vol.56 塵も積もれば


 ドニは仕事終わりに珍しく居酒屋へと向かった。いつもは家に帰り、可愛い娘二人が寝る前におやすみを言うことに全身全霊をかけているのだが、今日だけは別だ。


「……何杯目ですか?」


 在原とは長い付き合いだが、成人してから今まで在原が酔っぱらう姿を見たことが無かった。サークルの時も誰か潰れれば介抱したり、送っていくのをよく見た。酒に強いのもあるが、潰れるほど飲むこともない。

 酒は楽しく呑むくらいが良いだろ、と言っていたのを思い出す。


「さあ? 俺何杯目だっけ?」

「えっとねえ」


 その隣の女性に尋ね、答えようとする。それが香坂ではないことと、香坂でない若い女性が在原と肩を触れ合う距離で飲んでいるのに驚きを隠せない。


「どちらの、誰さんですか?」

「さっきそこで知り合った」

「何やってるんですか真澄くん」

「は? 何やってるって」

「香坂さんに言いつけますよ」


 というより、香坂以外の人間に告げた方が言及されるだろうが。

 ドニは立ったままそれを見ていた。在原はへら、と笑ってドニを見上げる。


「言えば良いんじゃね? 流されるだけだろ」

「え、彼女持ちなの? なんだ、ばいばーい」


 急に興味を失った表情で若い女性は在原の隣から立ち上がり、ドニの横を抜けて店を出て行った。在原が長く溜息を吐き、グラスに残る日本酒を飲み干す。


「あーあ、折角の相手が」

「喧嘩でもしたんですか?」

「別れるってさ、俺とは」


 その言葉に目を丸くする。

 空いたグラスをテーブルの端にやる。お替りを注文して、在原は膝を抱いた。


「プロポーズもしたけど、全部スルー。そんで別れようって言われた。理由は自分が書けないからだって。書けない自分は、価値がないんだと」

「とりあえずお冷を」

「書けても価値がねえ人間もいるだろ」


 テーブルに突っ伏した在原に出されたお冷は、その振動を受ける。


「……で、別れたんですか?」

「俺が承知しましたって言うと思うか?」

「思いません。というより、香坂さんにどれだけ断られても凹んでこなかった真澄くんがここまでショックを受けていることに驚いてます。もしかして、一度も別れるって言われたことないんですか?」

「ねえよ。悪いか」


 仲良しか、と突っ込みたくなる気持ちを抑え、ドニは息を吐く。在原は少し顔を上げた。


「死にたい、辛い、五月ちゃんに会いたい」

「会いに行けば良いじゃないですか。こんなところで女漁ってる時間があるなら」


 痛いところを突かれ、在原は再度顔を伏せようとした。


「このまま別れたら、佐田さんは歓びそうですけどね」


 佐田の得意げな笑顔が頭に浮かぶ。ぴたりと在原の動きが止まった。

 ドニは佐田の幼馴染でもあり、在原の幼馴染でもある。どちらの性格もよく知っている。

 顔を上げた在原の目は据わっていた。












 与寺は完全に行き詰っていた。いや、詰まっているのは香坂の方だが、その詰まりを解消する術に詰まっていた。

 なので、その招待状が届いたのを見て、ナイスタイミングだと思った。


「先生も色んな方とお喋りすれば何か感覚が掴めるかもしれないですよ」

「お喋り……」

「大丈夫です、私ちゃんとついてるんで」


 有名画家、火霜の誕生日パーティー。各業界の有名人、知人、その他諸々多く呼ばれている。香坂は来てすぐに帰りたいと思った。後ろに与寺が居なくなったタイミングで抜け出そう。

 火霜には映画化の際に画廊を貸してもらった。その関係で『月の湖』のスタッフや役者も呼ばれているらしい。洛間の姿もあった。


「なんかすごく久しぶりな気がする」

「確かに、全然会わないものですね。最近は映画撮ってるんですか?」

「再来年公開のをちょっとずつね。そういえばさっきナツメ君に会ったよ」


 楢もいるのか、と香坂は頷く。火霜の交友関係の広さに恐れ慄いた。いや、楢だけじゃないかもしれない。


「あと在原くん」

「え」

「ほら、ランダムの監督だった」


 そんなことは言われなくとも、在原と聞いて頭に思い浮かぶ人物は一人だ。

 そういえば、と話題が変わる。


「和久井さんの話受けたんだって?」

「……受けたんですけど、本当、塵みたいなのしか書けなくて」

「いいね、塵。山になるのが楽しみだ」


 そう言いおいて、洛間は同年代の俳優たちに呼ばれて行ってしまった。とん、と肩を叩かれて振り向くと、懐かしい顔があった。ぐっと昔に記憶が戻される。


「百瀬さん」

「久しぶりー。変わりない?」

「変わりはないです」


 黒髪の艶は健在だ。元ランダムの演者。しかし今俳優をやっているという話は聞いたことがない。


「火霜先生、あたしの祖父なの」


 会場の前の方で挨拶の列を作る今日の主役を指した。驚いて目を見開いていると、百瀬は香坂の背中をぽんぽんと摩った。


「いやそんなに驚かなくても。ほら合宿で行ったコテージとかはおじいちゃんの伝手で安くしてもらったんだよ」

「その節はありがとうございます」

「こちらこそ。またゲームしようね。あ、六所さんだ」


 百瀬がひらひらと手を振る方向を見る。少し年上のスーツを着た男性がいた。


「楢のマネージャーさん」

「噂のロックさん」

「その名前で呼ばないでください」


 し、と唇の真ん中に指が立てられる。香坂は六所と会うのは初めてだが、何度か楢とゲームをする際一緒にグループを組んだことがある。


「ナツメ見ませんでしたか? お手洗いに行ったきり姿が見えなくて」

「さっき洛間さんが会ったって言ってましたよ。ね、与寺さ……」


 振り向いたが、そこに与寺の姿は無かった。きっと見知った出版社の社員を見つけ行ってしまったか、呼ばれたかしたのだろう。こういう場ではよくある出来事だ。


「洛間監督ですか。ちょっと聞いてきます」

「私もちょっと挨拶してくる」


 二人とも香坂と離れ、ぽつんと残される。与寺も居なくなったし、火霜には最初に挨拶をしたし、もう帰っても大丈夫だろう。そう思った瞬間、会場の明かりが落とされた。

 壇上にスポットライトが照らされ、司会らしき男性が立った。


「本日は、画家火霜の誕生日会に御越し頂き……」


 来賓への挨拶が始まる。次いで火霜の言葉がくるらしい。流石にこの間に抜けるのは印象が悪いだろうと考え、香坂は周りに合わせて拍手をした。

 すぐ隣に立つ気配に、顔を上げる。楢が香坂を見て笑っていた。


「五月さん、久しぶりです」

「びっくりした。久しぶり。さっき六所さんが……」


 ライトが楢の横顔を照らす。少しこけたように見える頬に、無意識に手を伸ばした。


「大丈夫?」

「大丈夫です」


 その手を取って、楢の頬に当てられた。温かい。皮膚の下に血が通っている証拠だ。


「今日来て良かったです」

「なんで?」

「五月さんに会えたから」


 香坂はその言葉に静かに笑った。途端、パンっと破裂音がして壇上の方を見た。火霜の周りにいた数人がクラッカーを引いた音だった。


「やめてくれ、俺の心臓が本当に止まったらどうする」


 笑いながら火霜が言った。共に会場の照明が点けられる。

 驚いたね、と隣を見ると、楢はもう居なくなっていた。左右を見回してみるが、それらしき人物もいない。……幻か? いや、確かに温かかった。

 とりあえず六所に伝えに行こうと、動き出したところで腕を掴まれた。何かと振り向けば、先ほどの火霜ではないが、心臓が止まるかと思った。


「……久しぶり、五月」


 八代篤紀の姿があった。





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