第2話

「先生、あのあと、アイアイにごめんってあやまったんだ」

「そうお、えらかったわね、栄太郎君。キミのいい所はすぐ行動できるところだね」

「うん、ありがとう、先生」

「じゃあ、その後アイアイとの関係はまずまずなのね」

「まあね」

 栄太郎は得意げに鼻をすすった。

「それに、鼻くそもガマンしているようね。栄太郎君、とってもえらいわよ」

「先生の言う事、ちゃんと守っているよ。マスクも持ってるよ、ほら」

 栄太郎は少し煤けたマスクをポケットから出して見せた。

「そうなんだ。そうね。じゃあ、あの折れたクレヨンはどうなったのかなあ」

「うん、僕の茶色とかえっこしたよ。お母さんにそう言われたんだ」

「でも、そのクレヨン、鼻くそついてないのかしら」

「うん。だから、キレイに洗ってわたしたよ」

「ではあの一件は解決したと言ってよさそうね」

「うん」

「でも、そう言えば、鼻くそと関係なくっていうのがあったわよね」

「せんせい。そのことなんだけど、フケツに見えるぼくの手をどうしたらいいのか、それがよく分からないんだ」

 栄太郎は顔を曇らせた。

「そうねえ、むずかしいわね。でも、手を洗うという大切なことを日頃しっかりと行う事かしら」

「そうか」

「すると、しばしば手を洗う栄太郎君を見て、きっとアイアイもわかってくれるわ」

「しばしばって」

「なんども何度も、ことあるごとに、何かのたびにね。つまりごはんの前やごはんの後、トイレの後、あそんで手がよごれた時、そのたびにきちんと手を洗うの。みんなもまねするようにね」

「ふうん、わかった。やってみる」

「えらいわね、栄太郎君」


「せんせい、たいへんだよ」

「なに、どうしたの。大変でと言うわりにはそれほど困っていそうには見えないわ」

「じつはね、父さんが手を洗うなと言うんだ」

「ええっ、お父さんが」

「うん、そうなんだ」

「困ったわね」

「けがしたらなめとけって言うんだ」

「鼻くそなめるのと似たようなリクツね」

「せんせい、リクツってなに」

「同じようなお話ってこと」

「たしかに、犬や猫はなめてるもんね」

「それしかできないからよ。でも、人間はそうした動物と同じじゃないでしょ」

「うん」

「それにアイアイにもきらわれるわよ」

「ぼく、どうしたらいいんだろう」

「そうね、お父さんのいう事にも一理あるかもしれないから、お父さんの言う事もきくの。でも学校ではちゃんと手を洗う習慣を身につけるのよ。ダブルスタンダードっていうの」

「ふーん、そうか。だぶるだね」

「お父さんの言う事に逆らっても、角が立つでしょう」

「角って」

「お父さんとけんかするのも嫌でしょ」

「うん、いやだよ」

「だから、お父さんの言う事も尊重するのね」

「村長って」

「大切にするって意味。だからお父さんの前ではなるべく手を洗わないでいいようにするの」

「うん、わかった。よごさない事だね」

「そうよ。なるべく汚さないようにして、学校では汚れたらそのたびにきちんと洗うの」

「かんたんだね。お父さんをちょっとだますんだね」

「だますんじゃないけれどね」

「だぶるでしょ」

「そう、ダブルスタンダード。相手によって対応を変えるの。大人には大人への対応、子供には子供への対応。日本では日本語をしゃべって、がいこくではがいこくごを話すの。あたりまえでしょ」

「ふうん、なるほど」


「せんせい、こまったけど、何とかなったよ」

「あら、どうしたの」

「ぼくが学校でよく手を洗うって、アイアイに褒めてもらったんだけど、それをアイアイがお父さんにしゃべったんだって。アイアイのお父さんはぼくのお父さんと友だちなんだって、おしごとの。それでせんせいの言っただぶるがばれちゃったんだ」

「まあ」

「ね、こまったでしょ。どうしたらいいんだろうって思った。お父さんはカンカンだったんだよ。手はあらうなって言っただろって」

「こまったわね。でも、いったいどうして栄太郎君のお父さんは手を洗うなって言うのかしら」

「それはね、せんせい。お父さんの手のひらにぶつぶつがあるせいなんだ。お前はオレににているから、あらいすぎて、おなじようになったら困ると言うんだよ」

「そうか。お父さん大変なんだね」

「だからいつもクスリつけて、てぶくろしているよ」

「へえ、そうなんだ。まあ、何事も適度に行うことが大切だからね」

「テキドって」

「適当とも言うんだけど、ちょうどいいぐらいに、かな」

「そうかあ」

「じゃあ、お父さんみたいに手ぶくろしてみたら。相手の懐に飛び込むことで、懐柔って言うんだけど」

「うん。ほら、お父さんからもらったよ、ふるいやつ。せんたくしてあるから、きれいなんだって。怪獣ってなんの怪獣だろう」

 栄太郎は洗いざらしの白い、少し大きな手袋をポケットから出して見せた。

「そうか。マスクに手ぶくろね。いいかもね。うまい具合に行ったのね」

「うん。だから、これはダブルでやるんだ。お父さんの前ではこれをはめて手がよごれないから、あらわなくてもすむでしょ。学校でははずすんだよ」

「栄太郎君、かしこいわ。解決してるじゃないの。成長してるわね、えらい。何度でもほめたげる。でもね、ダブルっていうのは二枚舌と同じで本音と建て前を使い分けるってことで、ほんとうはあまり感心できないのよ」

「でも、先生が教えてくれたんだよ。だぶるのにまい」

「困ったわね。ふう」

 先生はため息をついた。

「せんせい、ぼくこまっていないよ。だって、ちゃんとかいけつしたんだよ」

「そうよね。二枚舌と懐柔でね。まったく大人の世界はよくないわよね、困ったものよね」

「ねっ。ぼく、かいけつしたんだよ。アイアイと父さんのもんだい、ふたつとも」

 栄太郎は誇らしげに頬を紅潮させた。



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