攫ったの?」
「………………」
「戸籍って、家を買ったり、結婚したりする時に必要なんでしょう?」
「まぁ、そうだね」
「……結婚したい人ができたの?」
それは、少し違和感がある。3人とも、まだ家やお嫁さんを考えるような年頃には見えないのだ。
「………………」
緑灰の人が、チッと舌打ちして顔を背ける。
「……無戸籍だとね」
答える気のなさそうな男たちの様子を見て、アーシュさんが口を開く。
「神呪を使えないんだ」
「え?」
……神呪?
それは……どうなんだろうか。
深刻さがいまいち分からない。神呪は難しいのだ。神呪が描けないのは別に特殊なことでも辛いことでもない。神呪師でなければ、基本的に描けない。
「動具をね、使えないんだよ」
意味するところが分からずキョトンとするわたしに、アーシュさんが更に付け加える。
「…………え?」
……動具を、使えない?
思わず目を見開いて緑灰の男を振り仰ぎ、思い出す。
……動具を、使えなくする動具を使われたって…………。
以前、マルックさんの班の誰かが言っていた。とても無理だと。一日も、まともに生活することはできない、と。
……井戸から水を組み上げる。暖炉に火を入れる。貯蔵庫に食材を保管する。お手洗いに行く。
ざっと思い付くだけでも、動具を使う場面は多岐にわたり、そしてそれは、生命の維持に直結するものも多い。
「…………どうして」
愕然として呟く。
わたしにとって、動具は生まれた時から当然のように使えるもので、動具のない生活なんて考えられない。いや、それは誰にとっても同じはずだ。字を書けなくても動具は使える。動具が使えるとか使えないとか、そんなことは意識にさえ上らないはずだ。
「知るかっ」
男が吐き捨てる。わたし自身、その身の上を聞きたいのか、動具を使える仕組みを聞きたいのか、はっきりしない。ただ、あまりのことに呆然として、深い意味もなく口を突いて出ただけだ。
「……ちょっと聞きたいんだけどね」
呆然と男を見つめるわたしの視線を断ち切るように、アーシュさんが声をかける。
「それで、どうしてアキちゃんを攫うって話になったの?」
アーシュさんの言葉にハッとする。そうだ。戸籍の話はとても衝撃的な話ではあったけれど、それとわたしが結び付かない。
「戸籍の登録は特殊な神呪師が行うんだろう? 普通の神呪師には無理だが、その娘にならできると聞いた」
「……え? わたし?」
……できる心当たりはないんだけど。
なにか、すぐにできるようになる方法でもあるのだろうか。
戸惑ってアーシュさんを見るが、何か考えているようでこちらに視線を向けない。
「……教えたのは、さっきの人?」
「ああ」
「なるほど。……それで、今は何をしているところなんですか?」
「…………本当に、お前は神呪が描けるのか?」
アーシュさんの言葉を無視して、わたしに話しかける。
「えっと……神呪自体は描けるよ? わたし、今、神呪開発室で神呪を描く仕事をしてるし」
「なんか描いてみろよ」
「へ?」
緑灰の男に促されて戸惑う。薄青目の男が興味をそそられたように身を乗り出してくるが、何の神呪を描けばいいのか分からない。正確に言えば、何かの神呪を描いてもいいのか、何の神呪ならいいのかが、判断が付かない。
「え、ええと……」
「そうだね、この部屋の温度を調節するような神呪とか描いたら? たしか、神力で調節して部屋を涼しくできるんだよね」
アーシュさんを見ると、ちょっと考えた末そんな言葉が出て来る。
……涼しくするの?
温めようということではなく、冷やす方を描けという。この雪の中の小さな小屋で。
「うん。じゃあ、どこに描こうか?」
「そうだね、暗いと描き辛いだろうから、暖炉の前にでも描いたら?」
アーシュさんに言われて暖炉の前の床にペタンと座り込む。
「フフッ。相変わらず、その姿勢なんだね」
「だって、床が一番描きやすいんだもん」
アーシュさんの笑いを含んだ声に、言い訳するように答える。官僚採用試験の勉強の時に、アーシュさんには机と椅子に座ることをしっかりと叩き込まれたのだ。だが、どうしても慣れた姿勢がやりやすい。特に、今は失敗は許されないはずだ。
「んー……、ちょっと広くて……。ねぇ、隣の部屋って、ここと同じくらい?」
神呪を描くとなると、俄然そちらに気が向いて、攫われて来たとか戸籍がどうとか、神呪以外のことがどうでも良くなる。
……すごく便利な性格かも。
「いや、少し狭い」
「んーっと……、こんな感じかな?」
ポケットに入れていた神呪具で手早く神呪を描く。
「描いたよ」
「……は? え? いや……、もう終わったのか……?」
「うん。描き慣れてる神呪だからすぐ描けるんだよ」
「………………」
2人が興味深そうに少し近寄って、まじまじと神呪を見つめる。
「これ……この腕輪の神呪とは違うのか?」
「うん。ほら、この部分が違うでしょ? っていうか、この腕輪の神呪って初めて見た。なんか……よく分からない部分が結構あるね」
少し離れた位置から覗き込むように聞いてくる、薄青の目の人に答える。
「アキちゃんでも分からないの?」
「うん。初めて見る。なんか、動きを示す部分が…………んん? なんだろう、これ」
冷やしたり、引っ張ったり、固定したりという一般的な動きではない気がする。そういえば、この動具はあの山の中を一瞬で移動するための動具なのだ。そして、あの山自体は古代の謎の神呪で覆われている。動きも場所の指定も、わたしが知っている範囲のものではないのかもしれない。
「おい、ちょっと動かしてみろよ」
「うん? ああ、いいよ」
そういえば、彼らは動具が使えないのだった。こんな風に、なんでも他人にお願いしなければならないのは大変だろうなと思う。
神呪に手を置き、力を流す。が、特に派手なことが起きるわけではないので、男2人は眉を寄せて怪訝そうにこちらを見つめて来る。
「……おい、何も起きねぇじゃねぇか」
薄青の目の人が、不満そうにこちらを睨む。
「え? もっと極端にする?」
「オレたちにも分かるようにやれ」
緑灰の男が少し苛立たし気に言う。わたしとしては、上着に神呪を描いてあるわけでもない彼らを気遣っていたのだが、構わないらしい。一気に神力を強めて叩き込む。
「……ん?」
男たちが怪訝そうに暖炉を見る。
「暖炉の火は変わってないよ。神呪で温度が下がったんだよ」
そう言う間にも、部屋の気温がどんどん下がる。わたしやアーシュさんには手先や顔で空気が冷たいなと感じるくらいだが、上着もブーツも薄手の彼らはかなり寒くなっているのではないだろうか。
「わ、分かった! 分かったからやめろ!」
「寒っ、寒ぃ!」
手を離すと冷却は収まるが、元々外は雪なのだ。一度冷えた部屋はそう簡単に温まらない。
「……なんか、ごめんね?」
攫われて来た理不尽な身の上なのだが、暖炉の前で小さくなって震える二人を見ると、なんだかかわいそうになってしまった。
……上着に神呪を描いてあげても、作動させられなければ意味ないもんね。
「……いや。なるほど、そんな小さいなりでこんな神呪が描けるんだ。たしかに特別な神呪師なんだろう。確認できて良かった」
寒さに震えながらも、そんな神呪を描いたわたしを責める様子はない。本当に、わたしが神呪を描けることが確認できて、希望が湧いてきたというような明るい表情さえ見せる。
「……大きくなっても逃げなかったのは……どうして?」
物心ついたころからいろんなことをさせられると言っていたが、そんな小さい頃からそれほど大きな、それこそ処刑されてしまうような罪が犯せるとも思えない。こんなことをしてまで戸籍を望むのだ。そんな状況に身を置いているのが、自分の意志だとはとても思えない。そうなる前に、逃げることはできなかったのだろうか。
「……逃げてどうするんだ?」
「……え?」
薄青の目の人が感情を抑え込むようにして睨みつける。
「逃げたって戸籍が登録されてなきゃ生きていけない」
「それは……お城の役人に言って…………」
「アキちゃん。彼らを隠し通せるくらいの人はね。お城の官僚にだって顔がきくんだよ」
「…………え?」
アーシュさんのサラリとした言葉の意味が咄嗟に分からずに、でも、次の瞬間理解した言葉に衝撃を受ける。それはつまり、逃げてお城に駆け込んでも話を聞いてもらえないということで。
「散々蹴られて殴られてそのまま死ぬか、運良く生きていれば元に戻される」
「………………」
あまりのことに、言葉が出ない。信じられなくて、愕然として声も出せずに口をパクパクさせる。
……お城って……。官僚って…………なに?
「ついでに他の奴らも巻き添えの罰をくらう」
「……他の、奴ら?」
わたしの呟きに、チラリとこちらを見て、フイッと顔を逸らす姿がペトラと重なる。ペトラも、お父さんのことで苦しい思いをしていた。この人たちも、同じように、家族のことで苦しんでいるのだろうか。
「……オレたちのような人間は他に何人もいる。汚いことをやらされて、使い捨てられるどうでもいい命だ。あんたを攫うのだって、命がけだった。もし、あの腕輪が持ち主にしか反応しないものだったら、今頃オレたちは牢屋ン中だ。上手く行けばご褒美がもらえて、上手く行かなければ死ぬだけだ。今回は、今までの中で一番豪勢なご褒美だがな」
……使い捨てられる、命?
「……それでアキちゃんなわけだ」
アーシュさんの言葉にハッと顔を上げる。
「………………」
「……もう、戸籍を登録しても良くなったの?」
彼らを隠していた人が、それを許したのだろうか。
「豪勢なご褒美で良かったねぇ。それで? 今は何を待ってるところなんだい? 戸籍の登録の準備?」
「……よくは分からん。戸籍の登録はここじゃできないんだろ?」
緑灰の目の人が探るようにこちらを見る。
……登録の、準備?
思わずアーシュさんを見る。どこならできるとか、どうやったらできるとか、わたしには全く分からない。分からない、できないとなった時、わたしの命はどうなるのだろう。
「まぁ、いろいろと条件があるっていうのは聞いたことがあるね。それよりアキちゃん。疲れたでしょ? こっちに来て壁にもたれた方がいいよ」
アーシュさんがニッコリ笑って自分の横を示す。たしかに、近くにいた方がいざという時に動きやすいだろう。
いそいそと移動して、アーシュさんの隣に両膝を三角に立てて座ると、正面にある調理場の上の方にある換気口から僅かに外が見えた。そんなわたしとアーシュさんを、2人が黙って見ている。
……狭すぎて、ちょっとあそこからは出られないかな。
「さっき、後の4の鐘が鳴ってたね。もう少しすると5の鐘がなるかな?」
アーシュさんが、空気を切り替えるようにいつもの口調で呟く。
「食事はどうなるんだい?」
「………………食う気か」
「だって、お腹が空くと辛いでしょ?」
なるほど。そう言われてみれば、食事の心配がある。神呪が描けても食事ができなければ死んでしまう。
「食材があるなら、わたし、何か作ろうか?」
「…………5の鐘が鳴ったら考える」
……つまり、今の時点では何も決まってないってことかな。
この人たちは、きっとあの黒い目の男に言われるがままに動いているのだろう。わたしに神呪が描けるかの確認はするが、戸籍の登録ができるのかは聞いてこない。神呪が描けたことで、あの男が言ったことを証明してしまったのだ。もう疑ってもいないかもしれない。
そうしてボンヤリと膝を抱えていると、遠くでカンカン、カンカン、カンカン、カンカン、カンカン、と5回続く鐘の音が聞こえた。
「……チッ、遅いな」
「食事、どうします?」
「……クソッ。しょうがねぇ。おい、ヨルク、アーロと代われ。あと、アーロには何か食うモン持ってくるように言え」
どうやら、待っている人がいつ来るのか全く分からないようだ。
とりあえず飢えることはなさそうで、ホッと息を吐いた。
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