最悪

増田朋美

最悪

その日、ブッチャーが起きてみると、姉の有希が、いち早く食事を作っていた。なんだかおしゃれな着物を着て、鼻歌なんか歌って、いつもと様子が違っている。

「おう、姉ちゃん。一体何をするつもりなんだ?」

ブッチャーは姉に尋ねてみた。

「ううん、一寸出かけるだけよ。」

と、有希は言うのであるが、そのちょっと出かけるだけというのが、ブッチャーにとって、一番心配する事情なのである。

「誰とどこへ何しに行くんだよ。」

ブッチャーが聞くと、

「ただ、友人と会食に行くだけよ。それだけの事よ。それがどうしたの?」

としか、答えが返ってこない。ブッチャーは、姉のことが、本気で心配になった。

「友人って誰だよ。インターネットで知り合った人か?」

有希には、現実の友人というものはいなかった。学生時代友人を持たなかったからである。それは本当のことだ。インターネットのSNSで知り合った人は何人かいるのであるが、友人として成立したことは一度もない。それはブッチャーも知っていた。

「姉ちゃん、人に会うのはいいけどさ、気を付けてくれよ。そういうものはあまりいいのものじゃないから。よいことだってもちろんあるけれど、悪いことだって、少なくともあるからね。」

ブッチャーがそういうと、有希はうるさそうな顔をして、

「そんなことわかってるわ。何で私だけがそういう事言われて、ほかの人は、普通につきあえるの?」

と、言うので、ブッチャーはこれ以上言うのはやめた方が良いと思ってやめておいた。

「じゃあ、気をつけて行って来てな。俺帰ってくるの待っているから。」

有希が用意してくれた食事をたべながら、ブッチャーは言った。有希は、楽しそうにニコニコしてスマートフォンを眺めている。

「もう、相手のひとも家を出るって。それでは行ってくるわ。私の代わりに、部屋の掃除とかお願いね。」

有希はそういって、部屋を出ていった。ブッチャーは、そんな姉を心配そうに見ながら朝食を食べていた。

しかし、ブッチャーが朝食を食べ終えて、部屋の掃除をして、テレビを適当に見て、さて、もうお昼にするか、姉ちゃんはまだ帰ってこないよな、と考えていると、いきなり玄関のドアががちゃんとあいて、誰が来たのかと思ったら、有希だった。

「どうしたんだよ姉ちゃん。人にあったなら、食事して帰ってくるんじゃなかったの?一体何しに行ったんだよ。」

ブッチャーは有希に聞くが、有希は、黙ったまま答えなかった。

「姉ちゃん、どうしたんだ?何かあったのかい?」

ブッチャーが改めてそう聞くと、有希は、思いっきり玄関のドアをたたいた。そんな

状態で、彼女はなぜ自宅に帰ることができたのか、それも不思議である。

「姉ちゃん、玄関が壊れちまう。何があったか言ってみてくれ。」

「ひどいことされたのよ!」

ブッチャーが言うと、有希は声をあげていった。

「ひどいことってなんだ!」

ブッチャーも驚いてそういうと、

「とにかくひどい人だったのよ!私、正直者がバカを見ると思ったわ!」

とだけ言い、有希は涙をこぼして泣き出した。

「だからあ、姉ちゃんが何があったか、話してくれないかなあ。ただひどい人だけでは、なにがあったかわからないじゃないか。俺は、姉ちゃんに何があったか知りたいんだ!」

こういう時、言えないということにジャッジをしてはいけないということを、ブッチャーは知っていた。そういう時は、あなたに今何があったのか、私は知りたいのだというようにもっていかないと、精神障碍者は応じてくれない。それに、成文化できないのを障害として認定してしまうのではなく、成文化できるように努力させることも必要なのである。彼らだけ成文化できないということは、偏見を生んでしまう。

「じゃあ、姉ちゃん。何があったか教えてくれ。まず、姉ちゃんは、どこへ何しに

いったんだ。」

ブッチャーは一つ一つ、段階を踏むように語りかけた。できないなら、出来るようにもっていくことが重要だ。それが精神障碍者を介護するということである。

「今日は、インターネットで知り合った人に会いに、富士駅へ行ったわ。」

と有希は、ブッチャーに合わせて静かに語りだした。

「で、その富士駅に行って、なにがあったんだよ。全部を通して言えないなら、まず、駅に着いてから何をしたのか、順番に話してみてくれ。」

ブッチャーは有希にそういった。できるだけかみ砕いて話すのも、車いすを押すのと同じようなことになるのだ。

「あたしは、相手のひとより先についたので、駅の切符売り場の前で待ってたの。」

有希も変に興奮することなく静かに語っている。

「うんうん、それで相手のひとにあったわけだね。」

とブッチャーが言うと、

「いいえ、会わなかったわ。」

と、有希は答えた。

「はあ、用事でもできてこれなくなったとか?」

ブッチャーがそう聞くと、

「ついたという連絡はあったの。でも私が、駅の改札近くにいると連絡しても、それっきり連絡は来なかったのよ。そこで私は、一時間以上待ったけど、その人から連絡は結局なかった。いくら連絡をくださいと言っても、何も返事をよこさないから、もう帰るとだけメールして、、タクシーに乗って帰ったわ。」

有希がそう答えたので、ブッチャーは今日の歩行訓練は、正常に終わったと思った。

「そうか、わかったよ。変な奴もいるもんだな。まあ確かに、約束を守れる奴は、最近は少ないからな。そういう変な奴だと思えばそれでいいよ。」

成文化できたら、それをけっして批判してはいけないということもブッチャーが身に着けたテクニックの一つでもある。たとえそれに反対意見であっても、障害者の言うことは否定してはいけない。そして次はこうするようにと、提案するようにもっていくのが、一つのテクニックだった。

「じゃあ、姉ちゃん。もうそのサイトはあきらめてさ。もっと安全が確認できるところに行ったら?姉ちゃんが、インターネットでしか友達をつくれないのは確かだから、きっかけはそれしかないと思うけど、そうじゃなくて、現実に開催されるサークルのようなものや、勉強会に行ってみるとか。」

そういう時に、病院の付属施設のことは言ってはいけないということも、注意しなければならないのだった。そうすると、自分の居場所は病院しかないのだと、いう概念を障碍者に与えてしまう。精神障害者というのは、劣等感を与えてもいけないし、居場所がない、邪魔だという概念を植え付けてもいけない。これを知っておかないと、一緒に生活することはできないと思う。

「そうね。何かのサークルとか、そういうところに行ってみるわ。ないか良いサークルがあればいいんだけど。一見すると、ただのサークルだったのが、毒薬をばらまくテロ組織に変貌したこともあるから。」

確かにそれはそうなのである。サークルと言っても、どうしても善悪の判断が難しいので、参加してみないとわからないところもある。

「よし、じゃあそれまでにしよう。姉ちゃん、あとで面白そうなサークルを探してみろや。きっと、こんな時代だから、サークル何てすぐに見つかるよ。まあ、参加してみて、よくないなと思ったら、次はいかなければそれでいいんだからさ。まあ、試しにやってみる、だめもとくらいな気持ちでゆっくりやれや。」

ブッチャーは有希に、もうこの話はやめるようにといった。いつまでも同じ話をしないのも、精神障害者と暮らしていくためのルールであった。それはブッチャーもよく心得ていた。

「じゃあ、お互いここまでにしような。明日から毎日のように過ごそうな。」

と、ブッチャーは姉にいった。でも姉がまだ納得できていないような様子だったのは、逃してしまった。後は姉が一人で何とかしてくれるだろう。ブッチャーはそう思ってしまったのである。

有希は、そうねと言って部屋へ戻った。一人になると、あの時の悔しさというか、悲しさというものが思い浮かんでしまうのである。なんであの人は、連絡すらよこしてくれなかったのだろうか。何か連絡をくれれば、もう少し待ったのに。もしかして、何も言ってくれなかったのは、自分が精神障害を持っていたせいではないか。有希はふっとそれが思い浮かんでしまった。そうなると、ブッチャーが言った、サークルを探してみるということなど、どこかへ消し飛んでいった。普通のひとであれば、相手が悪いとか、サイトの運営側に有害人物だと通報してしまうとか、そういうことができてしまうのであるが、障碍者であることに劣等感を感じてしまう有希は、それができないのであった。有希はまた声をあげて泣き出してしまった。

「おい、姉ちゃん、もうさっきの変な奴のことは忘れちまえよ。世の中にはそういう、人を大事にしない人が、たくさんいるんだよ。泣いてるんなら、さっきも言った通り、サークルでも探せばいいじゃないか。そういうことをすれば、また良い出会いも見つかるよ。はやくパソコンの電源を入れてさ、探してみたらどう?」

ブッチャーが有希の部屋に入ってそういうことを言うが、有希はいつまでも泣いているのであった。

「そんなにつらかったのなら、ないている理由も話してみろ。姉ちゃんの気持ちを、俺がちゃんとくみ取ってやれなかったかもしれないからさ。其れなら、ちゃんと話して訂正してくれ。」

と、ブッチャーは有希に言った。

「もう、聰は、そうやって理由とか、なにがあったかとか、そういうことばかり聞きたがるのね。そうじゃなくて、あたしが裏切られてつらいんだということは、何も聞いてくれないんだわ。」

ブッチャーは、そういうことを言われるのは苦手だった。でも苦手なままで姉に接するのは苦手だとおもった。下手に接したら、姉の障害が、余計に悪化してしまうこともある。

「それでは、姉ちゃん、俺にはそういうことはできないから、姉ちゃんがそういう相手のひとを見つけることだな。姉ちゃんの相手をしてくれて、姉ちゃんのことをよくわかってくれる人を、今すぐ探しに行くんだな。其れには時間がかかるかもしれないけど、根気よくやれば必ず誰か見つかるよ。それをやってみればいいじゃないかよ。」

「そうだけど!」

有希は甲高い声で言った。

「今の私の気持ちはどうするの?どうしたらいいの?私はやり方を知らないのよ!」

やり方を知らないと言われても、ブッチャーはそのようなことを感じたことはないので、どう答えていいかわからないのであった。

「そんなこと、誰でもやっていることさ。食事をするとか、音楽聞くとか、創意子事をして気を紛らわすしかないじゃないか。」

ブッチャーはとりあえずそういってみる。

「それは、私にはできないことよ!あんたたちはそういう事で解決できるかもしれないけど、私はそうじゃないの!なんでそう簡単にあんたたちはできるのよ!どうしてあたしはできないの!どうしてあたしだけが、そういう風につらい役目を負わされるの!」

有希は金切り声で叫んだ。そして何度も壁に頭をぶつけるのだった。こうなってしまったら、力で抑えるしか方法はないのだった。もしかしたら、リストカットとか、オーバードーズを引き起こすこともある。そうなたら、彼女の命に係わる。彼女自身の最大の弱点は、怒りや悲しみとか、そういう感情を自分でコントロールできないということであり、それのせいでモノを壊したり、自分を傷つけたりすることである。

「姉ちゃん!自傷行為だけは絶対にするな!自分を傷つけるなんてやってはいけないことだ!」

ブッチャーは姉を取り押さえた。わけのわからない言葉を叫びながらなおも床に頭を

ぶつける姉を一生懸命抑えて姉が静まるのを待った。こういう時、家族にできるのは、薬を飲ますか、力尽きるまで待つしかないのだ。薬だって、信用しないものは飲まないことが多い。

「姉ちゃんは、つらい役目とか、そういうことを背負っているわけではないよ!ただ、姉ちゃんは感情の制御ができないだけだよ。ただ、それだけだよ。それで今つらいだけだよ。別に姉ちゃんが特別な使命を持っているわけではない。そう思ってくれないかな、俺もそう思うから。姉ちゃんもそう思ってくれ。それでよいことにしてくれ!」

ブッチャーは泣いている姉の体を押さえながらそういうことを言った。

「姉ちゃん、それだけのことだ。それだけの事だから、もう何もないんだよ。ただ、性の悪い人に当たっただけの事、それだけの事なんだよ。」

ブッチャーはできるだけ、声を小さくしようと試みた。大きな声を出したら、それこそたたき合いになってしまうからだ。有希はなぜ、自分だけが、こんな目に合っているのか、もう死なせてくれと泣きながら叫ぶ。もうそうなってしまうと、答えなんて思いつかないから、必死になってただ生きてくれ、生きてくれと叫ぶしかない。それを、何度繰り返したのかわからないうちに、有希は泣くのをやめて静かになった。それを確認するとブッチャーは静かに姉の体から離れた。

「姉ちゃん、もう静かにしてくれよな。生きていてくれてありがとう。」

「ごめんね聰。何があっても暴れないって約束したのにね。」

有希はそういってくれたけど、三日坊主とは、まさしくこういう事だ。ブッチャーはそういうところは、約束を守れないひどい奴とたいして変わらないという思いも持ってしまうが、でも、それを口にして言うことはしなかった。それを言ってはいけないのは、何とも悲しいというか、切ない気がするのだ。でもそうしなければだめなのだ。

「姉ちゃん、きっと、姉ちゃんを助けてくれる人物は必ず現れるから。残念ながら、俺たちにはそれはできない。でも、きっと姉ちゃんのことを理解してくれて、姉ちゃんを助けてくれる人物は必ず現れるから、そっちを探すことに、考えを持って行ってくれ。俺たち、姉ちゃんがそうなってくれるのを急がないから。姉ちゃんのペースでいいからさ。幸い俺たち家族は、俺も、母ちゃんも、父ちゃんも生きているし、まだ、時間はあるよ。俺たち、待ってるから、姉ちゃんのペースでゆっくり探して行ってくれ。」

ブッチャーは申し訳なさそうに姉にいった。もしかしたら、姉という年上の存在ではなく小さな子供に言い聞かせるようなそんな、口調になっているかもしれなかった。とにかく、待っているということを伝えること。これが、一番大事なのであった。

「姉ちゃんのことを、理解してくれる男性、きっといつか見つかるよ。世の中にはただ待つしかできないという時期もあるんだよ。だからいまそれだと思って、一生懸命探そうな。」

それが誰の事だかわからないけれど、ブッチャーはそう思うしかなかった。それを言うしか、姉が暴れることを止めることはできなかったのだ。

「姉ちゃん、もう今日は終わりにしような。大丈夫だからな、俺たちはちゃんとここにいるし、姉ちゃんのことを捨てることはないし、ずっとそばにいるよ。」

ブッチャーは涙をこらえながら、ぽつんと言った。

「そうね。」

と有希は一言だけ言う。有希に謝罪をしろと言いたかったが、それはできないことでもあった。謝罪をさせたら、自殺を図るかもしれないからだった。

「じゃあ、よく休んで今日の事は、ゆっくり心の傷をいやしてくれよな。」

と言って、部屋を出ていったブッチャーであったが、本人もくたくたに疲れ果てていた。体力に自信があると言っていたブッチャーであっても、こういう場面に遭遇すると、疲れ果ててしまうのであった。

廊下を歩いていると、インターフォンがなった。

「あれ、誰かなあ。」

と思わず声をあげて、玄関へ行く。そして、インターフォンの受話器を取る。どちら様ですかと聞くと、何だか不明瞭な発音で、ブッチャーの耳にはこう聞こえたのである。

「あ、あの、ああり、もり、です。富士駅、で、有希、さんの、麦わら帽子を、ひろったので、届けに来させて、もらったのですが。」

つまりこういう事だ。富士駅に有希の麦わら帽子が落ちていたので、それを届けに来たのである。有希はおかしな癖があって、持っているものすべてに名前と住所を書いておく癖があった。それを頼りに、持ってきてくれたのだろう。

「ああ、ありがとうございます。すぐ行きますんで。」

ブッチャーはいそいで玄関に行った。ドアを開けると、例の端正な顔だちをした、有森五郎さんが、玄関先に立っていたのである。

「五郎さん、ありがとうございます。わざわざ姉の落とし物をうちまで持ってきてくれるなんて、申し訳ないくらいですね。姉は今ちょっと、大変なことが在って、一寸部屋で休んでいるんですがね。」

ブッチャーは姉を呼んでくるということはできず、そういってごまかすしかなかった。

「いえ、な、にも、気にする、必要は、あ、りません。僕はただ、忘れ物、を、届け、に、来ただけです。名前が、書いて、あ、りまし、たけど、これ、有希さんのですよね。」

と言って五郎さんは、麦わら帽子を一つ見せた。確かにピンクのリボンを結んである、姉のものに間違いなかった。

「ああ、ありがとうございます。五郎さん、何かお礼をしますから、そこで待っていてくれますか。」

と、ブッチャーは五郎さんに言った。本当は、五郎さんが有希の説得にあたってくれればまた違う結果になったかと思った。五郎さんであれば、自分の答えとはちがうものを言ってくれるに違いない。

「あーあ、他人には頼れないよなあ。」

ブッチャーはそういいながら、台所へ行って、冷蔵庫からリンゴを二つ取り出した。これくらいしか、須藤家には差し出せそうなものはなかった。まあ、それでもいいから、五郎さんにあげようと、ブッチャーは思って、リンゴ二つをビニール袋に入れ、玄関先へ向かった。玄関に立っていた、五郎さんに、

「すみませんがこれ、持って行ってください。」

と、五郎さんに先ほどのビニール袋を渡した。

「あ、ありがとうございます。」

五郎さんは、変な発音ではあったけど、ちゃんとお礼を言ってくれた。そして、ブッチャーの顔を見て、

「あの、何かあっ、たんですか?お辛、いことが、あったような、顔をしているから。」

と、いうのである。ブッチャーは一瞬だけ顔が緩んだ。でも、五郎さんに話してしまったら、どうなるだろう。もしかして、この家がおかしいと言いふらせれる可能性も?大体の人間はそうなってしまうことが多いから。それを快楽と思えるように人間の意志はできているから。

「いえ、大丈夫です。どうもありがとう。俺にまで声をかけてくださって。」

とりあえずそれだけそういっておく。

「い、いいえ、大丈夫です。それ、は、当たり前、のことです、から。」

五郎さんは、ブッチャーにそういう事を言った。

「でも、僕の家族も、ほか、の、ひと、に、僕、の、悪口を、平気でいう、ことは、してましたから。」

五郎さんがそういうので、ブッチャーは、もうこう言うことはした方が良いと思って、口を開いた。

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