第2話

 やがて光に目が慣れて視力を取り戻した俺は、軽い落胆のため息をついた。


「はあ、またこれ・・かよ」


 俺の目の前に広がるのは何もない真っ白な空間。

 上もない、下もない、左右も、もちろん前後もない、ただの真っ白な空間だ。

 俺の見た目も、アメジスト色の瞳にアッシュグレーの髪をした理知的なイケメン、ダレス=エーリアの姿ではなく、この世界に飛ばされてくる前の少し腹肉のボテついたさえない『俺』に戻っている。

 ここはおそらくゲームと現実の狭間の世界……もう何周もこのゲームの中を彷徨っている俺は、そう結論づけた。


 ループが起きるときは、いつもこの空間にとばされる。


 しかし今回は、俺以外にもこの空間にとばされてきた人間がいたようだ。

 ぶぉんと空間がゆがむ音がして、眼鏡をかけた地味な女が一人、俺の隣に現れた。


「ここ、どこよ!」


 どうやら彼女、ここに来るのは初めてらしい。

 不安そうに両肩をすくめてあたりを見回しているが、ここは見るものの何もないただ真っ白なだけの世界、どうしても彼女の視線は俺に注がれてしまうわけで。


「あんた、だれよ」


 その声はおもいっきり不信と不機嫌を含んでいた。


 俺は彼女を刺激しないよう、唇の両端を柔らかく持ち上げて笑顔を作って見せる。

 ダレスのイケメン顔でなら女性の警戒をあっという間に解く『いつもは仏頂面の彼がふと見せるとびきりのスマイル』なのだが、今の俺の見てくれでどれだけの効果があるのかはわからない。

 まあ、辛気臭い仏頂面よりはいいだろうと。


「はじめましてお嬢さん、俺はダレスです。いや、正確にはダレスとしてこの世界に飛ばされただけの、しがない会社員なんですけどね」


 気障ったらしい話し方なのは許してほしい。

 なにしろ長い時間を乙女ゲームの中で過ごしているのだから、ダレスとしての所作がすっかり身に染み付いてしまっているのだ。


 目の前の女は、俺の言葉を聞いて心底不快そうに顔をゆがめた。


「あぁ? あんたがダレスさまだぁ?」


 ドスの効いた声にビビって、俺の声は小さくなる。


「あ、はい、スミマセン」


「まあ、いいわ、納得したから。フラグは回収したはずなのにダレスルートにはいらないし、ダレスだけゲームにないはずの挙動が多いし、おかしいと思っていたのよね」


「あの、ちなみにそちらは……」


「ああ、私が誰かって? チヒロよ、チヒロ」


「あ、ヒロインの」


「そ」


 女は少し得意そうだが、こう言っちゃ悪いが……目の前にいる彼女は、なんとなくチヒロのイメージからは程遠い。


 チヒロは地味だが外見はかわいらしくデザインされている。

 しかし目の前にいる女は丸顔で、牛乳瓶の底を貼りつけたみたいなどの強う眼鏡をかけていて、髪型も伸ばしっぱなしの毛を後ろでひっつめにしただけの、もはや外見も地味にデザインしたみたいな、完全無欠の地味女なのだ。


 それでも地味女の利点が一つ。

 話しをするのに必要以上に緊張しなくて済む。


「もう気づいているかもしれないけど、これ、ゲームの中の世界なんだ」


 俺が言うと、彼女は不快の表情をおさめて答えてくれた。


「ええ、わかってる。しかもこれ、『ミララキ』の世界よね」


「君はこのゲームをプレイしたことは?」


「あるわよ、ちゃんとすべての攻略ルートを攻略済みだけど?」


「じゃあ、もしかして、このループからの脱出方法がわかったり……するわけないか」


「やっぱりこれ、ループなのね。ま、脱出法はわかるけど? 憶測ではあるけど」


 予期しなかった答えに、俺は身を乗り出す。


「ほ、ほほほ、本当に?」


「やだなあ、憶測だって言ったでしょ。でもまあ、これはゲームの世界なんだから、ゲームをクリアすればいいんじゃない?」


「短絡的な……でも、確かに」


「っていうかさぁ、私としてはそのためにラインバッハさま攻略ルートをプレイしていたわけよ」


「ラインバッハ近衛隊長……よりにもよって、なぜそこを……」


 ラインバッハ近衛隊長は、アインザッハ皇子の近辺警護のために常に皇子の近くに控えている長躯筋肉質赤髪に、鋭い目つきが凛々しい男だ。

 アイゼル学園には高貴な家の子息女が多く在籍しているため、こうした警護が主とともに学生として入学してくることも少なくはない。


 ラインバッハもそんな警備学生の一人なのだが、皇子の側付きを務めるだけあって剣の腕は超一流、徒手でも暴漢を叩きのめすほど強い。

 さらに特筆するべきは皇子への異常なまでの忠誠心である。

 これは俺の憶測だが、少し腐れた女性たちが『皇子×近衛隊長』なり『近衛隊長×皇子』なりを妄想しやすいように、敢えて忠義心篤い性格として作られているのではないだろうか。


 たとえばラインバッハと皇子が親しげに並んで談笑している姿など、いかにもエロい。

 皇子より背の高いラインバッハは少し身をかがめて、金髪碧眼の皇子は熱っぽい瞳でラインバッハを見上げて……乙女ゲームでいうところの『スチル絵』というものに起こしたらどれほどの女性が悶絶することだろうかという麗しい光景なのだ。


 しかしその分、ラインバッハは嫉妬深い。

 皇子がヒロインと親密になっていくにつれ、わざと二人の会話に割って入ったり、ヒロインに嘘の用事を言いつけて王子から遠ざけたり、むしろリリーナよりも悪役令嬢らしい振る舞いをするのである。


 そんなラインバッハを攻略しようとは……この女、なかなかに……


「何よ」


「いや、なんで攻略対象がラインバッハなのかなーって」


「そりゃあ、もしかしてこのままこの世界で暮らすことになったりしたらって考えたらさあ、ラインバッハさま安定じゃない?」


「何が安定なわけよ?」


「そりゃあ、将来? アインザッハさまは確かに皇子だしメインキャラだけど、将来を見据えてお付き合いするには、ちょっと世間知らずなのよねえ。だってヒロインのことグイグイ口説いてくるけど、あれ、平民上がりの女を城にあげたら周りから反感を買って苦労しまくるとか、絶対考えてないと思うよ」


「確かに」


「その点、ラインバッハさまは優良株っていうか、城勤めだから仕事は安定しているし、代々近衛兵長を務める武人のお家ということもあって格式は高いけどリベラルな家風のお家に育っているから性格もいいし……」


「あ、でも、皇子に首ったけじゃん、その辺で苦労しそう」


「それがね、ラインバッハ攻略ルートに入ると、あの忠心と愛情が全てヒロインに向けられるようになるのよ。つまりヒロインに首ったけの溺愛キャラになるわけ」


「つまり将来を考えた打算というわけか」


「そういういいかた、やめてくれる? ずらりと並んだキャラの中から自分好みのキャラを選び出すのって乙女ゲームの醍醐味でしょ。私は将来性も含めて、自分好みの男を選んだだけよ」


「あ、はい」


「ところで……」


 彼女は俺にずいっと顔を寄せた。


「あんた、この『人生』、どこから始めた?」


 俺は少し身を引いて、彼女と適切な距離を取る。

 別にエロい意味合いではなく、ありていにいえば彼女が殴りかかってきたときに拳が届かない間合い……俺は、彼女の異常に真剣な表情が怖かったのだ。

 なんだか、下手なことを答えたら、殴りかかってきそうな気がする……。


 俺は少しおびえながら答えた。


「ダレスが五歳になったところから……」


「私はチヒロが時空転移してしまったところから……なんだけど、もう一回そこからやり直し?」


「あ、いや、そこまで鬼畜仕様じゃなくて、アイゼル学園の入学式の場面から……」


「あんた、くわしいのね」


「そりゃあ、もうアイゼル学園入学式から断罪イベントまでの間をぐるぐるとループしてるんで」


「ふうん、何回?」


「七回……次が八回目……」


「甘いわね、私なんて全部のエンディングが見たくって、15周回はしてるし」


「それは、元の世界で、ゲームとして、の話だよね」


「そうよ。だけど、私の方が『ミララキ』に詳しいんだからね、私のいうことを聞いてもらうから」


「それは例えば、ラインバッハ近衛隊長攻略に手を貸せとか、そういう?」


「ラインバッハさまはもういいわ。私、なんとなくクリア条件わかっちゃったし」


「ええっ、本当に?」


「たぶんね。さっき、『アイゼル学園入学から断罪イベントまでの間をループしている』って言ったじゃん? それ、いつもなの?」


「ああ、いつもだ。いつもリリーナ嬢が衛兵に引き立てられていくところで、この空間に戻される」


「やっぱりね。っていうか私もさあ、あのタイミングでアインザッハ皇子の手を借りずに毒殺回避したら、真っ先に駆けつけてきた近衛隊長ラインバッハさまにめちゃくちゃ心配されて、そこからラインバッハルートに入るはずだったのよね。でも、そうはならないで、いきなりここにとばされちゃったわけじゃない?」


「それが?」


「もしかしたらこれ、ヒロインじゃなくて、リリーナ視点で進む物語なんじゃないかな、だからリリーナバッドエンド時点でゲームオーバーになっちゃうんじゃない?」


「そんなことがあるのか⁈」


「あるんじゃない? 生身の人間がゲームキャラに転生しちゃうなんてことが起こるんだから、何があってもおかしくないでしょ」


「まあ、それは確かに…………」


「ともかく、あんた、私のいうことを聞きなさいよね」


「わ、わかったよ」


「とりあえず、リリーナ救済エンドを目指してみるべきかしらね」


 彼女がいうには、リリーナ嬢が不幸にならないエンドが一つだけあるのだと。


「実はこれ、実際の『ミララキ』には実装されていないんだけどね」


 実装されなかった理由は大人の事情――ぶっちゃけ開発費の問題だ。

 しかし『誰も不幸にならない』リリーナ救済エンドは、ファンの間では人気が高く、二次創作などで好んで取り扱われる話題なのだという。


「つまり、私たちが、そのリリーナ救済エンドをここで実現させたら、この世界にもエンドマークがつくんじゃないかな」


 彼女はずいぶんと自信満々だが、俺はちょっぴり懐疑的だ。


「ええ~、そうかなあ」


「なによ、どうせ失敗してもループするだけでしょ。だったら、試してみる価値はあるんじゃない?」


「まあ、そうだけどさあ……」


「考えるよりもまず行動! ほら、行くよ!」


「ええっ、ちょ、ちょっと待てって」


「待たない! さ、スタート!」


 彼女のコールとともに空間がゆがみ、ふわっと体が浮くような感覚があった。

 ゲームが再び始まる合図だ。


 こうして、『リリーナ救済エンド』を目指す八周回目のプレイがスタートした。

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