ビビアンヌ

宇苅つい

ビビアンヌ

■■1


 最初からイヤな感じはしてたんだ。

 音もなく、細い糸を引くような雨のそぼ降る夜だった。コンビニからの帰り道、私と郁夫は白い雌猫を拾ったの。 正確に言うと私はね、「えー? マンションはペット禁止なんでしょ」 って止めたんだけど、郁夫がムリに拾っちゃった。


 名前はなんだか知らないけれど柔らかい匂いのする花木を植えた生け垣があって、その茂みの下からいきなりスイッと滑るような足取りでその猫は現れた。そうして、こちらをじっと見た。まるで、私達のこと待ち伏せしてたみたいだった。


 垣根には白い花が満開で、その花の雫がとろりと滴って出来たような、本当に真っ白な猫なのよ。大きな目がまだ幼さを残してて、きっと成猫に成り立てって感じ? 暗がりでその猫の輪郭だけが、ぼぅっと滲んで光ってるようで。私はびっくりして、「キャッ」 って郁夫に抱きついちゃった。その猫は、ほっそりしたアゴを心持ち上げて、「ニャー」 って小さな声で鳴いたの。


「ビビ、ビビちゃーん、ただいまー。イイ子にして待ってたかー?」

 郁夫が帰ってくると、ビビは軽くトンと床を蹴って、ソファーに座る郁夫の膝に我が物顔で丸まった。郁夫が頭を撫でてやると気持ちよさそうにゴロゴロ喉を鳴らしてる。

「……ねぇ」

「んー?」

「私に『ただいま』は?」

「言ったじゃん。俺、ただいまって」

 アレはビビに言ってたんじゃない。

 玄関辺りで脱ぎ捨てられた靴下、キッチンの椅子の背もたれに放り投げられた背広とネクタイ。そんなものを回収しながら、私は心の中で毒づく。

 何よ、ビビ、ビビって。


 だいたい、仕事から帰った郁夫の膝の上で甘えるべきは、私の役どころの筈でしょう。だって、私と郁夫は恋人同士なんだから。同棲だってしてるんだから。それなのに、もうずっと郁夫の膝は占領されっぱなしなのだ。あの雌猫に。


 そりゃあ。すっごく綺麗な猫だってことは、私だって認めていい。混じりっ毛なんか一本もない純白の艶やかな毛並み。細くしなやかな肢体。目の色は宝石みたいなブルー。しっぽなんか胴体と同じくらいに長い。「血統書付き」、「○十万」とか言われても、一発で信じちゃうくらい。野良だったなんて信じられない。実際、何処かの家で飼われていた時期もあるんじゃないかな。トイレもすぐに覚えたし。


「なぁ、千夏。こいつって高貴な顔立ちしてるよな。な?」

 だから、それに相応しく貴族の淑女っぽい名前がイイよ、なんちゃってさ。

 エリザベスや、アンヌマリー、ジェヌヴィエープに、マデリーンなんて、いろんなウザったらしい名前で郁夫はしばらく猫を呼んでいたけれど、そのうち、『ビビアンヌ』で落ち着いた。愛称が『ビビ』。

 郁夫ったら、「ビビちゃーん」 なんて猫撫で声出して鼻の下も伸ばしっぱなし。脂下がってて、もう見てらんない。

 『ビビアンヌ』なんて、場末の娼婦の名前みたいじゃない。ふん、サイテー。


「郁夫、ご飯」

「んー」

 郁夫が生返事して、食卓にのっそりやって来る。ビビがその後を追う。フローリングの床を歩くビビの足音は軽くてリズミカルだ。トットッ、トトトトト……。その音がすっごく耳障り。絨毯の所では足音がしないけれど、だからといって油断はならない。白い毛だから目立たないだけで、今日よく見たら毛だらけだった。コロコロローラーの粘着テープがあっという間に無くなってしまった。


「ちょっと、郁夫」

「んー?」

「食事中にビビを膝にのせないでよ」

 後追いしてきたビビはちゃっかりと、またもや郁夫の膝に座っている。

「イイだろ、別に。このままでも食べられるし」

「躾の問題よ。この前だって、パッと手を出してきて、お鍋落としちゃったんじゃないの」

「ビビも食べたかったんだよなー。熱いからビックリしたんだよなー。もうしないもんなー、ビビ」

 アレはね、お料理の本見ながら小麦粉から炒めて裏ごしまでした、私が初めて作ったポタージュだったのよ。すっごく美味しく出来たのに。郁夫が味見する暇もなく、ビビが鍋ごとダメにした。

 ビビは睨み付ける私を上目遣いにチロッと見た。もじ……っと郁夫の上で後ずさろうとする。


「そんなに睨むなよ。千夏が可愛がらないからビビは懐かないんだぜ」

 これ見よがしに、「ニー」とか細く鳴いて、ビビは郁夫から飛び降りた。トットッ、トトトトト……。自分のクッションの方に行く。

「ほーら、行っちまった」

 郁夫が大げさなため息をつく。


「私、ちゃんと可愛がってるわよ」

 ビビのエサやりだって、トイレの世話だって、みんな私がやってるんじゃない。郁夫の大事にしているプラモデル、ビビが悪戯して壊したりしないように、日々気をつけてるのは誰なのよ。

「千夏は、冷めたトコあるからなー」

「……どういう意味?」

「ま、そこが千夏の魅力なんだけどー」

 郁夫はそう言って、お肉をパクつき、にやっと笑った。


■■2


 私は本来、猫嫌いってワケじゃない。昔、家で飼ってたから、どちらかというと犬の方が好きだけど、猫だって嫌いなワケじゃない。

 でも、ビビだけは別! 先ず、初っぱなから私に懐こうって気配がない。飼い主に対する敬意って奴が感じられない。郁夫には自分から擦り寄って行くくせに、私が撫でてやろうとするとキュッと体を強ばらせる。この間、カーテンのレースに爪をかけるのを叱ったら、その後のトイレは台所のマットにやってくれた。郁夫は、「まだちゃんとトイレの場所を覚えてないんだよ」 って言ったけど、一度場所を教えたら、ずっとそこでしていたのだ。だからアレは絶対にわざと。ずる賢い奴で、この家では私より郁夫の方がエライんだって事をちゃんと分かって動いてる。だから、郁夫の前ではいつも良い子ぶりっこ。「ニャーン」 って甘えて、ゴロゴロ擦り寄って、郁夫をメロメロにしちゃってる。


 ほら。今日だってそうだ。

 今日の郁夫はビビのために赤い艶々した光沢のある高そうな首輪を買ってきた。小さな小さな金色の鈴が二粒付いてて、チリリンって音が鳴る。

 ビビは自ら首を伸ばして、郁夫にそれをつけさせた。普通、猫ってそういうの嫌がって逃げるものじゃない? それなのに、さも当然って感じで気取ってる。


「おー。見ろよ、千夏。ビビの奴、鏡に自分の姿を映して確かめてるぜ。すっげ。決めポーズ取ってる。ご満悦ぅー」

 ええ、ええ。男にアクセサリー貢がせては浮かれてるアホ女さながらよね。

「そうだよなー。ビビは美人だもんなー。その首輪で美人度に更に磨きが掛かったぞ。似合う! コワイくらいに美しい。非の打ち所のない完璧なスタイル、愁いを帯びたその眼差し、溢れる気品、ああ酔うほどに美しーい」

 郁夫はバカみたいにはしゃいでる。惜しみない賞賛を浴びせられるビビの首元で、チリンと澄ました鈴が鳴る。

「おお、ビビアンヌ嬢。どうかこのワタクシめに貴女の手を取る栄誉をお許し下さい。生涯の愛を捧げます。誓いの印の接吻を……」

 郁夫が立て膝を付いた格好で、うやうやしくビビの手を取った。そしてその小さな白い甲にキスをする。青い目がそんな郁夫を見下ろしている。その表情は優越に満ちてて、乙に澄ましてて、余裕ぶっこいてて、私はビビの腹を思いっきり蹴飛ばしてやりたくなった。なにさ、メス猫!


「その手、さっきトイレ砂を掻き回していたんだからね」

「そんなことゼンゼン気にしませーん」

 ベッタベッタの郁夫にも腹が立つ。ビビはしゃなりしゃなりと私の前を横切ると、ソファーに飛び上がって、その上でくるんと体を回した。そして、寛いだ様子でゆったりと寝そべる。首輪の赤が毛色に映えて、悔しいけどキレイだ。長いしっぽが時々ゆれる。

「おおー、ビビ。そのポーズも美しいぞー。色っぽい」

 黙れ、バカ。

 そう。ビビってなんだか、科を作って男に媚びてる感じが強い。普段外で見かける猫は性別なんかちっとも気にならないのに、ビビには『雌』特有の匂いがする。ぷんぷん臭う。

 その白い体が作るわざとらしい曲線が嫌い。勿体ぶった高慢さが鼻持ちならない。体をクンと伸ばす伸びの仕草だって、チロリとピンクの舌を出して顔を洗う仕草だって、絶対に郁夫の目を意識してやっているに決まってるのよ。私の郁夫に流し目なんか送らないで。


 私はビビが大嫌いだ。嫌な嫌な嫌な奴!


 イライラする。こういう時にはタバコに限る。

 匂いが残るから部屋の中では禁煙ってことになっていた。私は湯上がりの体に薄いカーディガンを引っかけてベランダに出る。


 郁夫は、「このマンション、高さの割に眺望がイイだろ?」 って自慢するけど、私には、「まぁね、ふーん」 ってそんな感じ。ちまちまこせこせした町並みなんて、どこを見ても似たようなものだし、今の時間みたいに夜景はね、街の明かりがあんなにも山とあるのが超不気味。だって、あれ、全部誰かの家の明かりよ? あの中の一個一個に全部人間が入ってるのよ? その人間共が生きて、呼吸して、生活して、喰って、寝て、怒って、笑って、泣いたりしてるんだなんて、気持ちが悪い。子どもの頃壊して遊んだアリンコの巣みたい。うじゃうじゃ、うじゃうじゃ、耐え難い。


 あーあ。もうさ、いっそ世界中の人間が滅びちゃえばいいのに。今見えてる街の明かりなんか一つもないの。真っ暗闇なの。それで、このマンションのこの部屋にだけ煌々と明かりが点いてるの。そこに私と郁夫が居るの。世界中に二人きり。

 そうだったら、どんなに幸せだろう。私はどれほど満ち足りるだろう。隕石とか水爆とか落ちないかなぁ。ダメかなぁ。


 二本目のタバコに火を点けようとしていたら、ライターを落としてしまった。拾おうとして何か柔らかいものを踏みつけた。ぐじゅって。恐る恐る足元を見る。


 そこには小鳥の死骸があった。私の金切り声を聞きつけて、郁夫が部屋から飛び出してくる。

「いやー、いやぁぁ」

 小鳥は首を半分喰いちぎられて転がっている。羽が辺りに散乱してる。コンクリの上に点々とある黒い染みは、血?

「ビビよ。ビビがやったのよ」

「そうだろうな。猫って野性味あるんだなぁ。飼い猫でも狩りするんだなぁ。マンションなのに頑張るなぁ」

 郁夫はまるで、ビビのこと誉めるみたいな声で言う。

「コレってビビの嫌がらせよ。ビビは私に嫉妬してるのよ。あんな猫捨ててよ!」

「ナニ言ってんだか。嫉妬してんのは千夏の方だろ? まったく女って奴は独占欲が強いんだから、イヤんなっちまう。猫に妬いてどうすんだか」

 郁夫は鳥の死骸を摘み上げて、ゴミの容器に放り込んだ。

「ほら。もうどうってことないだろ? たかが猫がした事にいちいち目くじらたてるなよ」

 たかが? たかが猫? 違うわよ。アレはもっともっと嫌なものよ。得体の知れない化物よ。


 チリリっと鈴の音をさせながら、ビビがベランダに出てきた。自分の獲物を横取りされたのが気に入らないのか、しきりにフンフンと残った血の跡を嗅いでいる。染みの部分をぺろっと舐めた。舌舐めずりして、「ニィー」 と鳴く。二つの目玉が光ってる。イヤだ。そんな目で見ないでよ。

「もう、こんな家イヤ!」

「ふぅん。じゃあ、出ていけば?」

 さっと顔色を変えた私を見て、郁夫は、「冗談だって」 と面白そうに笑った。私の手からタバコの箱を取って、一本咥えて火を点ける。プハァーと煙を吐く。


「俺、千夏のこと好きだぜ? その嫉妬深いトコも、どっか冷めてるトコも、すっげぇアサハカなトコだってさ」

 郁夫はずっとにやにやしてる。俯いた私は押し黙っている。握りしめた手の震えを止められない。郁夫の足下にはビビがまとわりついている。


■■3


 気分転換に買い物に出てみた。街に出るのも久しぶり。これという当てもなくショッピングモールをぶらついて、お店の幾つかを冷やかした。

 ふーん、今年の流行色ってコレなのか。欲しいな。けど、高いなぁ。


 喉が渇いたので、近場のファーストフード店に入った。お茶とドーナツをパクついていたら、そこで順子さんに会ってしまった。

「千夏ちゃんじゃない!」

 そんな店内の人が一斉に振り返るような大きな声を出して、走り寄ってくる。嫌な人に出喰わしてしまった。逃げようにもこのお店の入り口は一つきりだから逃げ場がない。ついてない。


「千夏ちゃん、今どうしてるの? まだあの男の所にいるの?」

「……」

 うっざいなぁ。順子さんには関係ナイことなんだから、ほっといて欲しい。

「あれから、お家の人と連絡取った?」

 取るワケないじゃない。モチロン。

 私は押し黙ったままだった。さっき、モールの西館で見たあの服、やっぱ良かったなー。布ぐるみのボタンと襟のカッティングが小洒落てた。


 順子さんはずっと話しっぱなしだったけど、彼女の声は私の耳には入らなかった。頭の中には洋服のことばかりが浮かんでくる。やっぱり、買っちゃおうかしら。アレに合う色のスカート……。うん、クリーム色のタイトがあったよね。


「とにかく。一度、帰ってきなさい。だって、このままであなた達どうするの?」

 やれやれ。まだ続いてたのか。順子さんって昔から話がくどい。私はストローでお茶を吸い上げる。最後の一口は上品じゃない音がした。そのまま啜ってやる。ズズズー。

「千紗だって心配してるんだから」

「……お姉ちゃんが?」

 ストローが口から離れる。口紅の跡が赤かった。

 お姉ちゃん、こういうの嫌いだったな。みっともないっていつも指先で拭ってたっけ。それで、お姉ちゃんの使うストローはいつも先が潰れてるの。私だってコップに付いた口紅くらいは気にするけど、ストローの先までは気にしない。だって、そんなの疲れちゃう。


「当たり前でしょ、姉妹だもの。千夏ちゃん家を飛び出して行って、それっきりなんだから。大学だってずっと行ってないんでしょう? どうするのよ、卒業まであと一年だっていうのに、辞めちゃうの? ……ちょっと。千夏ちゃん、なに笑ってるの? いい? よく考えて……」

 だって、順子さんの言うお姉ちゃんの『心配してる』は『気にしてる』ってことでしょう?

 お姉ちゃんはみっともないのが大嫌いなんだもんね。でも、私はみっともなくったって気になんかしないよ。ちっともゼンゼン気になんない。


「千夏……」

 熱い息が首筋に触れた。

 薄闇の中。ベットの上。郁夫が私にのし掛かっていた。服がはぎ取られていく拍子に毛布が滑り落ちていく。

 でも、肌寒さは感じない。郁夫の指先に踊らされて、私の喉からため息にも似た声が漏れる。


「郁夫」

 もっと、私の名前を呼んで。

 郁夫の胸に縋ろうとして、私はギクリと動きを止めた。

 居間で寝ているはずのビビがそこに居る。


「ちょっと。ビビが見てるじゃない。イヤよ」

「イイじゃん。別に。相手はケダモノなんだし。それに相手が猫とは言え、なんか見られるのって燃えるじゃん」

「ヘンタイ!」

「おお、ヘンタイか。ヘンタイ結構。大いに結構。男はみんなヘンタイだ」

「やめてったら、イヤ」

「嫌よ嫌よもなんとやら……ってな」

 ケダモノの前ではケダモノちっくにいこうぜ、千夏……。

 鼻と鼻がくっつく程の近さで、郁夫が人の悪い笑みを浮かべる。流される。


 ビビはまだそこに居るかしら? それとも、構ってくれない郁夫に拗ねて、居間に戻って行ったかしら?

 見せてやりたい、見せつけてやりたい。

 いつしか私はそう思う。そう。ビビは猫なんだ。どう足掻いたって、私には勝てない。勝てるはずない。

 優越が胸の中で膨らんだ。熱い高揚。そして抱擁。私の中が幸福で満ちる。


 夢を見た。

 私とビビが崖っぷちから落ちかけている。

 足の下は底も見えないほど深い谷底。私は必死で崖の縁を掴んでる。両足は頼りなく宙を泳ぐ。自分の重さで指が千切れてしまいそう。

「助けて!」 って叫ぶ。

 ビビも私の隣で風前の灯火。岩に引っかけた爪が剥がれそうに引き攣っている。だらんと垂れ下がった白い体がふらふら揺れる。


「助けて!」 ってもう一度叫ぶ。叫ぶ先に郁夫が居る。

 こういうの、知ってる。物語によくあるの。死にかけている二人の女。男はそのうちの一人だけしか救えないの。それがルール。郁夫は選ばなきゃいけないの。郁夫はこれから究極の選択をするの。


 ビビが、「ニャーン」 って鳴いた。媚びを含んだ甘え声。続けざまに何度も鳴く。

 そう。おまえも知ってるのね。選ばれるのを待ってるのね。……でもダメよ。

「郁夫!」

 私はその名を呼ぶ。きっと郁夫は選んでくれる。


「ヤーだよ」

 私とビビを見下ろして、郁夫はそんなことを言った。ペロンと舌を出した。笑ってる。

「だって、俺が落ちちゃうじゃん。そんな崖っぷちの先まで行くの、俺は怖いよ。ご免だね」

 ビビは郁夫を呼ぶのを止めた。谷底を見る。自ら飛んだ。

「ビビ!」

 私の指に限界が来る。私達はほぼ同時に落ちていく。

 谷底は深い。まだ落ちる。きっと死ぬんだ。郁夫は私を助けてくれなかった。でも、ビビのことも選ばなかった。それだけが救い。せめてもの慰め。


 とうとう底が見えた。ああ、ぶつかる!

 その時ビビは、クルッとしなやかな体を反転させると何事もなかったように着地を決めた。すっくと白い肢体が地面に降り立つ。闇に映える美しい獣。そうだ、ビビは猫だったんだ……。

 グルグルグルっと超高速の黒い渦が頭の中で回転した。私はアッと目が覚めた。


■■4


 じっとりと汗ばんでいた。

 薄暗がりの中、隣りには郁夫の寝息が聞こえる。私はそっと頭を起こした。気配を探す。

 きっとそこに居るはずだ。


 ほぅらね。やっぱり、見てる。

 無機質に光るガラス玉みたいな目。無表情な目。

 あの目は前に見たことがある。その時も、私の隣りには裸のままの郁夫がいた。


 あの日、お姉ちゃんが私と郁夫をこんな目で見てた。



 雨の日で、私は急に降り出した雨にしたたか濡れていて、そこに出くわしたのが郁夫だった。

「あれ、千夏ちゃんじゃない。どうしたの、傘は?」

 寄っておいでよ。服乾かさないと風邪引くよ。遠慮なんかしないでよ。もうすぐ家族になるんだしさ。

 促されるまま、郁夫のマンションに初めて上がった。広いリビング。洒落た家具達。出された紅茶椀はウェッジウッド。


「その服、とても似合ってるね」

 郁夫が私の隣りに腰掛ける。濡れているせいで白のおニューのドレスは台無しだった。下着のラインがうっすらと透けているのは知っていた。郁夫の指先が触れて、それを辿った。貸して貰ったタオルがふわりと舞って床に落ちる。


 郁夫がお姉ちゃんの婚約者だとか、もうすぐお姉ちゃんここに来るんじゃない? 昨日電話でそんなこと話してたでしょ、だとか。

 なんでかな? そういうの、どうでも良かった。

 雨が降ってて、それがザーッて、まるでテレビ放送が終わった後の砂嵐の画面みたいに部屋の中にも頭の中にもいっぱいに溢れ出しそうに響いてて、世界が全部灰色の水の底に沈んだみたいにどんよりしていて、何も生きていないみたいで。その中で、たった一つ郁夫の指先だけが生きてるみたいに蠢いて、私の服を脱がせていった。


 脱ぎ捨てられた白い服が床の隅でたぐまっていて、私は前の日に見たお姉ちゃんのウェディングドレスのことをぼんやりと思いだしていた。お姉ちゃんの親友の順子さんが作ったドレス。シンプルだけど幸せに満ちた真っ白なドレス。

 お姉ちゃんがドレスに袖を通した姿を見て、お父さんは喚いてた。

「うぉー、千紗ぁ、嫁になんか行くなぁー」

 お母さんとお姉ちゃんが声を揃えて笑う。

「なんです、お父さんったら。今から泣いてて、お式の当日にはどうするの? ホントに先が思いやられちゃうわ」


 私にはいつだって、「さっさと嫁にでも何でも行け、この家から出て行け!」 って言うクセに。「お前なんかもう知らん」 って言うクセに。お姉ちゃんはご自慢の娘で、私は不肖の娘だもんね。私は世間様に恥ずかしい蓮っ葉でふしだらな不良娘なんだもんね。


 この前、ファーストフード店で順子さんが言ってた言葉。

「いい? 千夏ちゃん、よく考えて。あいつはね、婚約者の妹に手を出すような男なんだよ。最低の男なの。そんな奴と一緒に暮らしてて千夏ちゃん、貴女どうするの?」

 千紗はもう怒ってないよ。そりゃあショックは受けてたけど、もう今はしっかり立ち直ってる。そして千夏ちゃんのこと心配してるの。ホントよ。貴女に会いに行くって。二人で話がしたいって。


 なに? なにを話すの、お姉ちゃん? ここに来るって? このマンションに?

 戸口の鍵が開く微かな音が耳に届いた。……そうだ。お姉ちゃんは郁夫の部屋の合い鍵をまだ持っているんだっけ。そうか、お姉ちゃん、本当に来たんだ。

 でも、なんでかな? 体が重い。起き上がれない。郁夫はよく眠っている。


 ヒタヒタと忍び寄ってくる気配を感じた。お姉ちゃんの手の中に硬質な光があった。キラリ。ビビの目みたいに光ってる。

 うん。いいよ、お姉ちゃん。その包丁で私のこと刺しちゃって。ほら、私いつだってお姉ちゃんに勝てなかったし。お勉強でも、ピアノでも、駆けっこでも、たまにやった姉妹ゲンカでも、一度だって勝てなかった。


 ゴメンね、お姉ちゃん。郁夫をとって。だって、私、イヤだったの。このまま負け続けるの、イヤだったの……。


 例え、どんなに痛くっても絶対に声なんか上げるまいって思ってたのに、背中に灼熱の痛みが走って、私はギャアと悲鳴を上げた。

 私の覚悟なんて所詮が万事そんなもん。郁夫が、「な、なんだぁ!?」 ってびっくり眼で飛び起きた。


 夜中に目を覚ましたビビが私の髪にじゃれついて来て、弾みに背中を引っ掻いたのだ。戸口はきちんと閉まっていて、勿論、お姉ちゃんの姿なんか家の中のどこにもなかった。あれも全部夢だった。


 ……うん。私、分かってたんだ。お姉ちゃんにはテレビのワイドショーみたいな痴情の縺れとかさ、そんなのゼンゼン似合わないの。同じテレビでもお姉ちゃんはニュースキャスターって感じなの。知性的なの。だからそんなことしないって。

 そういう無様でみっともない真似をしでかすのは、いつだって私。私の方。



 お姉ちゃんが私のことを心配してるっていうのは、きっと本当のことだろう。でも、同じ分だけ深く憎んでもいるだろう。順子さんはああ言ってたけど、お姉ちゃんはここには来ない。お姉ちゃんは決して私を許さない。お父さんもお母さんも、誰も私を許さない。


■■5


 冬が近づいていた。

 今日は郁夫の仕事はお休みの日。昼を過ぎても起きそうにない郁夫の様子に見切りをつけて、私はスーパーまでの買い物がてら、ぶらぶら公園の小道を歩いてる。


 ここに来る前に、思い立って映画館に行ったから、もう夕陽が落ちかけている。郁夫、明日もお休みなんだよね。今夜は一緒に夜更かししてお酒でも飲もうかなぁ。夕飯、何にしようかなぁ。


「あれ?」 と、声が出た。

 公園の中の一角、子供用の遊具が建ってる辺りに猫が居る。真っ白な猫。ビビに似てる。

 その猫は何かに向かって、低く唸り声を上げていた。背中の線が緊張にピンと張っている。長いしっぽの毛を倍くらいに膨らませてる。

 シーソーの影に潜んでいたのは大きな茶黒の雄だった。のそりと出てくる。「アオーン、ナオーン」 と声を上げる。


 その声で分かった。盛ってるんだ。

 少し胸が悪くなった。茶黒の雄はここいらのボスで、大きくて乱暴猫だった。傷だらけで所々毛が禿げているところがあって、薄汚れててすっごく汚い。皮膚病も持ってるみたいで、耳とかガサガサでかさぶただらけで、おまけに目やにを垂らしている。対する白猫の方は、私がビビと見間違えたくらいなんだから、真っ白で毛づやが良くって、もの凄くキレイな猫なのだ。まさしく、『美女と野獣』って感じ? 違うかな。


 茶黒が白に飛びかかった。背中にのし掛かられて小柄な体が悲鳴を上げる。白は必死で抗っている。振り回す鋭い爪先が茶黒の顔を引っ掻いた。目でもやられたのか、ギャンと鳴いて後ずさる。その隙に白猫はさっと飛び退く。そのまま何処かへ走り去る。


 手酷くフラレたボス猫は、しばらく目の辺りを何度も拭っていたけれど、そのうち茂みの方へ歩き出した。肩が落ちててトボトボしてて、一部始終を見ていた私はその姿に笑えてしまった。プッと吹き出した私の声が届いたのか、ちらりとこちらを見る。バツが悪そうに、足早に茂みの中に消えていった。


 さっきの白いの、ホントにビビに似てたなぁ。でも、ビビがマンションから出られるわけないし。第一、赤い首輪だってあの猫は付けてなかったし。

 そっくりさんって居るんだなぁ。私もまた歩き出す。


 マンションで。私は買ってきた食材の詰まったビニール袋もそのままに、郁夫の姿を探していた。

 郁夫はベランダに居た。のんびりと夜景を眺めながらタバコの煙をくゆらせている。窓の外から私を見つけて片手をあげた。

「おう、千夏。おかえり」

 私は急いで窓を開ける。

「ねぇ、ビビは何処? ビビのお皿やトイレどうしたの? クッションもないよ。どこにやったの?」

「ああ、捨てた」


 郁夫が言った。こともなげに、信じられない言葉を言った。

「マンションの誰かがチクりやがったみたいでさ、管理人にバレちゃったから、車に乗せて公園の辺りで捨ててきた」

 じゃあ、あれはやっぱりビビだったの?

「酷いよ、郁夫。ビビは外でヒドイ目に遭ってたんだよ? これから冬になるんだよ? ビビが寒さで凍えちゃう。……うぅん、ご飯だって食べられない。ビビは飢えて死んじゃうよ」

 私は郁夫の袖を掴む。指が震えているのが分かる。

「だって、やっぱ、千夏の言う通り金も掛かるし、世話大変だし、管理人にもバレたし、飽きちゃったし」

 指の震えが強くなる。ベランダの隅、ゴミ容器の中、入りきらずに半分飛び出したままのクッションが見える。ビビのお気に入りのクッション。その上で丸くなって寝ていたビビ。

「でも、やっぱ畜生だよな。車から出して、首輪外して、『ホラ行け』って言ったらさ、ビビの奴、俺の顔ちろっと見て、フンって感じでそのままスタスタ行っちまいやがんの。振り返りもしねーの。あんだけ可愛がってやったのにさ。恩知らずだよなー。そう思わん?」


「……郁夫、あんなに可愛がってたのに、もう飽きたんだ。捨てちゃったんだ」

「なんだよ、千夏だって捨てろ捨てろって言ってただろ。もういいじゃん。どうだって」

 タバコを手摺りで揉み消して、その吸い殻をポイッと塀の外に投げ捨てると、郁夫はその手を私の腰に回してきた。

「なんだよ、ナニ泣いてんの? 今更、情が移ったのか?」


「じゃあ、ほとぼりの冷めた頃、またなんか飼おうぜ。次は違う毛並みの猫にしよう。いや、今度は犬にするか? んー、やっぱ吠えるからムリかなー?」

 ねぇ、郁夫。教えてよ。私のこともちょっと毛色の違う女の子を引っかけただけ? 興味をそそられたから膝の上にのせただけ?

「あ、でもさ、吠えさせないように手術で声帯潰す方法もあるって聞いたことあるな。それならいけるかな? どう思う?」


 きっと郁夫はいつの日か、別の女を連れてくるだろう。ビビみたく猫じゃない、本当の雌。私みたいな泥棒猫。

 きっとそうだ。郁夫ってそういう奴。雨の日には白いドレスの女に目移りしちゃうんだ。いとも簡単に、何度でも。

 私の目から押さえきれない涙がこぼれる。


 ビビ。ビビは偉いね。自分が気に染まないことは絶対に受け入れないんだよね。決して負けない。断固闘うんだよね。どんなに強い敵が来たって、どんなに嫌な運命が目の前に待ちかまえていたって怯まない。だから、おまえは気高くて、あんなに綺麗だったんだね……。


 ああ。どうしてあの時、郁夫を拒めなかったんだろう? 猫だってあんなに毅然と振る舞うものを。

 あの日の私は、郁夫に対して『お姉ちゃんの婚約者』だって以外の感情なんか、これっぽっちもなかったのに。ただ、お姉ちゃんに一度だけ勝ってみたいだけだったのに。ただそれだけだったのに。


 遠くない未来。来るだろうその日を明確に予感する。雨の日に白いドレス。私は郁夫に捨てられて、真っ逆さまに崖から落ちて消えていく。

 でも。だから? どうしろっていうのよ? 私に今更……。



「いつまで泣いてるんだよ? ほら、慰めてやるからさ、来いよ」

 郁夫がブラジャーのホックに手を掛けてくる。

 まだ治りきらないビビの付けた背中の傷がピリリっと痛んで、私は強く沸き上がる嗚咽をこらえるため、目を閉じた。

 ビビの白い姿が目蓋に浮かんだ。

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