入城

「頭が揺れてはいけません。目線は真っ直ぐに。少し遠くを見るように」

「お腹にグッと力を入れて、体が不自然に揺れないように。頭の天辺から手足の指の先に至るまで、常に意識を注ぎなさい」

「あら、呼吸は止める必要はなくてよ。でも肩で息をしてはダメ。呼吸などしていないかのように振る舞いなさい」


 初日、まずはフレーチェ様とお茶を飲みながらお話をして、その後レッスンに入った。

 最初の鐘一つ分は歩くことに費やす。ただ部屋を歩き回っただけだが、いろいろと叩き込まれるので頭の中は猛ダッシュ状態だ。帰ってもいいだろうか。


「では、そろそろお茶の時間に致しましょうか」


 フレーチェ様の言葉を聞いて、隅にいた使用人たちが一斉に、音もなく動き始める。フレーチェ様はわたしに向かって言ったのであって、使用人には特に何も言っていない。だが、使用人が勝手に動くことをフレーチェ様が咎める様子はない。


 ……合言葉みたい。


 この場合は、フレーチェ様の「お茶にする」という言葉が合言葉なのだろう。使用人は、その言葉によって何をしなければならないのかを完璧に把握していて、次に主人が何を言うか、常に主人の言動に気を付けているのだ。無言で完璧が成り立つってすごいことだと思う。ちょっと違う言葉でもできるのかな。


「フレーチェ様。わたしの主人は誰になるのでしょうか?」


 わたしが合言葉を覚える相手は、マリアンヌ様でもフレーチェ様でもないはず。お茶を前にどうすれば良いか分からず、とりあえず手を出すのを控えた状態で聞く。


 ……アンドレアス様?それともラウレンス様かな。


「貴方は使用人として向かうわけではありません。ラウレンス様は同僚という立場になるとお思いなさい」


 ……ラウレンス様が、同僚……いや、無理でしょ?


「強いて言えばアンドレアス様ですが、直属というわけではありませんので、使用人のように振る舞う必要はありません」


 なるほど。誰の合言葉も覚える必要はないらしい。


「特定の誰かの意思を覚えておく必要はありません。ですが、誰もが感じることを共有できなければ、貴方は城という組織の中で邪魔な者と思われてしまいます」


 さっきフレーチェ様がフォークで突然お菓子を潰してしまった時の、あの戸惑いが、誰もが感じることなのだという。


 ……ああ、だから作法というものが予め決められたのか。


 感情を共有することの大事さは知っている。だからわたしとコスティは仲良くなれたのだ。


「わたくしが、この一ヶ月で教えられるのはそこまでです。細かな所作までとなると、とても一月では足りません」


 そうして、わたしの作法のレッスンが始まった。






「ダン、食事中に頬杖ついちゃいけないんだよ」

「へぇへぇ」

「身形を整えるためには流行を知っていることが必要なんだって」

「身形を整えようと思えばな」

「ダンはクリストフさんの弟子なんだから、クリストフさんの左側を歩かなきゃいけないでしょ」

「お前がいるんだから、オレが右でお前が左だろうが」

「あ、そっか」


 本で読んだことは、可能な限りすぐに実践してみるようにしている。体で覚えなければ、とてもじゃないが頭だけでは覚えられない。


「正式な場に出ることはないのだから、それ程気負う必要はない。アキがまだ子どもなのは誰にでも分かることなのだからな。間違っていたら教えてもらえるように初めに言っておくのがいいだろう」

「うん。フレーチェ様もそう言ってた。そもそも、たった数回でできることなんてそんなにないから、最低限を徹底しようって」


 クリストフさんもフレーチェ様も、わたしの体が小さめなことが良かったと言う。ちゃんと子どもに見えるから大目に見てもらえるだろうということだ。たしかに、大人に見えるのに大人の作法ができていないと不審に思われてしまうかもしれない。


「それより、もう必要なものはねぇか?城に入ったら出入りするのに許可がいる上、お前は領都にそれほど慣れてねぇだろ。思いつく分は今調達しとけ」


 通達には10月1日からの任務とすると書いてあったが、10月1日は都の日でお休みだ。しかも、わたしが火の日まで休みたいと言ったので、実際には10月3日の朝から入城することになった。3日は朝から入城して任命式があるので、2日にフレーチェ様の家に泊めてもらうことになっている。


「フレーチェ殿に教えを乞うようになってから、アキ殿の所作が目を見張る程良くなっているな。良き師を得られて良かったではないか」


 ご機嫌でそう言うヒューベルトさんは、フレーチェ様のようなきちんとした人が好きなんだろうなと思う。本人が真面目だからね。


「うるさくなったがな」


 ダンとは正反対のタイプだ。


「何を言う。礼儀作法とは善なる魂を形にするためのルール。同じ善であるならば、知らぬより知っていた方が良いものだ」


 ヒューベルトさんの熱弁を、ダンは肩を竦めて聞き流している。


 ……ヒューベルトさんって根気強いよね。


「ああ、アキ。帰ったらちょっと作ってもらいたい動具がある」

「え?何?」

「大したもんじゃねぇがな。オレは今作れねぇから頼む」


 のんびり買い物しようと思っていたが、動具を作るのなら早く帰りたい。別に、買い揃えておかなければならないものはそうそうないのだ。着替え以外はだいたい備えついているし、他の物は既に買ってある。


「じゃあ、早くリッキ・グランゼルム行こ!」


 今日のメインは、リッキ・グランゼルムに行って食事をし、しばらく領都に行く話をすることだ。

 わたしたちは、リッキ・グランゼルムお勧めメニューである野菜の肉巻き味噌ソースがけを食べて、そわそわと家に戻った。まぁ、そわそわしていたのは、わたしだけだけど。






「ダン、これ、何?」


 ヒューベルトさんが帰ると、早速動具作りに取り掛かる。ダンからの依頼なんて初めてなので、なんだか緊張する。


「通信機」

「つうしんき?」


 初めて聞く言葉に首を傾げてしまう。出来上がった様子が想像できないと神呪が上手くかけないので、詳しく聞かなければならないが、名前からして聞いたことがないのでは難しいかもしれない。


「ああ。遠くの音を拾える。つまり、この片方をお前が持って行って、もう片方がこっちにあれば、最初に合図を決めておけば会話ができる」

「……え?」


 なんだかよく分からない。


 ……遠くの音を拾う?音?


「……それは、つまり、机をコンコン鳴らす音がお腹空いたってことで、炭をキンキン鳴らす音が我慢しろってことだと始めに決めておいて、後はその音がしたら相手が言いたいことが分かるってこと?」

「……まぁ、そうだな。別にそんなどうでもいい会話にはわざわざ使う必要ねぇけどな」


 じゃあ、どういう会話に使うのだろうと考えて、少しヒヤリとする。どうでもよくない会話をしなければならない事態を想定しているということだろうか。


「……分かった。とりあえず、これの機能は音を伝えることと拾うことなんだよね。これって、他の音は拾わないの?」


 通信機があちこちにあったら、拾った音がどれから発せられたものなのか分からないのではないか。


「この部分に同じ素材の物が使われているものだけを拾うんだ。一番いいのは元々一つだった石や炭なんかを二つに割って使うことだな。似た素材の音も多少は拾うがそれでも精度が全然違う」


 なるほど。神呪が素材によって微妙に変わることを逆に利用したものらしい。みんないろいろ考えるものだなと感心する。


「じゃあ、できるだけ他にない素材がいいよね。何かある?」

「ん」


 ダンが差し出したのは、薄い緑色の石だった。手のひらの4分の1くらいの大きさで、既に割ってある。


「……小さいね。描けるかな」

「描けないか?」

「描けるよ」


 片眉を上げて聞いてくるダンに答えて、神呪の見本を確認する。結構細かい。


「神呪の精度がやり取りできる音の種類と数を決める。それによって合図も考えなきゃならねぇから時間がねぇ。失敗する時間はねぇぞ」

「分かってる。でも、ちょっと考えたいから時間をちょうだい。最低でいつまでに作れば間に合う?」

「2日前だな」

「分かった」


 ダンは音を伝えると言った。たぶん、何かを叩く音で、その種類と回数によって合図を決めるのだろう。


 ……でも、人の声なら合図を決める必要はなくない?


 それから、領都へ行く3日前まで、わたしは神呪三昧で過ごした。大変充実した素晴らしい日々だったが、荷物の準備を何もしていなかったのでヒューベルトさんには怒られた。結局、荷造りはヒューベルトさんがなんだかんだ言いながらやってくれた。やっぱりザルトのお母さんみたいだと思う。


「ダン!できたよ!」


 ヒューベルトさんが荷造りして帰った後、通信機を仕上げてダンに見せる。ダンからの依頼なので気合を入れてがんばった。


「どれ。どんな音が届く?」

「声」

「は?」


 受け取りながら聞いてくるダンに、エヘンと胸を張って答える。ダンの呆けた顔がおもしろい。


「だからね、声を拾うようにしてみたの!」

「………………」


 何故かダンが頭を抱える。褒めてもらえないのかな。


「……いや、待て。どれくらい拾えるんだ?一文字か?単語はいけるか?」

「うーん、短い文章くらいだと思う。例えば、お腹空いたとか、我慢しろとか」

「……なるほど。それは使えるな。よくやった。まぁそんなどうでもいい会話にはわざわざ使わねぇけどな」


 ダンはご飯のありがたみが分かっていないと思う。


「よし、じゃあ、こっちは常に持ち歩け。絶対に肌身離すな。あと、これの存在を絶対に漏らすな。バレそうになったらすぐに神呪を消すなり壊すなりしろ」

「アーシュさんにも知られない方がいいの?」


 お城に行けばリニュスさんとヒューベルトさんが一緒に行動してくれることになっている。あの二人にバレないように使うのはなかなか難しいかもしれない。


「ああ。可能な限り隠せ。だが、あいつらに見つかった時に壊すかどうかはお前のその場の判断に任せる」

「これをわたしが壊したら、ダンには何か分かるの?」


 もし壊してしまったら、そこからは会話ができなくなる。それをダンに伝える方法はあるのか。


「いや、分からねぇ。だから時間を決める。毎晩、寝る前に何か合図しろ。別に言葉じゃなくて構わねぇ」

「えー……?」


 言葉じゃなくてもいいと言われても、他の合図も思いつかない。結局、寝る前に普通におやすみと言うことにした。あんまり長話して他の人に聞かれちゃってもマズイしね。






 中央ホールから階段を登るまではいつもと同じだったが、上がった後曲がるのが左という部分がいつもと違った。


 豪奢な絨毯の先に壮麗なドアが天井近くまで伸びている。何かの模様が彫られているようだが、何の模様なのかはわからなかった。ただ、少しずつ開いていくドアの隙間から見えるドアの厚さが、庶民と王族の格の違いのように思えた。わたしの人差し指の長さよりも厚い。室内用なのにあんなに大きくて分厚い扉なんて、見たことがない。


 領都のお城の謁見の間は、エルンスト様にご挨拶した、あの謁見室とはまるで違う。壁の装飾は全面が立体的に作られていて、それが天井まで続いている。壁によってデザインは違うが、よく見ると一つの物語を壁の面数に分けて描いているようだ。


 ……創生神話?


 天井で、何か丸い光るものを両手に持っているのが神人だろうか。それにしても、どうやって天井に彫刻を作るんだろう。


「ん、んん」


 ドアが開いた途端飛び込んできた光景に呆気に取られて、入り口の前で呆然としていると、後ろに付き添っていたヒューベルトさんが咳ばらいをして注意を促す。

 ハッとして、足を踏み入れると、正面の一段高いところに、アンドレアス様が腰かけているのが見えた。今までと同じような、襟が詰まった衛兵のような服だが、今日はボタンが細かく装飾された金で、服自体にも細かく刺繍が施されているようだ。肩や胸にも宝石を使った豪華な飾りがついていて、全体的に金と黒の印象だ。


「アキ・ファン・シェルヴィステア、お召しにより、参上いたしました」


 腰を落として礼を取る。周囲にいるのは数名だ。ラウレンス様の他に数人の文官のような人たちがいて、あの気難しい文官も、今日はアンドレアス様から離れて下段にいる。ここでわたしが失敗しても、それほど多くの人たちには醜態を晒さなくてもよさそうだ。まぁ、あの文官にはとやかく言われるだろうけど。


「顔を上げよ」


 アンドレアス様の言葉に腰と膝を伸ばす。以前よりはゆらゆらフラフラしなくなった。と思っている。

 顔を上げてアンドレアス様を見ると、目が合った一瞬、フッと笑ったように見えた。アンドレアス様の低い声が響く。


「神呪師ヘルブラントの娘アキを、神呪開発室特別顧問に任ずる。期間は今日より3月の終わりまでの半年間。心して励むように」


 森林領で、半年間という期間限定ではあるが、11歳になったわたしは、この日正式に、両親と同じ神呪師になった。




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