vol.00 咲き散らし


――――――――――


 名前を呼ぶと、薄く笑った。


「聞こえてる」

「いま、すぐ医者のところへ、つれていく」


 腕を首にかけ、彼女の体を抱き上げる。血はどれくらい出ている。刺されたのか、撃たれたのか、その判断をする間もなく車へと運び込む。

 シートベルトをつけようとしたが、手の震えでカチャカチャと上手く入らない。その時間すら惜しいのに、焦りと怒りと悔しさが頭を占める。

 その手を静かに掴まれ、その温度の無さに、心臓が冷える。彼女の方を見ると、とろりと笑った。反対の手が頬に添えられ、そっと冷たい唇が重なる。

 きっとこの感触を、これから一生忘れないだろうという確信があった。


「大丈夫よ」


 その言葉に救われた。何度も。

 次は、俺が救う番だ。

 すぐにエンジンをかけ、車を発進させる。ひっくり返るんじゃないかという勢いで道を曲がった。

 いつもは悪態をつく彼女が静かで、その恐怖から名前を呼ぶ。


「……わかってる、ねえあそこ、行きたいよね」

「一体、どこに」

「ほら前に、食べたパンケーキの」

「絶対、連れて行ってやるから」

「今度は生クリームのやつ……」

「……おい」

「……うん、わかってる」

「待ってくれ、おい!」

「……大丈夫よ、わかってるから……すこし……」

「馬鹿、起きろ!」

「……バカじゃないし……」

「パンケーキ、食べに行くんだろ」

「……うん」

「……生クリームの……」

「……ん……」

「……あいしてるよ」


 愛してるんだ、心の底から。

 どうして今こんなに素直に口に出来るのに、これまで言えなかったのだろう。

 赤信号が見え、止まる。いや、発進してしまうか、考えた自分も居る。他の誰を殺したって、彼女を奪われたくない。

 奪われたく、ないのに。

 隣でぐにゃりと眠ったように窓に寄りかかり、もう返答をしない。

 その手に触れようと手を伸ばすが、躊躇い、シフトレバーへとかける。


「愛してるんだ……」


 怒りと悔しさだけが身体を支配する。

 振り上げた拳をハンドルへぶつけ、鈍い音と、後ろからクラクションが鳴った。

 信号は既に青へと変わっている。

 俺は震えながら泣き、歪んだ視界の中、アクセルを踏めなかった。


――――――――――





 ごとん、と鈍い音に香坂は顔を上げた。メールの文面を見返している途中だった。

 椅子を二つ空けた向こうに座る在原が同じ長テーブルに突っ伏している。

 時折、ずずと鼻を啜る音はしていた。花粉症のそれだと思っていたが、違っていたのか。


「どうしたの?」


 香坂と在原の真ん中、斜向かいには和久井が座っていた。打ち合わせ後、会議室で仕事を続ける和久井と、メールだけ返そうとしていた香坂と、香坂と昼飯を食べる為に時間を潰していた在原が同じ空間に残っていたのだ。

 和久井も静かにそちらを見る。

 ずず、と鼻を啜る音。

 軈て顔を上げて、目の前に置いていた在原持参の花粉症用のティッシュケースで目元を拭い、鼻をかんだ。


「もしかして泣いてた?」

「え、どうして」


 和久井の質問に香坂が怪訝な顔をする。よく見ると在原の手元にはソフトカバーがあった。作者はよく知った、香坂五月の文字。


「物語に殺されることって多々あるけど」

「物語? 殺人ってこと?」

「じゃなくて、こう木っ端微塵に元に戻れなくなるくらいバラバラにされること。心を」

「うん?」

「五月ちゃんはそれの天才だと思う」


 これは褒められたのか?

 香坂はちらと和久井を見てしまった。同じことを和久井も思ったようで、苦笑いしている。


「なんでこれ、車の中で、しかも運転中に死ぬんだよ……もっと主人公のこと考えてやれよ」

「最期に会話してるでしょう」


 最新作、『咲き散らし』の中身だ。殺し屋の主人公は、同じく殺し屋の彼女と出会う。道中、主人公に恨みを持つ組織に彼女は殺されてしまう。その場面を言ってるのだろう。

 在原は目元を赤くしながら額を抱える。


「じゃあ返事聞かせてやれよ、愛してるの返事を」

「返事がないのが答え」

「そういうとこだよ……人の心がねえな……良い意味で」


 すん、と鼻を啜る。


「言わんとしてることは分かる気がする」


 黙っていた和久井が口を開けば、在原がそちらへ顔を向けた。


「香坂さんの小説って、泣きっ面に蜂というか弱り目に祟り目というか、これ以上にないくらいの地獄に突き落としてくるところがある。在原くんはそれに心を砕かれてるんでしょう」

「それです、それが言いたかった」

「そうですかね?」

「無意識なら尚の事すごいな」

「あ、次の会議行くね。じゃあお先に」

「はい、お疲れ様です」

「お疲れさまです」


 各々頭を下げ、和久井へ別れを告げた。

 香坂はメールを見返し、送信する。


「お待たせしました」

「よし、行くか。親子丼食いたい」

「どっち?」

「鶏と卵で」


 立ち上がり、会議室を後にする。

 ソフトカバーを鞄へ入れる在原を見た。


「持ち歩いてるの? 重くない?」

「時間ある時に読みたいし」

「人を殺したら、ダメなの。そうでしょう」


 なにを当たり前のことを、放送局の廊下で言っているのか。香坂は続ける。


「だから、それ相応の最期にしようと思って書いた。彼女にも、主人公にも、救いはない最期に」


 厳しい正論。しかし読み途中の在原は、首を傾げる。


「どこにも?」

「うん。どこにも」

「でも、主人公は今まで言えなかった言葉と気持ちを吐き出せた。それは小さくても、救いだ」


 在原を見上げる。香坂は目を瞬かせた。


「あなたって、絶望することあるの?」

「なんだその質問」

「よく私の本の帯には、『どれだけ絶望させれば気が済むのか』って書かれるから。在原ってそんな中から希望見つけるの得意だよね」


 思い出し、可笑しく笑う。貴重な笑顔に見惚れながらも在原は考えていた。


「それ褒めてる?」


 単に頭の中お花畑だと言われているのでは、と腕を組むが、同じことを先程思っていた香坂が更に笑って行ってしまう。

 どうやら褒めているらしい。


「現実は絶望ばかりだから、物語にくらい希望を求めたい」

「そういう人に、私の小説は向いてない気がする」

「心をズタズタにされるからな。それで、また戻る」

「戻せる?」


 いや、戻されるんだ、と答えなかった。

 絶望は辛いが、香坂はそれを読者に浴びせ投げつけたままにはしない。最後には砕かれた心も全部、抱き寄せられる。

 それは香坂の小説にハマる要点のひとつだったが、在原は言葉にするのは止めた。言うことで、香坂の創作に影響が出るとは思わないが、自分の中で大事にしておきたい部分だからだ。


「最後まで読んでからのお楽しみだな」

「感想は受け付けてませんので」

「はいはい。にしても運転のシーン良かったな、あそこだけでも映像にしたい」

「さっきまでもっと考えてやれって言ってたのに」

「それとこれとは別」


 在原個人と、演出目線の違いに、香坂は苦笑した。

 放送局を出ると柔らかい風。春がやってきていた。在原がくしゃみをする。


「ちなみに、季節はいつ?」

「春」


 春か、と言いながら再度くしゃみが聞こえた。







*あとがき*


冒頭のシーンがふと思い浮かび、こんな悲しいシーンは彼女しか書く人間はいないな、と思って書きました。それだけ。

あとこの三人で映画を作るのが決まってから、結構いつメンみたいな感じで一緒にいそうだなと思ってます。在原と香坂はまあ言わずもがなですが、和久井は二人が言い争ったり漫才してるのを面白く聞く大人なので、結構相性が良かったり。他の人間たちは二人が言い争い始めるとはらはらしてしまうので。

戻り梅雨ですね。体調気をつけましょうね。



20220718



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