キュトラ湖畔のお屋敷
「いいか。他の者は最悪、仕方がない。だが、エルンスト様にだけは粗相のないようにするんだぞ。いいな。この十日間の特訓を今、思い出せ。そして改めて脳裏に刻み込め」
この十日間、ヒューベルトさんはリニュスさんと代わることもなく、毎日うちへやって来てはわたしに挨拶やら敬語やらを叩き込んだ。
とは言っても、所詮は十日間の詰め込みだ。挨拶は1パターンの受け答えだけだし、敬語に至っては「とりあえず、語尾にですとかますを付けるんだ。疑問文だと更にそこにかが付く。いいな」とかいう、大変大雑把なものだ。
……試験の時に問答対策として一応、教えてもらったはずなんだけどね。
使わない知識は、日々使う知識にどんどん上書きされていくらしい。
キュトラ湖は、領都の東を流れるカッリオラ川に流れ込む小さな湖で、周囲を森に囲まれた静かなところだった。
領都やグランゼルムと違って、周囲には切り開かれた畑などもなく、領都からカッリオラ川を渡る橋と、森の中に埋もれるように見えている小さな道路だけが、この湖畔から抜け出す道だ。
……なんか、閉じ込められてるみたい。
エルンスト様が好んでここに住んでいるとすれば、少し気難しい人嫌いとかだったりするのかもしれないと思う。それほど、人の気配がない。
「お待ちしておりました」
ヒューベルトさんにエスコートされて、馬車を降りる。エスコートというよりは、転倒防止の補助だ。なにせ、馬車のステップは10歳児にはちょっと高い。
馬の方が速いから馬にしようと言ったのだが、正式な招待に馬で行くのは失礼なのだそうだ。その辺りはよく分からないのでヒューベルトさんに任せることにした。
家令について両開きのドアを潜ると、お城ほどではないがやはり庶民宅ではありえない広さを誇るホールがあり、いかにも華美な装飾がそこかしこに施されている。
絨毯の外に見えている床の板組がすごい。床板だけで充分装飾品として良いのではないのだろうか。
「お客様が参られました」
「入れ」
これまた大きなドアから中に踏み入る。絨毯はホールからずっと続いていて、部屋の中まで続いている。よく見ると、ドアのところで一旦途切れているのだが、良く見なければ分からないようにキッチリと敷いてある。拘りがすごいなと感心してしまう。
エルンスト様より大人二人分くらいの距離を空けて立ち止まる。わたしの斜め後ろにはヒューベルトさんが付いてきているのでちょっと心強い。間違ったらこっそり教えてくれるかな。
「お初にお目にかかります。アキ・ファン・シェルヴィステアと申します。この度、御目文字叶いましたこと恐悦にございます」
片足を引いて、膝を落とす。挨拶の言葉はヒューベルトさんから教えられた台詞を丸暗記だ。
「うむ。顔をあげよ」
声をかけられて、腰と膝を伸ばして顔を上げる。長く続く絨毯の先が一段高くなっていて、一人掛けの椅子に初老の男性が座っていた。なんか、背もたれが大きすぎないだろうか。
「其方が神呪師の娘か」
濃い茶色の髪に濃い茶色の瞳。アンドレアスに似ているかどうかは正直言って微妙なところだ。アンドレアス様の方が顔立ちは整っていたと思う。
「はい」
娘かと聞かれると微妙だ。確かにわたしは神呪師の娘だが、相手が父親と認識しているのが誰なのかが分からない。
……まぁでも、嘘じゃないしね。
「其方の父親が新しい神呪を開発したと聞いたのだが、本当か?」
「……は?」
この場合は父親というのはダンのことだろうか。
「だが、何やら難しい神呪だと聞いたが?」
「はぁ……」
なるほど。難しいのか。それにしても、それ、誰に聞いたんだろう。
「そこでだ。其方から父親を説得してくれぬか?」
「へ?何を?ですか」
神呪開発室への出仕だろうか。だが、それは何度も断っているはずだ。ダンがやらないと決めたことを、わたしが勧めようとは思わない。
……そもそも、そういうのって本人に直接話すことじゃないの?
「このランタサルミに移り住んで、神呪師としての腕を領民のために活かすのだ。報酬は弾むぞ」
「……それを、どうしてわたしに言うの?ですか?直接言えばいいじゃない。です」
……どうして世の中には敬語なんてものがあるんだろうね。
言葉なんて伝えるためにあるのだから、ちゃんと伝われば良いのではないかと思う。
「本人には断られたそうだ」
わたしの言葉遣いにか言葉の内容にかは分からないが、眉毛をピクピクッと動かした後、エルンスト様が厳かに告げた。
どれだけ厳めしい顔で厳かに告げようと、断られたものは断られたのだから諦めるしかないと思う。
「ふぅん、残念だったね」
エルンスト様がまた眉毛をピクピクッとさせる。今度は口の端も一緒にピクピクしている。
「其方の存在ではないのかね?」
「は?」
もう少し分かりやすく説明して欲しい。言葉が足りないって言われたことないかな、この人。
「例えば、だ。其方を連れて引っ越すことが躊躇う原因となっている可能性は考えているか?」
「ああ。それはあるかも。です」
ハチミツの仕事はコスティの近くにいる方がいい。こんな遠いところに引っ越してしまったら仕事が大変になってしまう。
「だからこそ、其方からの説得が必要なのではないか」
ポケッとしているわたしに、エルンスト様が焦れたように膝を打ちながら声を上げる。だんだん音量が上がってきている。
「父親に栄光の道を歩ませたくはないか?報酬は今の10倍出そう。職人など、ガツガツと働いてもその手に入るものなどたかが知れているだろう。其方の父親のためにも、そして其方のためにも、良い話なのだぞ」
「でも、本人が断ったんでしょう?じゃあ、いい話だと思わなかったんじゃない?です」
なんだかゴチャゴチャ言っているが、誰かに取って価値があるものが、他の誰にとっても価値があるものとは限らない。だからこそ、商売というのは難しいのだ。
「ええい、話の分からん娘だ!だから、其方がいるからこそ其方の父親は……ええーと、何と言ったか?」
「……ダンです」
「ああ、そうそう、そのダンはこの良い話に頷けなかったんだろうが!」
従者の人に時々耳打ちされながらしゃべっている。ナリタカ様とアーシュさんもあんな感じなのだろうか。
「うーん、でも、それはどうしようもないよね?わたしにも仕事があるんだし。あ、わたしが成人したら頷くかもしれないよ?あと5年くらいだね」
わたしは腕を組んで首を傾げる。
さすがに成人したらわたしも独り立ちするつもりなのだ。その後なら、ダンもきっと好きにできるはずだ。
「5年も待てんからこうして其方に言うておるのだ!」
「うーん……、あ、じゃあ、そっちがグランゼルムに引っ越して来たら?」
わたしはポンと拳で手のひらを叩く。我ながらいいアイディアだ。
「なんだと?」
なんだかエルンスト様が目を剥いている。エルンスト様だけじゃなく、横に立っている従者の人も目を剥いて口を開け閉めしている。
「別に前領主様がわざわざ来る必要はないよ。ダンと神呪の開発がしたいんでしょ?だったら神呪師がグランゼルムに来ればいいんだよ。あ、でも、ダン今神呪が描けないからなぁ。教えるのも無理かなぁ。です」
わたしの言葉に、目と口を開いていた従者の人がハッとした、。
「エルンスト様。発言をお許しいただけますでしょうか」
「なんだ?」
従者の人は、エルンスト様に向かってお辞儀をした後、わたしに向き直った。
「娘。父親が神呪が描けないというのはどういうことだ?」
その言葉に、エルンスト様も周囲の人も顔色を変えてわたしを見る。
「ダン、右手をケガしてるんだよ。まだ治ってないの。です」
「医師には見せたのか?」
「はい。ただ、日常生活には支障がないくらいだから、よく分からないみたい。神呪を描く作業ってすごく細かいでしょう?」
ただ動きにくいとかいうことなら、医師もわたしたちも治療なり諦めるなりするのだ。だが、日常生活には特に困っておらず、炭やきの仕事も以前と同じようにできている。ダンが神呪が描けないことが、何に起因しているのかが、よく分からないのだ。
「エルンスト様、発言をお許しいただけますか?」
わたしから見て右手に立っていた男の人が手を挙げて言う。恰好からして、神呪師ではないかと思う。クリストフさんの知り合いの神呪師さんより少し若いくらいじゃないだろうか。
エルンスト様が無言で顎をしゃくった。
「その者はケガをしたときに何かの神呪に触れていたか?」
「え?」
思いがけないことを言われた。
触れたと言えば触れたのかもしれない。あの場所で、わたしはランプを作ろうとしていたのだから。だが、神呪なんてどこにでもある。特にこれという物がある気もしない。
「……どうだろ……、水場だったから、動具ならいろいろあったと思うし……」
「はっきりとは分かっておりませんが、神呪によっては反発しあったり混ざり合ったりすることで予想と違う動きを見せるものがあります。暴発がそれですな。その際に、人体に影響を及ぼすこともあるという説があります。体の機能に何も問題がないのであれば、体内の神力の方に問題が起きた可能性がありますが、それであれば、快癒は難しいと思われます。この現象については最近報告されたばかりで、まだ何も分かっていないのです」
エルンスト様に向かって報告しているのだろうが、わたしの方が驚いてしまう。
「暴発?ダンが神呪を描けないのは暴発のせいなの?」
「その可能性があるという話だ」
神呪師のおじさんがこちらを見る。静かに、ヒタッと見つめられると、なんだかそれが正解のような気がして体が強張る。
「だって……でも、暴発なんて、今まで何度も……」
「ああ。滅多にあることではない。そもそも、その説が正しいのかすらまだ検証できていないことだ。ただの可能性だ」
それは、どうすれば良いのだろう。どうすれば、ダンはまた神呪師に戻れるのだろう。
……あ、でも……戻ることを、望んでいないのかもしれない……。
ダンは、王宮での神呪師の仕事が嫌で隠れていると言っていた。
不意に、リニュスさんが言っていた、ダンが何を考えているのか分からないという言葉が頭に浮ぶ。
……ああ、本当だ。わたしも、ダンの考えが分からない。
わたしはたぶん、今まで一度も、ダンがどうしたいのかを分かっていたことはなかったんだろうと思う。一度も、ちゃんと聞いたことはなかったのだから。
「ふん。ならばもはや新しい神呪を再現できる者はおらんということではないか。時間の無駄だったな」
そう言うと、エルンスト様は急に横柄な態度でわたしに手を振った。
「行け。神呪が描けぬ庶民などには用はない。おい、晩餐はなしだ。庶民になど何も出さなくて良い。それよりアンニーナ嬢はまだか?」
「……へ?」
さっきまで胸を反らし、如何にも上流階級らしい品の良さで腰かけていたエルンスト様が、姿勢を崩し、足を投げ出しぞんざいに告げる。その変わり身の早さに驚いて、口をポカンと開いてしまう。
……え、ナリタカ様とかアンドレアス様とかも、こんななのかな?
わたしは、王族というものに対する僅かにあった幻想が溶けていくのを感じながら帰路についた。
帰りの馬車でヒューベルトさんが、ナリタカ様はあのような者とは全く違うと、なんだか憤慨した様子でわたしにくどくどと訴えてくるのが、大変鬱陶しかった。
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