02

 多分、俺と彼女が見つめ合っていた時間は、それほど長い時間じゃなかっただろう。

 いや、見つめ合ったというのは僕がそう思っただけで、舞台の上の彼女からしたら俺は観客席にいる有象無象の一人だったかもしれない


 だけどその瞬間、たしかに彼女の体が固まったように見えたのだ。

 きっと彼女も俺に気がついた……いや、俺が彼女の正体に気がついたことを知ったに違いない。

 俺には彼女の表情がそういう風に見えたからだ。


「きょ、今日も皆さん、最後まで楽しんでいってくださいねー!」


 一瞬うわずった様な声を上げかけた彼女だったが、その後は調子を取り戻したのか、流れ出した音楽に合わせて歌い出す。

 だけど俺は直ぐに違和感を覚える。

 軽快なアイドルソングはどこかで聴いた曲だ。

 彼女のオリジナルでは無いのだろう。

 そして――


「口パク?」


 そう、流れているのはカラオケではなく歌入りの曲そのもので。

 彼女はその曲に合わせて踊りながら、自分の口を歌に合わせて動かしているだけなのだ。


「もしかして俺が知らないだけで、よくあることなのかも。有名なアイドルもライブとかTVで口パクすることもあるらしいしな」


 俺はそう自分を納得させ、彼女のライブを見ることにした。

 煌めくスポットライトの下で、可愛い衣装を着て踊り歌うアイドル。

 だけど、俺の知る彼女は全く別人にしか思えなくて。

 多分、俺以外のクラスメイトが見ても彼女が誰なのかはわからないだろう。

 現にタックは全く気がついていない様子で、一心不乱に廻りの観客と同じように飛び跳ねて声を上げている。


「帰るか」


 俺はそんなきらびやかな部隊に背を向けて出口に向かう。

 彼女がこのことを隠していたのには理由があるはずで。

 それを暴く権利は俺には無い。

 ここが彼女の聖域であるなら、それに勝手に踏み込んじゃいけない。

 俺はタックと違って空気が読める男だ。


「……」


 出口で振り返り最後に舞台上の彼女を見る。

 なぜか俺の方を彼女が見ていたような……そんな気がしたけれど、やっぱり気のせいだったようだ。


「それじゃあまた明日学校でな」


 誰も聞いてはいないだろうけれど、俺はそう呟いてライブハウスを後にした。



     ◇ ◇ ◇ ◇



「昨日は疲れたな……精神的に」


 俺は今日も遅刻ギリギリに教室に入る。

 後ろの扉から入るときに、無意識に空野の席に目が向いた。


 今俺が入ってきた後ろの扉と真反対。

 前の扉の横の席に座る彼女は、いつものように目立たない格好で、今も一限目の授業の準備をしているようだった。


 俺は昨日のことを頭から振り払うと、そのまま歩みを進め彼女とは対角線上で真反対である窓際の一番後ろの席に座った。

 鞄を机の脇に引っかけ、机の中に突っ込んだままの教科書を漁っていると、前の席の男が振り返って話しかけてくる。


「おい諒二。お前昨日なんで先に帰ったんだよ」


 いつも通りのイケメンフェイスの悪友は、不満げにそう言うと俺の方を向いて椅子に座り直す。

 どうやらタックはあの後ライブを最後まで楽しんだ後、俺がいないことに気がついて少し探したらしい。


「探すくらいなら電話でもすりゃいいのに」

「まさか帰ったなんて思わなかったんだよ。まったく人がチケットを譲ってやったってのによ」

「無理矢理連れて行ったくせに」

「だってチケットがもったいないだろ。あ、そういえば帰りにさ――」


 こいつはあの後、帰り道に隣の学校の女子からまた告白されたらしく、俺はその話を苦虫をかみつぶしたような顔で聞くことになった。

 それから俺たち二人はいつものようにチャイムが鳴って教師がやってくるまで馬鹿話をした後、いつものように昼休みを待ちわびつつ勉学に励んだ。


 数時間後。

 昼休みを告げるチャイムと同時、俺は立ち上がる。


「タック、行くぞ!」

「おう。今日こそは負けねぇ」


 今日は購買で水曜限定の特製カレーパンが売られる日である。

 もうけ度外視でパン屋の親父が作ったと言われているそれは、数が少なく競争率が非常に高い。

 なのでチャイムが鳴ると同時に全力で購買に向けて走らなければ勝者になることは出来ないのだ。


 まだ授業の片付けをしている教師よりも先にまずタックが教室を飛び出す。

 教科書を仕舞うのに少し手間取った俺は少しで遅れてしまった。

 だが俺かタックのどちらかがたどり着けば二人分買えば良い……というわけではない。


 購買のおばちゃんはそんなに甘くは無いのだ。

 時折発売される限定品は一人一品というルールを彼女は絶対に守る。

 鉄壁の女である。


「ちっ」


 俺は慌ててタックに続いて教室を飛び出そうとした。

 だけど、そんな俺の腕が横から伸びてきた手に突然掴まれた。


「えっ」

「きゃっ」


 もちろん勢いが付いていた俺の体は、そんなことで止められるわけが無い。

 俺の腕を掴んだ人物は、その勢いに負けて転んでしまったのだ。


「いたたた……」

「だ、大丈夫か? って、空野」


 俺の腕を突然掴んだのは、空野千歌だった。

 彼女はスカートに付いた埃を叩きながら立ち上がる。

 どうやら怪我はしていないようだと、俺は内心胸をなで下ろす。


 だけどそんな僕の心配を余所に、いつもの地味で無表情な顔に戻った空野は、ズレた眼鏡を直しながら俺の目を見つめながら――


「田中君、ちょっと付き合ってくれないかしら?」


 そう言ってもう一度僕の腕を掴んだのだった。

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