マリアンヌ様の侍女

 アーシュさんとダンが話した結果、やっぱりダンはいかない方がいいだろうということになったそうだ。どうしてそうなったのかは教えて貰えなかったけど、一緒にヒューベルトさんとリニュスさんが来てくれることになった。付き合いはまだ浅いけど、この二人には何となくアーシュさんと同じ空気を感じるのでホッとした。


 ……わたしがお城に行くだけで、ダンがいなくなるわけじゃないんだから。戻ってくれば、ここにいるんだから。


 半年の我慢だ。いずれはダン離れするのだから、その練習だと自分に言い聞かせる。

 ちなみに、アーシュ様がアンドレアス様と交渉した結果、わたしの洋服代もアンドレアス様が出してくれることになったそうだ。アーシュさん、なんだかんだ言って強いと思う。


「マリアンヌ様の侍女のフレーチェ殿が、一度アキに会いたいそうだ」


 クリストフさんがその話を持って来たのは、9月に入った最初の草の日だった。出荷で領都に行った際に話があったらしい。


 もう草の日は、出店でクレープは売っていないのであまり忙しくないだろうということで、わたしは町に行かずに家で本を読んでいた。試験を受けて以来、アーシュさんは顔を出すたびに本を持って来てくれる。アーシュさん選出でナリタカ様払いのお土産だ。


「どうすればいいの?」

「明後日、領都で待ち合わせている」


 リニュスさんを振り返ると、ちょっとひきつらせていた顔をシュンッと笑顔に変える。


 ……もしかして、苦手な人なのかな。


「クリストフさんが行くなら、オレはいらないかな?」

「…………フレーチェ様って怖い人なの?」

「いや…………マリアンヌ様が、ちょっとね。フレーチェさんって人のことは知らないけど、あのマリアンヌ様の侍女って言うから……」


 マリアンヌ様が怖い人らしい。そもそも、誰なのだろう。


「……まぁ、侍女だけあって、マリアンヌ様と似た傾向はあるな」

「ヒューベルトさんが適任だね。」


 リニュスさんは素敵な笑顔で見事に危機をすり抜けた。そしてわたしは危機的状況だ。


 ……リニュスさんでダメなら、わたしはもっとダメなんじゃない?

 





「なんでそんな恰好をしているんだ!早く着替えて来い!」


 フレーチェ様と会う当日、部屋から出てきたわたしを見てヒューベルトさんが早速声を上げる。


「え……着替えてるけど……。これ、寝間着じゃないよ?」

「上流階級の女性に面会するのに職人の普段着で行く者がどこにおるかっ!」


 ……ここにいるけど。一人くらいいてもいいんじゃないかと思うけど。


 リニュスさんは大笑いしてるし、ダンは肩を竦めている。こだわっているのはヒューベルトさんだけじゃないかと思う。


「先日キュトラ湖に着ていった服があるだろう、あれにしろ!あと、髪もちゃんと梳いて来い!」

「はぁーい」


 まぁ、気を付けるにこしたことはないだろう。だが、そういった方面で頼りになるのはヒューベルトさんだけのようだ。リニュスさんは何要員だろうか。


「お、かっわいーい!アキちゃん、髪が真っ黒で真っ直ぐだから、そういう服着て黙ってるとすごく賢そうに見えるよ」


 リニュスさんは余計な一言要員だ。


「そんなに違うかぁ?」


 ダンはもういい。


 外に出ると、もうクリストフさんが馬車の用意をして待っていた。早速馬車に乗ろうとすると、またヒューベルトさんに止められる。


「待て!何か敷け!汚れるだろう、白なんだぞ!」


 ヒューベルトさんて、ザルトのお母さんみたいだと思う。






 フレーチェ様との待ち合わせ場所は、領都の高級料理店だった。入り口はあまり目立たず、中に入るとすぐに個室に案内される。

 リッキ・グランゼルムとは全く赴きというか、趣旨が違う気がする。


 ……純粋に食事を楽しむところ……ってだけじゃないみたい。


 案内の人について個室に向かうと、すでにお客様が来ていてお茶を飲んでいた。


「フレーチェ殿、お待たせした」

「いいえ。お久しぶりでございます。クリストフ様」


 フレーチェ様が立ち上がって、クリストフさんに軽く礼を取る。


 ……クリストフさんはお城の侍女さんにさえ様付けされる人なのか。


 ほけっとして見ていると、フレーチェ様がこちらに視線を向けた。薄い茶色い髪に薄い茶色い目のふんわりした雰囲気の女性だ。クリストフさんよりももっとずっと年上に見える。


「そちらがアキさん?」

「はじめまして。アキ・ファン・シェルヴィステアです」


 片足を引いて片膝を曲げて、腰を落とす。その姿勢のまま、視線を下に落とした状態で待つ。


 ……長い。


「一応の礼は教わっているようですわね」

「いや、付け焼刃だ。エルンスト様に呼ばれたためにこれだけ身に付けさせた」

「あら、まぁ、それは大変。顔を上げてよろしくてよ」


 フレーチェ様の言葉に姿勢を戻す。あの姿勢を鐘半分くらい保つ練習をしといた方がいいかもしれない。


「どうぞ、座って」


 フレーチェ様の目の前の席を促される。チラリとクリストフさんを仰ぐと小さく頷くので、遠慮なく座る。ちなみに、ヒューベルトさんはドアのすぐ横に立っている。こちらは見るからに護衛なので、フレーチェ様は全く視線も向けない。


「クリストフ様も、どうぞ。お二人にお茶とお菓子を」


 クリストフさんにはわたしの隣の席を勧めて、入り口に控えていた店員さんに声をかける。フレーチェ様の全ての仕草と言葉には独特のリズムがあって、心地よく響く。心が浮き立つような感じではなく、なんというか、静かな水面に雫が一粒ずつ落ちるような、ひどく落ち着いた響きだ。


 ……絶対に粗相とかしない感じだよね。


「昨日からずっと境光が差していましたでしょう?もしかしたら、この時間には落ちているかもしれないと、少し気を揉んでしまいましたわ」

「ああ。ここ何日か境光が出ている時間が夜の時間にかかっていたな」


 上品な会話というのは、本題に入る前に一通り当たり障りのない話で呼吸を合わせなければならないそうだ。お互いの心の準備ができたところで本題を切り出すのだそうだが、今のところ、わたしがそのタイミングを見極められるとは思えていない。


「アキさんのことは……」


 フレーチェ様が飲んだカップを戻しながら、さりげなく視線を向ける。さりげない感じでさりげない。つまり、本当はさりげなくないのだろうと思うけど、どこからどう見てもさりげない。高難易度な技だ。


「アンドレアス様から伺っていたのですよ」

「アンドレアス様から?」


 思わず目をぱちぱちしてしまう。ちなみに今のはダメらしい。後から聞いたのだが、相手の話がまだ続きそうなのに割って入るのも、表情に出し過ぎるのもダメだそうだ。特に表情は、自在に作れなければならないらしい。


「ええ。エルンスト様に密かに呼ばれて怒らせて戻ってきたのだとか?フフッ」


 フレーチェ様が口元を隠して上品に笑う。上品だけど、なんだか黒い気がする。


「しかも、あのラウレンス様に頭を下げさせたのでしょう?正に怖いもの知らずですわね。ホホホ」


 今度は本当に楽しそうに笑う。もしかして、黒さを使い分けているのだろうか。手練れだ。


 ……これ、わたしどうしたらいいの?


 フレーチェ様が楽しそうで何よりだが、わたし自身はどうしたら良いか分からない。ラウレンス様に失礼なことをしたとか言うべきなのか、武勇伝として語るべきなのか。


「それでね?」


 ……ん?


 若干、ほんの少しだけ、声が低くなった気がする。気のせいかな。


「マリアンヌ様も興味をお持ちのようなのよ」


 ……うっ。


 空気がちょっとだけピリッとする。フレーチェ様から黒い何かが漂ってくるような気がするのは、気のせいかな。でも、咄嗟に落としてしまった視線を戻せない。


「……城内に住まいを与えられるのですって?」

「半年だけですが……」


 視線を上げられないまま返事をする。おかしい。フレーチェ様は小柄でふんわりとした雰囲気の人だったのに、今まで会った誰よりも声に圧を感じる。


「きっと、会いたいとおっしゃると思うのよ」


 ふぅ。とフレーチェ様が仕方なさそうなため息を吐く。

 なんだろう。落ち着く響きを持った独特のリズムだったはずが、わたしの心拍数を上げるリズムに変わってきている。いや、変わっているのはリズムではなくわたしの心拍数かな。落ち着け、わたし。


「準備が必要だと思わない?」

「……そ、そうですね」


 相槌を打つ以外の選択肢が見つからない。


「そうよね。では、いつから始めようかしら?正式に城に上がってからでは遅いものねぇ」

「……はい?」


 意味が分からなくて思わず顔を上げると、フレーチェ様が穏やかそうに目を細めて微笑んでいた。穏やかそうだが本当に穏やかかどうかは、わたしには判別できない。なんか怖い。


「礼儀作法の本はお持ちかしら?」

「……一応は」


 アーシュさんのお土産の中に、礼儀作法の本があったのを思い出しながら頷く。


「ではこれから、野の日の夜から都の日にかけて、わたくしの実家へいらっしゃいな。お家での練習の成果を見て差し上げます」


 断れるはずもないお申し出を、ありがたく受けることにした。

 いや、本当にありがたいのだ。自分だって侍女という仕事をしながらわたしに教えてくれるというのだから。他に教えてくれる人もいないので、本当に感謝している。ただ、わたしが少し怯えてしまうというだけのことなのだ。問題ない。たぶん。


 ……ていうか、練習の成果ってことは、練習することが前提なんだよね。






 そして、野の日。リニュスさんが駄々をこねだした。


「……オレ、いらなくない?」


 今日はヒューベルトさんはいないので、わたしがフレーチェ様の家へ行く付き添いは当然リニュスさんだ。


「いるいらないの話になることすら意味が分かんないよ。どうしたの?急に」

「だって、マリアンヌ様系の侍女なんだろ?」


 わたしはマリアンヌ様のことは知らないが、なんとなく、フレーチェ様を更に一回りレベルアップさせた感じなのだろうと推測する。


「……たぶん、マリアンヌ様程ではないんだよ。だって侍女でしょ?主人よりパワフルだと目立っちゃうだろうし」

「でも、アキちゃん、怖かったんだよね?」


 こちらに向けられる視線が子犬のようだが、ここで妥協してはならないと思う。


「そりゃ怖いよ。だって、教わるの、わたしなんだよ?いいじゃない。リニュスさんはただの付き添いなんだから」

「……ただの付き添いで終わるかなぁ」


 終わらない状況が有り得るのだろうか。それがどんな状況なのか想像がつかない。ただの付き添いなのに……。


「とりあえず、リニュスさん、わたしの護衛兼監視でしょ?わたしが誘拐されたり逃げ出したりしたら大変じゃない?」


 ただの付き添いではすまないというのなら、返って好都合だ。標的は分散した方が、被害が少ないだろう。

 





 一緒にお茶を飲みながら、フレーチェ様がわたしの動きを見つめる。


「そうね。形は成っていないけれど、一つ一つの所作は丁寧で良いわね」


 独特のリズムで頷きながら微笑む。微笑みながらもカップをゆっくりと口元に持って行く。手元を全く見ていないのに、カップは無駄に揺れることもなく、的確に口元に辿り着く。


 ……こんな風になれと?いやいや、無理無理無理。


 まず、カップを確認しないと確実に口に付けるのが難しい。しかも、お茶が注がれたカップは結構重いのだ。それを、片手でゆったりと持ち上げるなど、何の訓練だと言いたい。そして、時折視線がドアの方に向くのがちょっと気になる。リニュスさんは大丈夫だろうか。


「本は全てご覧になって?」

「はい。ただ、覚えたことを実際にやろうと思うと、なかなかすんなり出て来なくて……」


 筆記の試験だと、自分のペースで解けば良いので、覚えたことを書き出しやすい。問答は会話形式だから相手のペースがあるけど、元々知っていたことや考えたことがあることだったので答えやすい。だが、礼儀作法は全く別物だ。


「そもそも、どうしてそれが良いとされているのかが理解できないので、きちんと整理して覚えられなくて……」


 礼儀作法というのは、よく分からないことが多いのだ。物を渡したり受け取ったりする時に相手の前に手を伸ばしてはいけないとか、人前で靴を履き直してはいけないとか。では、どうしろというのかと問いたい。


「そうね。全ての始まりには、きちんと理由があったのだけれど、そこが忘れられて形だけが残ったものが多いわね。だからと言って疎かにはできないわ」


 フレーチェ様が優雅にフォークを持ち上げて、お菓子を一つ、フォークでグチャッと押しつぶす。


 ……って、ええ!?いやいや、そんな礼儀作法、ある!?普通に食べればいいんじゃないの!?


「人はね。先の見通しが立たないと不安になるものなの。あなたは今、わたくしが予想外の行動をとったことに不安にならなかった?」

「……なりました」


 呆気に取られて見ていた、そのままの顔で、呆然と答える。


「作法というのは、次の行動を相手に知らせる意味もあるの。わたくしがフォークを持ったのだから、次のわたくしの行動はこのお菓子を刺すことだと思うでしょう?でも、それが分からなければ、フォークを自分に向けて来るかもしれない、投げつけてくるかもしれないと不安になってしまう。作法はね、周囲の者を不快にさせないための技術であり、相手の不安をほぐす優しさでもあるのよ」


 なるほど。たしかに、次に何をするか分からない相手というのは怖いものだ。優しさだと思えば興味も出て来るし、身に付けてみたいとも思える。フレーチェ様はさすがだ。きっとマリアンヌ様もすごい人なのだろうなと思う。


 ……でも、こんな風になるのはやっぱり、何年経っても無理な気がする。ハァ。





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