薬剤工房でできること
「とりあえず、いつなら来れるか確認しとこうか」
客室に移動して、アーシュさんが席を勧めながら問いかけてくる。
「ザルトが空いてる日なら、わたしはだいたい来れるよ?」
「そうだなぁ……とりあえず、
工房関係は、基本的に都の日が休みなのだ。
「ああ、午前中は仕事があるんだね。午後は用事がある日は決まってるのかい?」
「うーん……だいたい。
ザルトのお母さんは赤ちゃんを生んだばかりだが、家でできる分だけ仕事をしている。ずっと休んでいると腕がなまってしまうから、少しずつでもやっておいた方がいいのだそうだ。その間は、ザルトが弟妹達の面倒を見ることになる。わたしも手伝ったことがあるが、何故かそれ以降は丁重に断られている。
「そうか。分かった。そんなに遅くまで引き止めたりはしないから大丈夫だよ。僕の方は特にこの日というのが決まってるわけじゃないんだよね……」
アーシュさんが少し考えるように視線を彷徨わせる。
「うん。じゃあ、とりあえず、
ゾーラさんのお店は都の日がお休みだ。その日は糠漬けの納品もない。
「うん」
「オレも。あ、ただ、10日後に輪番なんです。その日は来られません。あと、境光がない日も無理です」
「そうか。輪番か。懐かしいな」
アーシュさんが何かを思い出すように小さく笑った。
「じゃあ、輪番の日はなしとして、他には?境光があれば来られる?」
「大丈夫です」
「よし。じゃあ、期間はこれから2週間経った後の次の都の日まででいいかな?」
わたしはちょっと考える。2週間の間には次の市もその次の市もある。
「うーん……最後の都の日はいいんだけど、その前の野の日は無理かも……」
「へ?何かあるのか?」
ザルトがびっくりしたように聞いてくる。ザルトの中には、わたしは常に暇人だという考えが刷り込まれている。別に間違いではない。以前はヒマだった。
「うん。次の次の市には、いつもおまけしてくれるお魚の行商さんが来ると思うの。たぶん、糠漬けの話になると思うから、初日の草の日と野の日は忙しいと思う」
「へぇ、もしかして、市の行商と取引してるのかい?」
アーシュさんが目を光らせて、身を乗り出してきた。わたしは思わず、少し身を引いてしまう。
「取引ってほどでもないけど……この前お魚の糠漬けを作って見せたらすごく喜ばれて……」
「で、次も来るようにって言われた?生魚を用意しておくからとか?」
アーシュさんは、まるで見ていたように言う。
……こういうの、たしか千里眼とかいうんだよね。なんでもお見通しで隠し事ができないんだって。すごいけど怖いね。
「アキ、その行商、どんな奴だ?大丈夫なのか?ダンさんにはちゃんと話してるか?」
ザルトがちょっと怖い顔で真剣に聞いてくる。ザルトは心配性だ。
「うん。いつもおまけしてくれるおじさんなの。ダンにもおまけしてもらったって言ってるよ」
「うーん……ちゃんと会話まで細かく報告しろよ?次にその市に行くときにはオレも行くからな」
「わかった。いっぱいおまけがもらえたら、ザルトにも分けてあげるね」
ザルトにはいつもお世話になっているので、たくさんおまけがもらえるように頑張ろう。
「糠漬けか……この前持って来てくれたの、アキちゃんが漬けたの?」
「うん。じゃがいもの糠漬け、美味しかったでしょう?」
「うん、美味しかったよ。初めて食べた。自分で漬けられるなんてすごいね。しかも行商さんに声をかけられるなんて、商品としても価値があるってことだろう?僕もちょっと食べてみたいな」
アーシュさんだって、きっと美味しいものが好きに違いない。今度来るときはまた持ってきてあげよう。
「……アーシュ様が糠漬け…………」
セインさんがなんだか遠い目をしてつぶやいた。セインさんにも笑顔以外の表情があったのか。
「似合わねー……」
ザルトも微妙な顔でアーシュさんを見ている。
……糠漬けは美味しいんだよ?美味しいものに似合うとか似合わないとか、ないよね?
ゾーラさんのお店に糠漬けを納品するようになって一月が経つ。ずいぶん慣れたものだ。
市の次の都の日は、是非お魚の糠漬けを食べてもらおうと、密かに決心した。
研究室でのお仕事初日は、研究室の説明と、わたしに何ができるのかの確認だった。わたしは体が小さいので、重いものを運んだり、大人用の研究設備をテキパキ使ったりはできない。ザルトはある程度大人と同じような仕事ができるが、教えられていないことは考えも付かないらしい。ザルトから見ると、わたしは何を考えているのか全く予想もできない変人なんだそうだ。そんな風に思われているとは知らなかった。ちょっとショックだ。
「じゃあ、アキちゃんがやりたいことをザルトくんが手伝うって形がちょうどいいかもね」
ショックを受けるわたしに吹き出しながら、アーシュさんが言う。でも、それならアーシュさんは何をするんだろう?
「僕は君たちがおかしなことをしないように見張りながら、米石けんを作ってみるよ。石灰はとにかく危ないんだ。分量を変えてみるとか、手順をちょっと入れ替えるとか、何か少しでも違うことをする時は必ず先に言ってくれ」
実はわたしは、こうしてちゃんと見守られながら実験をした経験があまりない。王都にいた頃は本当に小さかったのだ。研究室には入れてもらえていたので、何となく見て覚えただけで、きちんと教えられていない。どれくらい細かく報告しなければならないのかの基準が分からない。
「例えば、水をスプーン1杯分多く入れるとか、石灰と水で入れる順番を逆にしてみるとかでも、言った方がいいの?」
「もちろん。そこがすごく大事なところだからね。一つ一つをきちんと書き留めておくのも忘れないように」
……忘れる気がする。
わたしは夢中になると他のことが考えられなくなる。実験をしている途中で「報告が」とか「メモを」とか、実験内容以外のことに気が向けられる気がしない。
「……ザルト」
「分かってる」
ザルトに懇願の眼差しを向けると、力強く頷いてくれた。さすがに分かってくれている。ザルトは字が得意ではないので、わたしに書き留めるように促すのがザルトの大事な役目になる。
「今度こそ、思いっきり頭を引っ叩いて正気に戻してやるからな」
「普通に声かけてよ!」
大笑いしながらアーシュさんが紙とペンの準備をしてくれた。
「ビーカーはここにあるものを使ってね。秤はこれ。使い方は分かる?」
「針を0にして、上に物を乗せるだけでしょう?」
「へぇ、知ってるんだね」
アーシュさんが出してきたのは神呪を使った秤だ。上に乗せる物の重さによって針が動き、数字の上で止まることで重さが計れる。とてもお手軽に使えて便利なのだが、これは高級品だ。
「でも、すごく高いんでしょう?簡単な仕組みに見えるのに……」
「うん。そんなに複雑な作りではないんだけどね。これはむしろ、神呪の部分よりも中に入れられているおもりの方が高価なんだ。全領で共通のおもりが使われなければならないからね。この秤用のおもりを作る職人は特別な資格を持っていて、違反しないよう厳しく管理されてるんだよ。秤を作るにも買うにも、登録が必要なんだ。だからどうしても高価になる。アキちゃん、よく知ってたね」
王都の自宅の研究室では、普通に使われていたものだ。今の暮らしを始めて、女将さんが秤を使っているのを見て驚いた。形も使い方も全く違うのだ。なんだか長い棒の先にお皿がぶら下がっていて、真ん中より少しずれたところにおもりがぶら下がっていた。皿の上に測りたいものを乗せたら、真ん中のおもりを少しずつ端にずらしていって、ちょうど釣り合ったところの目盛りが重さを指すのだ。
……でも、あれはあれでよく考えられてるよね。
神呪が必要ないし、何より持ち運びの際に壊れる心配が少ない。行商さんはみんな、棒の秤を使っている。安い上に便利なので良いことだ。ただ、あまり正確ではないらしいので、研究には向かないのだろう。適材適所というやつだ。
「で、これが焼き石灰」
焼き石灰の大きさはバラバラで、だいたい小石くらいの大きさだ。水がかかると大変なので、水を弾く神呪が描かれた皮袋に入れられている。
「水をかけると高温になる」
アーシュさんが小皿に焼き石灰を少し出し、水をチョロチョロとかけると、大量の湯気が出て小石がザラザラと崩れていく。すごい音を出しながら湯気を立てる様子を見るだけで、相当熱いんだと分かる。しかも、湯気が治まった後は、何故か焼き石灰の量が増えている。
「……おい、アキ」
ザルトは息を飲んでその様子を見ていた。
「お前、あれ、家でやるつもりなのか?」
「やれるようにしたいよね」
「いや、無理だろう!?絶対怒られるぞ」
「え?だからいろいろ実験して、怒られないようにするんでしょう?」
まずは、大きめの桶に水を大量に入れて、焼き石灰を少し入れてみるところから始めよう。
どれくらいの量で桶の水がどれくらい熱くなるか、ちょっとずつ試してみるのだ。
「ちょっとずつって……ちょうどいい量が見つかるまでどれくらいかかるんだよ……」
ザルトが遠い目をしている。でも、ある程度の目安ができれば一気に進むと思っている。そもそも、研究とはそういうものだ。
糠床に必要な水の温かさは、冷たいと感じないくらいの温度だ。樽は大きいが、中に壺を並べるとその分水の量は減る。
……まずは、家に帰って、樽の中に入っている水がどれくらいの量なのかを調べないとね。
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