vol.00 あとどれくらい
満たされない。
「ますみ、今日空いてる?」
「空いてる」
「じゃー連絡するね」
「おー」
雨が降っていた。春夏秋冬、関わらず天気はくるくると変わる。
他学部の女子に声をかけられ、在原は気易く返事をした。それとすれ違いで横に座った河地が、女子の後ろ姿を見る。
「彼女?」
「違う」
「セフレかー。可愛いじゃん、彼女にしてよーとかねえの?」
「そういうのが出ない相手を選んでる」
「俺なら彼女にしちゃうけど」
「河地は普通に彼女できるだろ」
嫌味か、と河地は目を細める。しかし昏く笑う在原にそれ以上突っかかることはしない。
雨の日はきっと少し機嫌が悪い。大学で知り合ったばかりだが、河地はそれを感じ取っていた。機嫌が悪くても、人当たりの良い在原に、誰が注意できるというのか。
喘ぎ声。ベッドの軋む音。シーツの冷たさ。汗で湿った肌と、触れた場所が持つ熱。
穿った性欲と、とろけた女の顔。
挿れていた場所から自分のそれを抜く。柔らかい女の太腿に指が沈む。
「もっかいする?」
甘えるような声に、その顔を見る。
質問にするわりに、したいという素振り。それなら普通に伝えれば良いのに。
在原は女性が好きだ。自分を好きになってくれる女性は大事にしたい。優しく接すれば顔を赤くしたり、可愛く甘えてきたりする。女性としての括りで、好きだと思う。
在原の心には満たされない部分がある。そこは良い映画を観たり、女を抱く行為で、少しだけ満たすことができる。しかし、時間が経つとまた穴が空く。
足りない、と感じる。
「シよーぜ」
「ん」
可愛いとは思う。確かに、顔も身体も申し分ない。多分自分に好意を抱いているな、という感覚もある。きっともうすぐ潮時だ。
在原が身体の関係で許すのは身体だけだ。起ち上げたサークル内で彼女を作ることも身体の関係を持つこともしない。ありきたりな修羅場は、高校の時に痛い程経験した。
それでも、こうして身体だけを重ねるのは、満たされたいという気持ちがあるからだ。身体は心に引かれる。身体を満たせば、心も満たされる、気がしていた。
女の首に唇で触れる。湿った肌が擦れ合うのが心地良い。どこも柔らかく、緩く、赦されている。
でも、足りない。
胸に触れ、嬌声を上げる女の腰を掴んでひっくり返した。
「あっ、まだだめ」
「いつまで?」
「まだ……」
指を挿れると、喜んでいる。浅いところをかき混ぜると腰が跳ねた。
「身体は良いってさ」
耳に囁くと少し顔を紅くした。
再度挿れて、腰を振って、終わり。終わって、シャワーを浴びて帰る支度をする。
「もう帰っちゃうの?」
「明日一限あるから」
「ますみって、そーゆー真面目なとこあるよね」
だらだらとベッドの上で過ごす女に苦笑する。一年目で単位を落としかけていると前言っていたのを思い出したからだ。
「じゃあな」
「んーまたね」
午前中、雨が降っていた。
他学部の女がやってきて、在原と夜の約束を取り付ける。河地は寝坊したらしく、四限から来るらしい。
いつもとは違う同学科の男女の友人たちと食堂にいた。
「可愛いじゃん、彼女?」
「違う」
「あーアッチのお友達?」
「在原って女遊び酷く無ければ良い男なのにねー」
散々な言われようである。しかし事実なので、笑って聞き流す。
午後で雨が上がり、在原は四限の教室に入った。後ろの方で座り、眠っている河地の斜め前の席に座ってスマホを見た。
近くの通路を通る顔見知りに挨拶を返す。
四限が終わったら夜まで少し時間がある。いい加減、学生映画コンクールの脚本を書かなければならない。在原はいくつか書き途中のそれを出して見るが、いまいちピンときてはいない。
つまらないものしか書けないなんて致命的だよな、とスマホを置いて考える。ふと机の中に入っている物に手が触れた。前の時間で使った学生の忘れ物か、とそれを取り出す。
参考書にしては薄いと思ったそれは、ノートだった。表紙にタイトルなし、名前なし。裏表を確認するが、何も記載されていない。
何の授業だ、と中を開いた。
最初の数ページは白いまま。その後に書き込まれた文章。
小説だった。
在原の視線は奪われる。
教授が入ってきて、レジュメが配られた。前からそれを受け取り、河地に渡す。
書き込まれたボールペン字は綺麗で、女子かもしれないと予想する。その物語はキラキラとした青春でも、ハラハラするミステリーでもない。
淡々とした男と少女の暗い物語。
冒険をする男に、少女がついていく。時折助け合い、心が通じるかと思えば、最後に男は眠る少女を遺して去ってしまう。
読めば読むほど、映像がパラパラと頭の中で動いていった。
夜の約束はキャンセルした。
授業が終わっても在原はそれを読んでいた。一字一句、覚えるほどに読み込み、結局泣いた。
あまりにも、悲しく残酷な結末だ。
起きた少女は居なくなった男を探すだろう。どんな絶望を感じるだろう。これを書いた作者は、遺される痛みを知らないのかもしれない。
何故、と問いただしたくなる。同時に、すごく話し合いたい。
こんな熱くて冷たい物語を抱く存在と。
突然、後からノートがひったくられた。
驚いた顔で在原は振り向き、彼女はノートを胸に抱いていた。夕日に反射した大きなピアスがキラキラと光を放つ。
ああ、きっと、満たされる。
映画を観た後より、身体を重ねるよりずっと楽しく、満たされる。
在原は心のどこかでそれを感じた。一瞬思っただけで、すぐに忘れるのだが。
「それ、お前が書いたの?」
彼女――香坂五月は心底嫌そうな顔をして黙った。
それが、物語を愛する二人の出会いだ。
*あとがき
この序章(香坂視点)は映像みたいに浮かんで、すらすら書けたのを今でも覚えてます。
香坂がどうやって物語を作っていくか、という話なわけですが、同じくらい、在原はどうやって満たされない気持ちと折り合いをつけていくかという話でもあるわけです。水と油は。
そう考えると、本当に在原は香坂に出会えて良かったよな、と他人事のように思います。
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