男は耳に当てていた携帯を不機嫌そうに切った。

「駄目だ。つながらねえ」

 調度品だったプリマが首をかしげて尋ねる。

「担当の方がお昼なのでは?」

「もう夜だ」

 彼はやはり不機嫌そうに、そう答えた。

 あれからだらだらと三人で過ごした。といってもプリマはずっと充電器の上から動かないし、アートマンもアカネもそれぞれソファにもたれかかって、黙っていただけだったが。

 外はもう真っ暗で拠点の裸電球がぼんやりと部屋を照らしていた。

「おい、腹減らないか?」

「…………」

「聞こえてないのか。腹、減ってないのか?」

「へ、私……ですか?」

 そこでやっと少女は自分に向けられた言葉だと気づいた。

「結局昨日からたいしたもの食べてないだろ」

「そういえば……」

 食べたものと言えば昼にアートマンからもらったシリアルバーくらいだった。

「俺もそうだ」

 緊張で忘れていたが少女はあそこに閉じ込められてから、ほとんどまともなものを口にしていない。

 そう思うと急にお腹が減ってきたような気がしてきた。一度気になりだすとどうしようもない。別のことを考えようとしても空腹を意識してしまう。

 ついにはお腹の音まで鳴ってしまう。

「行くぞ」

 顔を赤くする少女に、男は言葉少なにそう言うとコートを着て、前を留めた。

「行くってどこに?」

「飯だ」


 そこは男が拠点としている廃駐車場から離れた場所だった。廃墟区画からかなり歩いたように思う。日は完全に暮れて星明りが雲の隙間から差す。

 しかしそれよりも地上の星の明かりがまぶしくて、歩く人々は誰も天の明かりに気がつかない。

 繁華街だった。

 繁華街と言っても華やかなものがあるわけでもない。廃墟とさして変わらない光景が広がっていた。

 そこはスラムの繁華街だった。

 裸電球が連なり、狭い路地のいたるところに商店や屋台が構えられていた。いずれも古い放棄された建物の一階部分をぶち抜くなり、改造するなりして無理矢理居座っているような雰囲気だ。

 そしてなにより人がたくさんいて賑やかなところだ。

 けれど少女にとってはそんな光景を楽しむよりも、腹の虫の合唱をどう抑えるかが問題だった。胃がキリキリと痛んだ。

「もう少しだ。我慢しろ」

 少女は驚いたような顔で、コートの男を見上げた。

 まさか気遣われたのだろうか。男の表情はコートの襟で隠れてよくわからない。その隣を歩くプリマにも視線をやるが、こちらは主よりもさらに表情が読めない。

 そうやってふたりの表情をうかがいながら人混みで迷子にならないように必死について行くと、一軒の屋台へとたどり着いた。ひび割れたコンクリートの前に適当に並べられた椅子。看板には天飯店と銘打たれ、店のカウンター前には同じロゴマークののれんがぶらさげられていた。

「二杯……トッピングは全部並みで」

「はいよ」

 席に座るなり、アートマンは慣れた口調で店主らしき男にそう注文した。口元だけガスマスクをつけた店主は目元でにっこりと笑って、厨房へ引っ込んだ。

 少女もおっかなびっくり隣のパイプ椅子に座り、屋台を見回した。

 むき出しのコンクリートの壁に木の棚を無理矢理しつらえ、そこに中身の分からない香辛料や薬味の詰まったボトル。

 カウンターの各席には間仕切り代わりに企業広告用の極薄ディスプレイが設置されいた。

 それからどの客席からも見やすいように、一番高い場所に日焼けした薄型テレビも設置してあって、まばらな客は全員こちらを見ていた。あとはどこから拾ってきたのか、日付も巻数もばらばらの雑誌がカウンターの隅に積まれていた。

 屋台というより、廃墟の一回軒先を改造した違法屋台だった。

「ここは?」

「来たらわかる」

 少女の問いに、男は相変わらず言葉少なにそう答える。いったいなにを食べさせる店なのだろう。とにかくいい匂いがするのだけはわかる。

 空腹にはかなり毒な香りだ。

 それにかすかに記憶を刺激される匂い。

「はいよ、お待ち」

 ガスマスクをしてゴム手袋をした店主が二杯のどんぶりをカウンターごしにテーブルへと置いた。

 茶色い濃厚なスープに鮮やかな薬味と、小麦色の麺。らーめんだった。

「ラーメン……」

「はじめてか?」

「いえ……昔、何度か」

「そうか」

 男は特に興味なさそうに割りばしを取って、自分の分を食べはじめた。

 少女は一瞬手をつけていいものか迷ったが、目の前に置かれたのだからむしろ食べないほうが失礼だと思い割りばしをつかんだ。

「んんっ!」

「食べられるか?」

 こくこくと麺をすすりながら少女はうなづいた。

 それからふたりとも無言で食べ続ける。ふたつのどんぶりはあっという間に空になった。

「ふう、いつも通りだな。満足満足」

「いつもありがとうございます」

 アートマンの言葉に店主が照れくさそうに笑う。

 そんなふたりのやりとりを満腹の少女は不思議そうに見ていた。

『見てください! これ、なにかわかりますか……』

 アートマンが何気なく視線をやや斜め上に向ける。テレビのニュースのようだった。

 内容は少女にはよくわからなかった。なんだか豪華な額縁の、絵のようなものが映っているが。

『そうです、これ! フランス政府所有のルーブル美術館……』

「しまっ……!」

「……?」

 アートマンは珍しく動揺したように慌ててテレビ画面から視線をそらした。

「くそ、やられた……っ」

「どうしたんですか?」

 ひどく苦しそうな表情の男。アカネは心配して声をかけるが、男はそれすら無視して顔を手で覆いながら、隣のプリマに助けを求める。

「プリマ!」

「はい。ジャックを」

「ああ」

 ふたりは相変わらずふたりの間でしかわからない単語のやり取りをして、男は首後ろのソケットからコネクターを取り出す。そしてワイヤーでつながったその端末をプリマの腹部に備え付けられた端末に接続する。

 一息つけたようにアートマンの肩から力が抜ける。

 少女はその光景に、声をかけられない雰囲気を感じてただ黙って見ていた。

「助かった」

「記録はどうします。いつも通り?」

「ああ、いつものところに保存しておいてくれ」

「あの……」

 しばらくして、なにか作業が終わったようなので少女は声をかけた。

「なんだ。なにをやってたか気になるか?」

「ええ、その……」

「気にするな。ただの、そうだな……」

 男は数瞬考えるように顎に指をあて、それからひと言こう言った。

「ただの宗教的な、お祈りみたいなものだ」

「はあ……」

 少女には、男がなんだかよくわからないことを言って誤魔化したように思えた。

 そのときだ。

 外で女性の空気をつんざくような悲鳴が聞こえてきたのは。

「なんだ?」

 アートマンがすぐさま席を立って、外を覗く。

 少女はあまりに大きな悲鳴に身がこわばって、動けなかった。

 しかし男が店から出ていき、プリマもそれについて行くのを見て自然と足が動いた。

「四菱の警備のやつらかあ~? 銃を捨てろ~~っ!」

 通りの奥、ずっと遠いところでスキンヘッドの男が吠えていた。

 その周りには皆同じ顔の男たち――幾体もの警備用のアンドロイドがずらりと銃を構えて彼を牽制していた。

「特定解雇者か?」

 アートマンが首をひねった。

「止まれ。銃器を捨て、両手を上げ、その場に――」

「命令できる立場かよー!」

 禿頭の男のわきには当然のように一体のアンドロイドが控えていた。男性型のアンドロイドだ。

 スーツを着たサラリーマン風のアンドロイドの腕が光った。

 そう思った瞬間には警備用アンドロイドが一体、地に伏していた。頭部を失う形で。

 それでまた通りの女性から悲鳴が上がり、野次馬たちが蜘蛛の子を散らすように路地裏へと引っ込んでいく。見る見る間に人が去り、すぐに通りからはほとんどの人が消えていた。

 残ったのはシャッターを閉めた店にもたれかかっている酔っぱらいか、それかいましがたラーメンを食べ終えて出てきた場違いな男と少女、そして一体の女性の人影だけだった。

「はっ! 四菱も大したことはないなあ!」

 そうこうしてる間にも犯罪者の男へと警備用アンドロイドが距離をじりじり縮めていく。

 だが男に同様の兆しは見られない。むしろ威勢よく吠えて、近寄るアンドロイドを一体一体視線で焼き殺さん勢いだ。

「ヘカトンケイル、試しにもう一匹やれ」

「イエッサー」

 甲高い機械音を発して、スーツを着た男性型のアンドロイドが指先を警備用アンドロイドへと向ける。

 走る閃光。そしてまた一体のアンドロイドが地に伏す。

「抵抗は無意味だ。その身柄は四菱電産警備部が預かる。大人しく投降せよ」

 仲間が一匹、また一匹とやられたというのに警備部のアンドロイドの声音に変化はなかった。冷静に犯人に対して警告と投降要請を放つ。

「わかってねえらしいなあ。お前ら四菱の警備型がこっちのカスタムに勝てないってことによお!」

「動くな。動けば撃つ」

「なら、撃ってみろよ!」

 挑発に対してまったく間隙をあけずに周りを囲んでいたアンドロイドから一斉に矢のように射撃が届く。ビームカートリッジを使用した一般的なスマートガンからの攻撃だった。

 それら幾筋ものビームを受けて、スーツアンドロイドは動きを止めたか。

「効かないねえ」

 だが、そうとも言い切れない。ビームはたしかに直撃だった。幾本もの光の筋がそのアンドロイドの頭部へとたしかに吸い込まれた。

 しかしながら、そのアンドロイドは健在だった。顔の人口表皮こそ焼かれはしたものの、金色のメタル部分を見せつけながら自律稼働していた。

 それを見て驚いたような声を出すアートマン。

「すごいな……あのテロリスト。九鉄のビームコーティング技術だ」

「見ただけでわかるんですか?」

「いや。ただあんな防衛性の高いパフォーマンスを発揮できるのは九鉄の製品だけだろうってだけの……」

「きゃっ!?」

 そこでアートマンはアカネを抱きしめて、地面へと伏せた。

「な、なに?」

「いいから頭を下げろ」

 少女はわけがわからず、身を固くする。

 その間に向こうでは恐ろしい変化が起こっていた。

「じゃあここで商品のデモンストレーションと行こうぜ! 複数で囲めば怯むと思ったかよ……残念だな、宣材にしかならねえぜ! やれ、ヘカトンケイル!」

 テロリストの命令でスーツ姿のアンドロイドが動く。そのスーツの下、肩甲骨あたりからスーツがメリメリメリと盛り上がり、その下から繊維を破って追加義肢がせり上がってくる。

 そして四本の追加義肢がすべて露出したそのアンドロイドの姿はまるで巨大な女郎蜘蛛のようであった。

 それぞれの追加義肢の先には銃口が取りつてあって、当然のようにそれらは自由自在に動く。銃口は、いずれも周囲にいる警備用アンドロイドに向けられた。

 間髪入れず着火。一度火を吹くと周りを囲んでいた敵の頭部という頭部を破砕し、一掃してしまった。

 風が一吹き。もうそこにはテロリストと彼のアンドロイドしか立っていなかった。

「四菱なんてこんなもんだぜ、へへへっ」

「そうだな……警備部じゃ、こんなもんだ」

「あん、なんだてめぇは?」

 いつの間に。

 少女が気がついた時には、一緒に伏せていた男の姿はそこにはなく、通りの遠く。犯罪者の目の前にのこのこと姿を見せていたのが彼だ。

 アートマンだった。

「四菱の警備部……増援にしては早すぎるな?」

「賞金稼ぎさ」

「ははっ。笑わせてくれる、賞金稼ぎごときが……ならこいつを使ってやる」

 そう言いながらテロリストは右手――サイバネティック技術で改造した義手で手持ち武器を掲げる。対物用の重スマートガンだろう。

「死ね」

「他の経済圏まで……。まったく九鉄さんは宣伝熱心なことで……プリマ」

 アートマンは肩をすくめながら、彼の所有物に命令した。

「了解」

 どこに潜んでいたのか、プリマは彼の背中から飛び出すように空中へと躍り出た。

「なっ……!」

 突然のことに男の反応が遅れる。だが敵も素人ではないのだろう。すぐさまアンドロイドに命令を下す。

「ヘカトンケイル!」

 アンドロイドにはアンドロイドを。人間には人間を。現代戦の鉄則だ。

 テロリスト側のアンドロイドが追加義肢を併用しつつ、すべての砲門を空中のプリマへと向ける。

 しかしプリマは空中で踊っていた。

 まるで世闇を切り取る独楽のように、スピンし弧を描いてゆっくりと彼らの頭上を舞っていた。

 優雅に。そしてなによりも鈍重に。

 それはどう例えればいいのか。たとえばスレッジハンマーを縦に高速回転させるように、ぶんぶんというドップラー効果を残しながら彼らの後方へと着地する。

 サーカスの曲芸師のような、一種の宵闇のショー。

 その動きに翻弄され、唖然とし、そして見惚れてテロリスト。その横に控えるアンドロイドですらその照準をつけられずに彼女を見送った。

「な、なにやってやがるヘカトンケイル! やれ、いいから……! やっ」

 それからプリマは踊るように一歩一歩軽やかに飛ぶ。まるで蝶が蜜を溜めた花弁を探し回るように。ふらふら、ゆらゆらと飛び回り。そっと、軽やかに近寄った。

 ヘカトンケイルが認知したときにはすでに眼前にその視線はあった。

 慌てて義肢を彼女に合わせるが、タイミングが一歩及ばずその義肢を長い脚から繰り出される回転蹴りで一本、また一本とへし折られる。

 散る電流。自らの体の損傷を認識してなお、そのアンドロイドの電子頭脳に刻まれたのはただひとつの“美”であった。

「処分します」

 プリマの最後の一言とともに、腰部ホルスターから抜かれた大型のシリンダー型スマートガンがつきつけられる。

 そして幾本ものビームを弾き飛ばしたはずの彼の頭部。その特殊金属層が大容量のビームを抑えきれず、焼かれて破砕した。

 最後にプリマの銃から排夾がきゅぽんと吐き出され、地面にコロコロと転がっていった。

「な、なにが……」

「おやすみ」

 驚愕の中にある男にひと言告げて、アートマンは自らの回転式拳銃で男の額に、ピリオドマークの入れ墨をほどこした。


■ ■ ■



「なんだ、寝れないのか」

 目の前のソファから男がたずねてくる。

 しばらくの沈黙。それからもう一度彼が口を開く。

「狸寝入りはやめとけ」

「あの……」

「謝らなくていい」

「すみません」

 少女はそう申し訳なさそうにいうと、ソファから身を起こして男のほうを向いた。

 繁華街の騒動から逃げかえるように自宅に帰ってきた三人。

 疲れたのひと言で男はすぐにソファに横になったはずだった。

 男はソファに横になったままたずねた。

「飲み物でも飲むか?」

「いえ、余計寝れなくなるので……」

「そうか。じゃあなにか別の話でもするか」

「なんの?」

「どんな話をしたい」

 男は質問に質問を返す。

 少女はゆっくりと黙って、思いを巡らせた。結果ひとつ思い浮かんだことを素直にたずねてみた。

「あの、どんな話でもいいですか」

「ああ、いいぞ。どうせここなら誰も聞いてない」

「さっきのアレ……どうやったんですか」

「さっきのアレっていうと」

「ほら……テロリストのアンドロイドを倒したときの、アレです……あの、あんなに強いアンドロイドを一瞬で……」

 今度は男が黙る番だった。

 それは長い長い沈黙で、重苦しい雰囲気さえ感じはじめたころ少女が口を開きかけた。

「あの、話ちゃ駄目なことなら……」

「なあ、アカネ。おまえは神を感じたことがあるか?」

「神? 神、様……?」

 少女は神にも仏にも祈ったことはなかった。

 べつに少女が神という存在を知らないわけではない。信心や信仰心が理解できないわけでもない。

 ただ少女にとって、いつもなにかが起こるときは突然で、祈る暇すらなかったからだ。両親が死んだときも、自分が誘拐されたときですら。

 だから彼女は答えようと思った。

「左側頭葉」

「え?」

 少女が答えるより早く男が短くそう発した。少女はその言葉の意味が、意図がつかめず困惑する。

「左側頭葉、ここだ」

 男が頭の耳の上部分を指でこつこつと指す。

「人間の頭に詰まった脳の、この部分。ここを電極で刺激するとな……神を感じることができるらしい」

「はあ」

「いきなり言われてもわからんだろうが、昔実験した馬鹿がいるのさ。電極を脳の色んな部位に当てて、どういう反応が出るかってな。で、ある特定の場所を刺激するとみんな決まって暗いトンネルだの、白い服を着て後光の差す男だの、大きな光だの……つまり神秘的な体験をするっていうことがわかったんだよ。それが左側頭葉ってだけの話だ」

「左、側頭葉」

「そうだ。つまり人間には生まれたときから神様を感じとる器官が存在してるってわけだ」

「わたしにも感じ取れますか?」

「左側頭葉を電極で刺激すればな……」

「はあ……でもその話が……」

「さて、本題に入ろうか。アカネ、これからする話は観念的な話だ」

「観念的?」

「ああ、非常に抽象的で理解できないかもしれない。だから聞いた話は寝て忘れろ。いいな?」

「…………」

「いいな?」

「は、はい……!」

「人間には生まれつき神様を感じる器官が存在する。だったら『美しさ』はどこで感じているんだろうか」

「美しさ、ですか……?」

「そうだ。人間はなにか感動的なものを見たとき美しいと感じる。その美しさはいったい脳のどこで感じているんだ」

「どこで感じているんですか?」

「わからない」

「へ?」

「いろんなところを電極で刺激してみたが美しさの源は特定できなかった。そもそも美しさとはなんだ? それはすべての人間に共通なのか? 高名な美術品に美しさを感じる人間もいれば、道端に転がっている鳥の死骸に美しさを感じる人間もいる。はやまたゴミ箱から拾い上げたくしゃくしゃに丸まった紙屑を美しいという人間もいるだろう」

 そこでアートマンは一度言葉を区切って、少女に問いかける。

「なあ、アカネ、美しさってなんだ?」

「……っ。わ、わかりません」

「だから言っただろ。これは非常に観念的な話だって……だけどさ、昔。すごい昔、ひとつの仮説を立てたやつがいるのさ」

「仮説?」

「美しさとは幻想なのではないかってな」

「え……」

「美しさなんてこの世には存在しない。その言葉自身が欺瞞だし、幻想で、煙のように多くの芸術家たちの手のひらから逃げては彼らの寿命を食いつぶす化け物なんじゃないかってな」

「そんな……」

「だがそれでも人は美しさを感じる。壁に飾られる芸術品に、道端のちり芥に、そしてこの世界に」

「…………」

「じゃあ結局はその感情の出所はどこか。当然脳だ。人間は脳以外では考えられない。では次は脳のどこの部位だ。あそこもここも電極で調べた。調べつくした。これ以上調べるところなんてない……これは神様が作ったバグじゃないのか。人間の脳という名のバグ……そこで気づくんだよ、ああってな」

「なにを?」

「バグなんだってな」

「…………」

「美しさってのは目で見た物や現象を脳全体が認識できず許容できない場合発生するバグなんだってことにな」

「……!」

 理解してしまった。だから少女は黙るしかなかった。

「だから人は本当に美しいものを見たとき息を詰まらせる。脳のバグで。美しいものを見たとき動きを止める。脳のバグゆえに。美しいものを見たとき思考が止まるのさ、脳に錯綜する情報量の多さにな」

「それが……秘密……。で、でも昼間の相手はアンドロイドで、人間では……!」

「一緒だよ……アンドロイドの人工知能も所詮人間の脳を模して造られている……一緒なんだよ。アンドロイドの人工知能にも人間と同じように美しさというバグが発生する」

 少女の目にはいまのいままで置物のようだったプリマのまぶたが動いたように見えた。

「だ、だったらもうひとつだけ……あなたはなぜ美しさを感じないんですか……美しさを感じるなら、プリマさんが動いたとき……」

「俺は美しさを感じない」

「なぜ……」

「俺は芸術家アーティストではなく、芸術使い《アートマン》だからな……」

 少女にはわかった。だからこの人は無感情なんだ。無感動で、冷静というよりはすべてをいなし、柳のようにそ知らぬふりで、不動なのだ。

 その脳裏になにも刻まれてないから。なにも美しさに対する基礎知識がないから。元よりこの世に美しさなど感じていないのだ。

 すべて。すべて理解してしまった。

「わかったか? わかったら、この話はおしまいだ。ふぁ~……お前もそろそろ眠たくなっただろ。だったら寝ろ。寝て……この話は忘れてしまえ」

 少女はしばらく茫然としていたが、その言葉を聞いて慌てて毛布を頭深くまでかぶった。かぶって、静かになった。

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