第12話 愚者と眼差し

 夏い暑の夜。じゃなくて、暑い夏の夜のことだ。


 汗でベタついた体をシャワーでさっぱりとさせた後、パチン、パチンと軽快な音を立てながら爪を切っていたら、ピンポーンとチャイムが鳴った。


 爪を切るのをやめ、玄関に向かい扉を開けると、そこには荒熊さんが居た。


 荒熊さんは、お菓子やら何やらが詰め込まれた大きなコンビニの袋を持っていた。


「おぅ、兼定かねさだ。今夜は飲み明かそうぜ」


 荒熊さんは僕の返事を聞くまでもなく、ズカズカと部屋に入って来た。


「僕はまだお酒が飲めないんです。前も言ったじゃないですか」


「ジュースも買ってあるから安心しろ」


 そう言うと、荒熊さんはコンビニの袋から350mlのビールの缶と炭酸ジュースを取り出して、机の上に置いた。


 どうやら、僕がお酒を飲めないことは覚えていたようだ。


「やれやれ、仕方ないですね。付き合いますよ」


 荒熊さんに向き合うように、机の前に座る。


「おう。そうこなくっちゃ!」


 僕が炭酸ジュースの缶を手に取り蓋を開けるのと同時に、荒熊さんはビール缶の蓋を開ける。


「それでは、乾杯」

「乾杯」


 ゴクリ。


 その炭酸ジュースはとても美味しかった。


 今日はとても暑くて、ジュースがよく冷えていたから、いつもより美味しく感じたんだろう。


 その後は、荒熊さんが買ってきたお菓子も食べながら、あれやこれやと話をしたり、テレビを見たりしていたのだが、ついつい食べ過ぎてしまったために、僕は気分が悪くなってきた。


「大丈夫か?」

 

「ちょっと、胃のむかつきが」


「薬はあるか? 胃腸薬とか」


「ありません」


「じゃあ、ちょっと待ってな。コンビニで買ってくるから」


 そう言うと、荒熊さんは部屋を出て行き、しばらくすると、息を切らしながら小さなコンビニ袋をぶら下げて帰ってきた。そして、袋から薬が入った小瓶を取り出した。


「ほいよ」


「ありがとうございます」


 さて、これは1回何錠だろうか? 


 ラベルの【用法・用量】の欄を確認する。


【用法・用量】 15歳以上・1回1錠


「なるほど、1錠ね。……うん?」


 ふと、隣の【効用】の欄が目に入った。


【効用】 腸の働きを整え、排便をうながします。


 排便……。


「ってこれ、胃腸薬じゃなくて、下剤じゃないですか!」


「あれ? 急いでいたから、間違えちまったみたいだな」


「ふふっ。滅多にいないですよ。こんな間違いをする人」


「悪い。買い直してくるわ」


 笑ったおかげか、少しだけ気分が良くなったので、ちょっとくらいなら歩いても平気な気がした。


「大丈夫です。自分で買いに行きますよ。また間違えるといけないので」


「そうか。でも、1人で行かせるのは不安だから、俺も一緒に行くよ」


「わかりました」


 僕はとっさに小瓶をポケットにしまい、荒熊さんと一緒にコンビニに向かった。


 コンビニに到着すると、胃腸薬(今度はラベルをしっかりと確認した)と水を買い、コンビニを出てすぐに薬を飲んだ。


「ふう。これで少しは落ち着きます」


「そりゃ、よかった。……でも、あっちはなんだが落ち着きがないようだな」


 荒熊さんが視線を向ける先は、大学の裏山だ。


 その山は、人の出入りがほとんどなく木々が鬱蒼うっそうと生茂っている。


 普段は静かなその山だが、今は鳥たちが飛び回り鳴き声をあげるなど、なんだか騒がしかった。


「ちょっと見に行ってくる。なんだか悪い予感がする」


「僕も行きます」


「平気か?」


「はい。薬を飲んだおかげで、もう気分は良くなりました」


「そうか。じゃあ、一緒に行こう」


 僕たちは歩き出し、そして山のふもとに着いた後、暗い山道を鳥たちの騒ぎ声が大きくなる方を目指して進んだ。


 この山には整備された道などなく、僕たちは道無き道をかきわけて歩いた。


 しばらく歩くと、開けた場所に出た。


 空を見上げれば月が見え、この場所は月明かりが届くため明るかった。


「なあ、兼定。地響きが聞こえないか?」


 耳を澄ますと鳥たちの騒ぎ声とは別に、ズドドという低い音が聞こえた。


「ええ。しかも、少しずつその音が大きくなっている気がします」


「何かが近づいて来ているのか?」


「かもしれません」


 辺りをよく観察する。


「おい、あの辺り。何か動いてないか?」


 荒熊さんが指し示す場所は山の頂上側で、ここから少し離れたところだ。


 その場所を見ると、たしかに何かが大きな影となって、動いているように見えた。


 そして、その影はズドドという地響きとともに、のそりのそりと動いていた。


「あの大きな影が、地響きを起こしているというわけか」


 その影は徐々に僕らに近づいてきて、やがて僕らの目の前で止まった。


 影は月明かりに照らされ、その正体を明らかにした。


 大蛇だった。


 人を丸呑みしてしまえるほどの大きな蛇。


「こんなでかい蛇、普通じゃねえな。こいつは妖だな」


「食べられてしまわないか、心配です」


「ああ、そうなる前に俺が鎮める」


「気をつけてくださいね」


「一瞬で終わらせてやるぜ!」


 啖呵たんかをきって大蛇に向かっていた荒熊さん。


 それに対して、大蛇は動じる事なく荒熊さんを睨みつけただけだった。


 しかし、ここで妙なことが起きた。


 蛇に睨まれた荒熊さんは、ピタリとその動きを止めてしまったのだ。


 まさか怖気づいたのだろうか。


 大蛇は動かなくなった荒熊さんに向けて、その大きな尾を振り払った。


「ぐわぁ!」


 荒熊さんは避けることも防御することもできず、もろに攻撃を食らってしまい、大きく弧の軌道を描きながら僕の側まで吹き飛ばされた。


「大丈夫ですか!?」


「なんとかな。……だが、厄介だな。睨まれると、体が固まっちまう」


 大蛇は僕らを嘲笑あざわうかのように目を細め、こちらを見下していた。


「まさか、貴様たちの方からやって来てくれるとはな」


「えっ!? 蛇が人の言葉を喋った!?」 


「私にかかれば、人の言葉を喋るなど造作も無いこと。私は賢い蛇なのだ。それよりも、貴様たちに感謝しよう。わざわざ山を下って、貴様たちのところまで行く手間が省けたのだからな。さて、どうやって貴様たちをいたぶろうか」


「お前の好きにはさせない! 俺がお前を一瞬で片付けてやる!」


「弱い犬ほど良く吠えるわい、シャッ、シャッ、シャッ」


 大蛇は高笑いをしてから、こう続けた。


「愚かな人間よ。先ほどの攻撃で思い知っただろう。貴様の実力では、私の足元にも及ばん。まあ、私に足はないがな」


「荒熊さん。あいつ、洒落まで言いましたよ。すごいですね」


「感心してる場合じゃないだろ」


「そ、そうですね」


 荒熊さんが言うには、大蛇に睨まれると体が動かなくなってしまうそうだ。


 これは、非常にマズイ。このままでは、やられっぱなしだ。なにか打開策はないものか?


 僕はまず、荒熊さんをまじまじと見た。


 がっしりとした体。鍛え上げられたその腕は、どんな壁でもぶち壊してしまえるように思えた。


 次に大蛇を観察した。


 しなやかなで大きな体。放たれる威圧感。そして、鋭い眼光。


 たしかにこの眼で睨まれたら、どんな人でも体がすくむかもしれない。


 そして最後に、自分を観察した。


 ヒョロリとした体。簡単に折れてしまいそうだ。……おや? なにやら、ポケットが――あっ、そうか!

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