お友達と相談

 ペッレルヴォ様に授業を受けるのは鋼の日の午後だ。


「では、行ってまいります」

「行ってらっしゃーい」


 ラウナさんに見送られて開発室を出る。まだ誰も光らせることはできていないが、何人か、力が動いているのが確認できている人がいる。特にマティルダさんの神呪は、力が最後まできちんと通っているのを感じる。細かい部分に修正が必要なのだが、きっともう少しで描けるようになるだろうと思う。


「今日はどっちが中?」

「あ、オレオレ!」


 リニュスさんが満面の笑みで手を挙げる。中での護衛を担当すると、おやつの時間に一緒に食べられるのだ。しかも、この時間はアリーサ先生もいない。じっくり気兼ねなく、美味しいおやつを堪能できる。


 ……中担当だけっていうのがかわいそうだけどね。


 チラリとヒューベルトさんを見上げると、チラリとこちらを見下ろし、涼しげな顔で視線を戻す。

 いかにも、おやつになど興味がなさそうな表情をしているが、実はおやつの時間が近付くと、ドアの方を確認する回数が増えることを知っている。


「護衛、交代して食べればいいんじゃない?」

「いや、それはしない」


 ヒューベルトさんは元々堅いが、柔らかいリニュスさんも、肩を竦めて首を振る。


「引き継ぎって大変だからね。無駄に交代はしたくないんだ」


 明確なことは口頭で引き継げるが、何となく気になるというような曖昧な感覚は、正確に引き継ぐのが難しいのだそうだ。

 護衛って、ただ側にいて守っていればいいというわけではないんだなと感心する。最初は二人もいらないんじゃないかと思っていたが、それを聞くと、二人じゃ足りないんじゃないかと思える。






 わたしとリニュスさんがペッレルヴォ様の部屋に入ってしばらくして、ペトラが入ってきた。


「お、遅れて申し訳ございません!」


 入ってくるなり深く腰を落とし頭を下げる。


「ふむ。構わんよ。掛けなさい」

「は、はい……」


 ペトラの緊張がすごい。顔が真っ赤になって、体の動きがカチコチなのは、寒さのせいだけではないと思う。


「ペトラは歴史を学んだことは?」

「……い、いえ」

「この本は読めるかの?」

「…………そ、その……あまり…………」


 ペトラが体を縮めるようにして、小さな声で答える。


「ふむ。では、こちらは?」

「あ! こ、これくらいなら、なんとか……」


 ペトラには、毎回、すぐに読み終われる薄い本が用意されている。使用人の仕事が終わらなければ来れないので、厚い本は負担になってしまうのだ。


「ふむ。では、この水時計が終わるまで、その本を読みなさい。アキ、ペトラが終わったら休憩としようかの」

「はい」


 今日もきっと、おやつを食べながら、ペトラが読んだ部分についてみんなで話をするのだろう。休憩時間にまでお勉強をしているようなものなのだが、とても楽しく話せるので、わたしはおやつの時間が大好きだ。


 おやつまではまだまだ時間があるので、先日見せてもらった本を開く。隣には、前回の授業の時にはなかった辞書があるので心強い。


「…………」


 早速分からない文字があって、辞書をめくる。


「……ん?」


 どういう順番で載っているかもわからないので、行ったり戻ったりして探す。


「……あれ?」


 一番最初に戻って順番にめくる。


「………………ペッレルヴォ様」


 しばらく本と格闘した後、ペッレルヴォ様に声をかける。


「なんじゃ?」

「分からない言葉がほとんど辞書に載ってないのですが……」


 わたしが見落としたのかと何度も確認したが、見つからない。そういう単語がいくつも続く。もしかして、辞書の種類が違うのだろうかと思うくらいだ。


「そうじゃろうな」

「へ?」


 ペッレルヴォ様が軽く頷く。


「その文字はまだまだ解明途中じゃ。分かった単語があったら書き足しておくれ」

「…………へ?」


 いや、意味が分からない。辞書とは、分からない言葉の意味が噛み砕いて載っているものではないのか。


「アキがわしの続きをやるわけじゃな」


 ペッレルヴォ様の言葉にポカンと口を開けて呆然としてしまう。


 ……つまり、この辞書はペッレルヴォ様が作りかけの物で、わたしが参考にするわけじゃなく、続きを作るためのものなんだね。


「………………」

「ウォホン。えー、分からないのはどれじゃな?」


 わたしの無言の言葉を正確に読み取って、ペッレルヴォ様が気を取り直すように咳払いをする。


 ……これじゃ、いつまでかかるか分からないな。


 平行して、他の方法も考えた方がいいかもしれない。






「ペトラ、お勉強はどう?」


 夜、調理場で野菜を切る練習をしているペトラに聞く。ちなみにわたしは、ハチミツを使った他のメニューが何かできないか考えているところだ。


「すごくおもしろいわ。本を読むのは正直大変だけど、世界の仕組みなんて今まで考えたこともなかったもの」

「そっか。良かった。わたしも、ペトラとペッレルヴォ様といろいろお話するの楽しいし」

「…………ありがとう。その、いろいろと」


 顔を赤らめてモジモジとお礼を言う。ペトラの後ろでリニュスさんがちょっと吹き出したのが見えた。ペトラも随分丸くなったなと思う。


「ううん。それにしても、他の人も来ればいいのにね」

「……そのまま使用人として過ごすのなら必要ないもの」

「そう?」


 必要はないかもしれないけど、あれば何かの役に立つかもしれないのに。


「…………頑張っても報われないかもしれない努力なんて、簡単にはできないわよ」

「……そっか。でも、ペトラはそれをやってたんだね」


 ペトラは自分の食事を抜いてでも料理人の練習をしようとしていた。たしかに、簡単ではないだろう。


「……ううん。あたしは…………あの時あんたがいなければそのまま帰ってたわ。お腹は空いてたけど、作るのも面倒だったし」

「え?でも、練習はしてたんでしょ?」

「………………あ、あの日は……まだ2度目だったのよ」


 ペトラが真っ赤になってプイッと横を向く。


「え……2度目?」

「………………1度やってみたけど……やっぱりあたし1人じゃ何をしたらいいかも分からなくて……もう止めるつもりだったの」


 ペトラは恥ずかしそうに小さな声で言うけれど、それは当然のことだと思えた。

 誰も教えてくれる者がない中で、何のヒントもなく、何かの意味があるのかすら分からず手探りでやるべきことを探し当てるのは、広い森の中で何か価値があるものを見つけろと言われるようなものだろう。何を見つければ価値があるのかさえ分からない状態では、どうしようもない。


「そっか……。じゃあ、わたしもあの日熱が出て良かったよ」


 あの日、思い出したくないことを思い出して、考えたくないことを考えて熱を出したのだ。嫌な日でしかなかったのだが、それでペトラの役に立ったのなら、まぁ、しょうがないかなと思える。


「あの日の前にね、すごく辛いことがあって……良いことのはずなのに悲しくて……その上熱を出してみんなを困らせちゃって……。でも、ペトラに会ってすごく気が紛れたの。だからおあいこだね」

「…………あんたにも、辛いことなんてあるの?」

「……へ? ……それはあるよ。……そりゃ、他の人からは大したことじゃないかも知れないけど……」


 ペトラからしたら、養父に恋人ができたかもしれないなんて、大したことじゃないかもしれないけど、ダンだけを頼って生きてきたわたしからしたら一大事なのだ。


「……だって、あんた、あんなにすごいのに」

「へ?」

「あたしより小さいのに神呪師なんてやってるし……。ペッレルヴォ様の授業だって、なんだかすごく難しいことしてるんでしょ? ペッレルヴォ様にも分からないようなことを一緒に考えたりしてるじゃない」

「うーん……、まぁそうだけど、結局、仕事して勉強してるだけなんだけどね」


 結局のところ、使用人の仕事をしてペッレルヴォ様の授業を受けに来ているペトラと同じじゃないかと思う。


「そんなわけないわよ。あんたはもう、一人で生きていけるじゃない」

「………………え?」

「神呪師なんて官僚の中でも上位じゃない。ペッレルヴォ様にあれだけ気に入られているんだから、お城に住んじゃえば追い出される心配なんてないだろうし」

「………………」

「今の暮らしに不満があったら、あんたは逃げられるでしょう?あんたなら、どこにいったって神呪師として生きていけるじゃない。あたしはまだここを出ることなんてできないもの。全然違うわ。そんなあんたがどうして辛いことがあるのか分からないわ」


 ペトラの言葉に強い衝撃を受ける。頭をガツンと殴られたような衝撃だ。


 ……わたし、もう一人で生きていけると思われてるの?


 ペトラの言う通りだ。わたしは、自分がその気になりさえすれば、もう保護者がいなくても生きていくことができる。成人していないと正式な採用にはならないだろうが、ランプを持ってどこかの領主様を訪ねれば、今回のように生活の場を与えてもらうことができるだろうと思う。


 もしかして、だからダンは恋人を作ったのだろうか。もう、わたしを育てる必要がなくなったと思ったのだろうか。


「だから……ダンはわたしの手を離すの?」

「え?」

「……わたしにはもう、保護者はいらなくなっちゃうの?」

「え? え?」

「ダンはもう、わたしの保護者じゃなくなっちゃうの?」

「は? え、何?」


 ペトラが、訳が分からないというように戸惑った声を出すが、構う余裕がない。


「……わたし…………ずっとダンの養い子でいたかったの」

「……う、うん…………?」

「ダンはずっと、わたしのことを一番に考えてくれるって思ってたの」

「…………うん」


 こんな風に、ダンに向ける感情を明確に口にするのは初めてかもしれない。言葉を重ねると、感情と共に涙まで込み上げてくる。


「ダンがわたしのせいで恋人も結婚もできないのは申し訳ないって思ってたの」

「うん…………」


 言葉にして初めて自覚する。


「でも、ホントは恋人なんて、できて欲しくなかったの」

「………………」


 目の縁に溜まっていた涙がポロポロと零れ落ちる。


 ……自分はなんて、わがままな子どもなんだろう。


「だって…………そしたら…………ダンと一緒に、いられなくなっちゃうでしょう?」


 いつか来ることだと分かっていて、そのための準備もしていて。なのに、どうしてこんな風になってしまうんだろう。


「もう……ダンは、わたしだけの保護者じゃなくなっちゃうでしょう?」


 じっとわたしを見つめて、黙って話を聞いていたペトラが、そっと視線を落とす。


「……あんたは…………その人にすごく、守られてたんだね」

「…………うん」

「……あたしは……そんなに守ってもらってない」

「………………」


 ペトラのポツリとした、独り言のような呟きにハッと顔を上げる。

 ペトラの目が、初めて会った時のような冷めたものになっていた。視点は調理場の角に固定されているが、きっとその目には、何も映していない。


「あたしが寒い中、風邪を引いても休まず洗濯物を運んでいても、父親が分からない洗濯女中の娘だってバカにされていても、母は何もしてくれなかったわ」

「あ…………」


 そうだ。ペトラはこの城から出たいのだ。それは、この城に住み込みで働く母親との決別を意味する。


 ……ペトラは、お母さんとも別れるつもりなんだ。


「………………」


 なんとなく気まずくなって、俯く。自分の甘えを指摘されたようで、自分がひどく幼く感じる。


「……あたしはあんたが羨ましいわ」

「………………」


 たしかに、ペトラの言葉を聞いていると、わたしの感情なんて、恵まれた子どもがちょっとした物を欲しがって地団駄踏むような程度に思える。


 ……でも、それでも呑み込むことができない。


 胸が痛い。

 それでも、誰かにとっては取るに足らない些細なことでも、わたしにとっては何より重大なことなのだ。


「…………まぁでも、そういう風に育てられたんなら、あんたの気持ちも分かるわよ?」


 ペトラが気を取り直すようにフゥと息を吐く。固まっていた空気と時間が緩んで、動き出す。


「それだけ甘えさせてもらえてるんだったら、そりゃそのままでいたいと思うわよ。当然だわ」

「……そう、かな」

「そうよ。そもそもね、そんな風に散々甘えさせといて、いざ娘が手元を離れたらすぐに恋人を作っちゃうなんて不潔よ、不潔!」

「え……ええーっと……そう、かな?」


 ペトラに気圧されて涙が引っ込む。


「そうよ。だって、春になったらあんたが戻ってくるのは分かってるんでしょ? いない間にそんなことしちゃって、後でどうするつもりなのかしら」


 ペトラがなんだか憤慨している。これは怒ることなんだと、なんだか新鮮な気分になる。


 ……おめでとうって言えない自分がすごく嫌な人間なんだと思ってた。


「……でも、わたしがもう独り立ちできるのなら、問題ないんだもん…………」


 口に出して言うと、ますます自分が幼く感じる。独り立ちできるのにしたくないと言っているのだ。自分でも、単なるわがままな子どもとしか思えない。


「何言ってんの? あんたまだ11歳なんでしょ? 成人まであと4年もあるじゃない。成人しないと家も買えないし仕事もできないって教えてくれたの、あんたでしょ? 独り立ちなんて無理じゃない」

「あ…………、そ、そっか。そうだね」

「そうよ。どうせその女だって、若さを武器に取り入ったとかでしょ? あんたのその腕を狙ってんじゃないの?」

「え……ヴィルヘルミナさんはそんな人じゃないよ。ていうか、もう20代後半だもん。結婚するのには遅いくらいだよ」

「そうなの!? 20代後半で、まだ恋人とかできるの!? ……やるわね」


 ペトラがなんだかヴィルヘルミナさんに感心している。感心するところがわたしと違うなとおもしろく思う。いつの間にか、胸の痛みも消えている。


「ヴィルヘルミナさんは、すっごくいい人なんだよ。キレイだし。優しいし。わたし、もしダンが結婚するならそういう人だといいなって思ってたの」


 年齢はともかく、人柄も見た目も理想通りだ。理想通りじゃなかったのはわたしの心だった。


「ハァ。そこで落ち込んでもしょうがないでしょ。とりあえず、成人までは何としても家に居座れるようにしとかなきゃダメよ。っていうか、追い出される筋合いなんてないんだもん。堂々としてればいいのよ」

「……追い出されたりはしないと思うけど……」

「分かんないわよ、男なんて。お前だけだとか言っといて、コロッと手のひら返したりするんだもん」

「……ペトラ、詳しいね」

「洗濯女中の中にいると、そんな話ばっかりよ」


 なるほど。参考になるかは分からないけれど、一応覚えておこう。


「アキ殿。それは別に覚えておかなくて良いと思うぞ」

「いや、オレは案外役に立つ知識かもしれないと思うよ」


 真面目な顔でピシッとした姿勢のまま指摘するヒューベルトさんの隣で、リニュスさんが両手を広げておかしそうに笑う。ペトラとヒューベルトさんとリニュスさん。ちょっと考えた末、2対1で覚えておくことにした。





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