vol.60 あわよくば


 手土産と共に現れた楢に、編集部はざわついた。与寺はすぐに小会議室へと通す。土産はちゃっかり頂いた。

 噂通り頬に湿布が貼ってあり痛々しい。

 会議室には香坂がいた。急に現れた楢を見て、目をぱちくりさせる。


「うわー痛そうだね」

「口の中がまだ滲みます」

「あ、ほら、蜜柑食べなよ」

「もしかして怒ってます……?」


 テーブルの真ん中に置かれていた柑橘類を勧められ、楢は受取って尋ねる。

 何故? と香坂は首を傾げる。無意識にやっているのか。


「あの、先日は本当にすみませんでした。そしてありがとうございます」

「与寺さんがタクシー払ってくれたし、救急車呼んでくれたんだよ」


 あの時、手が震えて番号を押せなかった六所に代わり、すぐに駆けつけた与寺が救急車を呼んだ。場所と容態を的確に伝えていた。


「本当に、ありがとうございました」

「いえいえ、勝手について行っただけなんで。少しは役に立たないと」


 おちゃめに笑って与寺は肩を揺らして、時計を見た。


「もうすぐ和久井さん来ると思うのでお茶の用意してきますね」


 そう言い、会議室を出ていく。

 楢は香坂を見た。


 ファンレターやSNSへの書き込み。療養中だと報道された楢を心配する声、応援する声は多い。俳優はたくさんの人の目に触れる。それに期待と救いと憧れと想いが込められる。

 楢はそれに堪えられず、逃げようとした。

 あれだけされて嫌だった期待を、香坂にだけ預けて。


「死のうとする前も後も、五月さんの言葉をずっと考えてて」

「え、なんか言ったっけ?」

「いや、『月の湖』の……最後の場面の」


 一面に花の咲く場所で、主人公は問いかけられ、答える。

 赦しましょう、と。

 香坂はそこを映画で加筆した。小説は問われて終わる。洛間に相談して、入れてもらった。

 小説は読みたい人間にだけ届く。しかし映画は少し違う。友人や恋人に連れられて見ることもあるだろう。映画館に来て、丁度良い時間にやっていたのが『月の湖』かもしれない。

 届かなかった人に届く。いや、届けと願って。


「……どうして赦したんですか?」


 香坂はその声に顔を上げる。

 楢は蜜柑を置いた。手を膝の上に乗せる。


「どうせ生きるなら、赦して生きていきたいでしょ」


 香坂は答える。


「あわよくば、赦されて生きたいでしょう」


 それは、救済だ。

 香坂にとっての、楢にとっての、映画を観た人間にとつての。

 救済であれば良い。


「俺も赦してもらえますか?」


 楢は尋ねる。ふ、と香坂は笑った。


「"あなたが、明日を生き続ける限り"」








 早朝のファミレスに在原は入った。窓際のテーブルに姿を見つけ、ドリンクバーを頼み席についた。

 香坂は窓の外から在原へと目を向ける。


「おはよう」

「はよ」


 久し振りに会った姿は変わっていない、が香坂の目の下に隈ができていた。


「寝てねえの?」

「二徹して一回寝た」

「ちゃんと寝ろよ」

「読んで」


 香坂は原稿を渡した。在原は渡された脚本のタイトルを見て、瞬きをする。

 受け取って、一枚目を開く。


 ぱらり、と捲られる紙の音。


「あたし、死神なのかも」

「え?」

「周りの人、死んじゃうし」

「なんだそれ」


 在原は読みながら聞く。背もたれと柱の間に背中を埋め、香坂は窓の外の人の往来を見た。

 テーブルの上にはアイスコーヒー。もうすぐ夏が来る。


「でも、楢は救った」

「物理的に救ったけど」

「だから女神だろ」

「神様に失礼でしょそれは」


 在原が笑った。

 それから香坂はうとうとして、少し夢を見た。


 高校の頃、バスに乗って通っていた。バスに揺られ、昨夜母親と喧嘩したのを思い出して、それを書くことで昇華する。

 自分は自分の為に書く。

 ずっと、これからも変わらない。

 バスに揺られる。気付くと次に降りるバス停で、降車ボタンを押そうと手を伸ばした。


 目を覚ますと、目の前に脚本を読む在原がいた。鼻を啜っている。

 ……泣いている。

 香坂は初めて在原と会った時のことを思い出す。勝手に人のものを読んで、泣いていて、何故だと問われた。

 不幸になって欲しいと答えた自分が、救いたいと思っている。そんな変化が、可笑しい。八代が「頑張ったんだな」と言った。頑張ったかどうかは分からない、が。

 まだ、逃げずにここに立っている。

 ふ、と在原が笑う。香坂はその表情の変化をずっと見ていたいと思った。


 がた、と物音がして香坂は目を覚ます。一瞬今どこにいるのか分からなかった。ファミレスだ、朝のファミレス。

 夢と現実の境界線が曖昧になっている。すっかり温くなったアイスコーヒーを飲む。喉が潤い、頭が冴える。

 目の前から在原が居なくなっていた。原稿は封筒にしまわれている。

 夢か、現実か。香坂はぼんやりと空席を見つめていると、在原がテーブルに戻った。

 目元が少し紅い。顔を洗ってきたのだろうか、手が濡れている。


「どうでしたか」


 簡潔に尋ねた。


「めちゃくちゃ良かった」


 いつか聞いた答えだった。


「まあいくつか疑問改善点はあるけど」

「あたしも相談したいことある」

「和久井さんにはもう見せた、んだよな?」

「誤字脱字あり修正前のやつだけど」


 香坂は頷く。和久井に見せ、在原と同じような評価を貰った。


『あの、監督、なんですけど』

『うん、監督決まりました。もしかして一緒に仕事したい人いました?』

『いえ、決まってるなら大丈夫です』


 これからいくらでも機会はあると香坂は首を振る。和久井はにこりと笑って監督の名前を教えた。


 在原は頬杖をつきながら、和久井の手のひらで転がされているなと考える。しかもそれがあって香坂が書けるようになったのだから、神様は和久井なのでは?


「俺は五月ちゃんがこれを持ってくるまで知らなかった」

「……冗談?」

「本当。脚本まだないって言われてたけど……」

「昨日出来上がりました」

「出来たてほやほやかよ」

「脚本通りよろしくお願いします。監督」


 香坂が頭を下げる。在原は朗らかに笑う。


 七年前の春、同じように香坂が脚本を持ってきたのを思い出す。読んで、と無造作に渡された原稿。

 あの頃と現在、変わったものは多くある。

 変わらないものもある。

 もう一度見たいと思える映画を一緒に作りたい。


「じゃああたし帰って寝る」

「待った、五月ちゃん」

「なに?」

「八代監督になんて言い訳するか考えてくれ一緒に」

「言い訳?」

「まだ付き合ってるの言ってない。つか結婚する時って挨拶行くべきなのか?」

「べつに言わなくて良いんじゃない?」


 途端に面倒くさくなり、香坂は溜息を吐く。いやいやいや、と在原は主張。


「離婚したとはいえ一人娘が男と付き合ってんだぞ、誰だよってなるだろ」

「ならないよ。考えすぎ」

「眠くて考えんの面倒なだけだろ」

「うん」


 素直に頷く。


「どうしよう五月ちゃんみたいな娘ができたら、俺の心労は絶えない」

「女遊びしてた男に女の子って産まれやすいって。迷信だと思うけど」

「おま……ドニに謝れよ」

「あなたに言ってるんだよ」


 はー、と再度香坂は溜息を吐く。とりあえず、と眠い頭でまとめに入る。


「今度会いに行って話そうよ。二人で」

「え、五月ちゃんも行ってくれんの」

「在原って変なとこで繊細だよね」

「愛してる、わー持ち帰りたいけどこれから仕事」

「うん、行ってらっしゃい」


 救いの朝だ。

 在原は答える。


「行ってきます」









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