vol.58 赦されたい


 在原に手を引かれ、立ち上がる。薄化粧なのでそこまでメイクは崩れていないが、目が腫れている。帰ろうと在原が声をかける寸前、香坂は携帯が鳴っているのに気付いた。

 相手は与寺だ。


『あ、先生どこにいるんですか? もしかして帰ってませんよね?』

「会場の外に、居ます」


 ぱ、と在原を見ると、目が合った。屈む気配がして、ちゅ、と軽く唇が重なった。驚いて香坂が見上げると、にやりと得意げな顔をする。


「あ、先生居て良かった!」


 香坂の姿を見て与寺が駆け付け、その視線が肩越しへと向かう。そう、在原の方へ。


「在原監督……のそっくりさんですっけ」

「いやもうそれは通用しないでしょ」

「最初にあなたが混乱するようなこと言ったんでしょう」

「はい、すみません。在原真澄と申します」


 名刺を出し、与寺へと渡す。されるがまま受け取り、それを見た。同姓同名ではなく、あの監督本人である。


「お二人はお付き合い……」

「あ、そういえば棗のこと六所さんに伝えてこなきゃ」

「え、楢?」

「マネージャーさんが探してて、その後に会ったから」


 与寺の質問はかき消され、香坂は会場へと戻ろうとしたが、その必要は無かった。六所が出てきたからだ。

 焦ったようにスマホを持ち、電話をかけている。相手は出ないようで、じっと待っている。


「六所さん、さっき棗見ましたよ」

「え、いつですか?」

「火霜先生が喋ってる間、暗くなっているときに……」


 香坂は自分の手を見た。佐田と手を繋いだのは、最後に佐田に会った日だ。どうして今それを思い出すのだろう。

 楢の頬は温かかった。それは確かだ。


「帰ったんじゃねえの?」

「かもしれません。確認してみます」


 在原の言葉に六所が顔を上げた。嫌な予感が胸の奥をざわつかせる。

 香坂は一度会場内を見渡し、そこから出て階段の踊り場で楢に電話をかけた。きっと、自分のものなら出るだろう、という確信がどこかあった。


『もしもし』

「棗、今どこ?」

『何でですか?』

「六所さん心配してるよ。急に居なくなったって」


 努めて冷静に話す。香坂は静かに階段を下りていた。


『体調が急に悪くなったので、勝手に帰りました。伝えてもらえますか?』

「電話にも出ないから」

『仕事用の携帯、電源切れて』

「棗でしょう、あの写真撮ってリークしたの」


 いちかばちか。答えを知りたいわけではない。

 ただ時間を稼ぎたい。

 ホテルを出た。タクシーを目で探していると、腕を引かれて歩く。先に外に出ていたらしい、在原だった。

 既にタクシーには六所と与寺が乗っており、後部座席に香坂と在原が乗り込んだ。行先は先ほど六所が確認した。楢の家だ。


『なんのことですか?』

「在原と、蓮藤さんの写真。もっと言うと、前に棗と蓮藤さんが撮られたのも誰かに撮ってもらって自分でリークしたんじゃない?」


 切らないで欲しくて喋った。隣で在原が聞いているのが分かる。車内全員が静かだった。


『仮に俺がそれをして、何かメリットあります?』

「自分の写真の方は分かんない、けど。在原の方は」


 棗も香坂の言葉を聞いた。


「もしかして、あたしの為?」


 自意識過剰だ。言っていて思うが、否定もできない。

 実際、あの写真があがったのは、在原のことを尋ねられた香坂が煮え切らない返答をした後だった。在原と付き合っているのを知っているのは業界でも、数人いるかいないか。その内の一人が棗であり、今の在原に一番近い。

 あそこです、と六所が小声でマンションを指さす。香坂の視線がそれに向き、棗の声を待つ。


『そうです。俺、五月さんのこと好きなんで』


 まるで演技だった。その好きには感情がこもっているが、本心ではない。学生の頃に言われた言葉の方がまだ、温かみはあった。

 香坂はそれにこの前まで気付かなかった。


「棗、お願いだから」

『そろそろ寝ますね』

「死なないで」


 切に訴えた。


――じゃあ五月さん、俺と、死んでくれますか?

――え?

――そういうセリフが、今度のドラマにあるんですよ。


 ツーツーと無機質な音が聞こえる。


「……切れました」


 タクシー内の誰もが息を呑んだ。同時にタクシーがマンションの前に着く。降りて、六所が支払いをしようとしたのを、与寺が代わった。





 誰かの為って、誰の為だろうか。

 父親の亡骸を見てぐるぐると考えていた。

 自分の中の重いと考えていた部分が、言葉を含み、更に重たくなる。

 誰の為に、自分は生きるべきなのだろうか。

 隣で泣く母親の手を握る。ぽっかりと空いた穴を何でどこで、どうやって埋めるのか分からなくなった。

 思えばあの時、泣けば良かったのだ。そうしたら、何か、違ったかもしれない。


 香坂との通話を切り、楢は何故か学生の頃を思い出した。在原にランダムという団体に誘われたこと。カラオケ店で香坂を助けたこと。合宿に行ったこと。

 思い出が美化されるのは本当のことらしい。確かに、思い出そうとしてみると嫌なことは思い出せない。日常のふとした時に、フラッシュバックはするのに。

 自分の重たい部分と生きていくのが嫌になってしまった。

 仕事をしている時もそれが忍び寄る気配がする。期待すらも重たい。最初はそんなことは無かったのに。

 クローゼットルームの天井に取り付けられた金具に革のベルトを通す。遺書はいらないだろう。自分は、自分だけを連れて行きたい。

 玄関から、がたがたと音が聞こえた。






 合鍵を持っていた六所が扉を開け、三人は雪崩れるように入った。同時にがたん、と何かが倒れる音がする。三人しかいないが四方に散り、ありとあらゆる扉を開けていく。


「広すぎんだろ、部屋……」

「在原きて!!!」


 裏返った香坂の声に、すぐに反応する。がたんがたんと音のする方向。トイレだと思っていた扉の向こうにクローゼットが広がっていた。

 その中に天井から革ベルトで首を吊る……。


「そこの椅子使って、ベルト取って!!」


 冷静な香坂の指示に、在原は動いた。じたばたともがく楢の身体を、香坂は足を支えて持ち上げようとしている。椅子は首をくくる時に使ったのだろう。確かにこの高さでは香坂が立ってもベルトまで手が届かない。

 在原は言われた通り椅子に乗り、楢の身体を抱きあげながらベルトを外そうとするが、体重がかかっているのでそう簡単に外れるわけがなかった。そうこうしている内に、香坂が楢に蹴り飛ばされる。

 それを見てキレそうになる。しかし果敢に足に食らいつく香坂を見て、冷静さを取り戻す。物音に駆け付けた六所が「これ使ってください!」と在原に裁ち鋏を渡した。

 これで切れるのか? 疑問に思うより先に、ベルトを挟み、手に力を入れる。

 ざくり、と音をたてて切れ、楢の身体が床に落ちる。香坂もそれに巻き込まれた。

 すぐに香坂は起き上がり、楢の背中に触れた。ゲホゲホと咳き込む音が聞こえる。在原の鋏を持つ手は、震えていた。


「……死んだら」


 香坂は涙を浮かべながら、楢に言う。


「死んだら、赦さない。棗のこと、物語のネタにするから」


 佐田は死んでしまった。

 佐田を救いたくて、香坂は物語を書く。


「絶対、赦さないから」


 楢は咳き込む中、あのセリフを思い出していた。


――赦しましょう。

――あなたが明日を生き続ける限り。


 赦されたいと思った。

 誰かの為に生きるのではなく、自分の為に生きることを。


「今、救急車を……」


 六所の声が遠くで聞こえた気がした。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る