vol.55 君の価値


 在原は香坂の洋服を見た。


「ワンピース可愛い」

「在原が買ったやつ着てきた。こんなところに来る服持ってなかったから」

「デートで着れば良いのに」

「売れっ子監督なのに。デートする暇なんてないでしょう」

「そりゃ売れっ子監督ですけども」


 笑いながら香坂が言い、在原が軽口を返す。口数が多いのは少し酔っているからか。香坂はよく喋るときは大抵、酔っているか怒っている時だ。正論で相手の横面を殴り倒す。


「本当、在原ってすごいよね」


 香坂が視線を夜景へと向ける。


「監督になるって夢を自分で叶えたし、やりたいこともちゃんとある。ランダムで一緒に映画作ってたの、ずっと昔のことみたい」

「急に褒めないでくれ、心臓に悪いから」

「あたしじゃなくても色んな人に言われてるでしょう」

「いや、五月ちゃんに言われるのがさ」

「だって本当に尊敬してるから」


 笑んだ香坂が在原を真っすぐ見た。あ、まずい、と本能的にそれを察知する。


「あのさ」

「ちょっと待った」

「別に今日じゃなくても良いんだけど」

「結婚して」


 在原はジャケットのポケットに入れていた小箱を取り出して、テーブルに置いた。中身はピアスではない。

 しかし、香坂の視線はそれには向かなかった。


「別れよう」


 ぽつりとその言葉が浮いた。言葉が浮くことなんてあるのかと問われれば、説明はしにくいのだが。

 在原は言葉を理解するのに三十秒はかかった。え、と顔を上げれば、香坂が伝票にクレジットカードを挟んでいた。


「は? 今なんつった」

「とりあえずお店出よう」


 クローズが迫っている。もう店内には在原と香坂しかいない。

 在原は伝票を取り上げた。


「あたしが食べたんだから払う」

「いい」


 クレジットカードを抜き取られ、返される。いつもこうして在原は香坂に支払いをさせない。世間一般から見ても良い男だと思う。それは勿体ないくらいに。


 レストランを無言で出て、エレベーターに乗った。

 ……やはり大遅刻したのを怒っているのか?

 在原は前に立つ香坂の後ろ姿を見て考える。

 別れ話を切り出すほどに? そこまで? いや、もっとちゃんと謝った方が良かったのかもしれない。

 別れようと言われたことよりも、その前に褒められたところから落とされたのがまた痛い。それならもっと怒って黙っているとか、恨み言をつらつら述べられた方がまだ良かった。どうしてそんなにも分かりにくいことをしたのか。

 エレベーターをおり、ホテルを出た。入って三十分もしない内に。

 結婚したいのはずっと念頭にあった。今日である必要もないが、何かを切り出される気配に、そう口に出した。今、想像したよりも最低最悪な結果になっているが。

 断られる覚悟は出来ていた。同棲もあんなにきっぱり断られたのだ。それである程度の想定は出来ていたので、断られたところでそんなに痛みは無いだろうと考えていた。結婚はしなくても、一緒にいる方法はいくらでもある。このままずっと一緒にいれば、大学の頃香坂が脚本を書くと決めた時のように、何か変化が起きることもあるだろうと。

 ……それが何故。


「遅刻したのは本当にごめん、謝る。土下座でもなんでも」

「遅れたのは全然なんとも思ってない」

「じゃあなんで別れようになんの?」


 駅へ行く道を進む。香坂は在原の方は見ない。


「在原、忙しいでしょ」

「仕事は、そうだけど。時間作って会いに行く」

「違う違う。そういうことして欲しいって話じゃなくて。対してあたしは仕事も辞めて、書いてた小説も脚本も書けなくて、全然だめで」


 劣等感だ、と当てはまる言葉を見つける。じわじわと在原が映画監督として仕事をしている姿を見て、尊敬と共に抱いていたその感情。


「あなたも分かってるでしょう。一緒にいた二週間、あたし一文字も書けてない」


 毎日、祈る。祈る毎日を神様は見てはくれていないのだろう。もう祈ることもしなくなった。無理やり書き連ね、捨てて、ゴミが増えていく。文章を捨てることなんて、したくないのに。

 じわりと滲む視界に、在原は映らない。


「そんなん、いつか……」


 在原も香坂の雑誌の休載が始まった頃から分かっていた。しかし香坂がそれを口にすることは無かったので、口を出すまでもないと思っていたのだ。小説は香坂の領分だから。

 いつか書ける、と思うのは在原が他人だからだろうか。


「一生書けないかもしれない」

「考えすぎだって」

「書けないままじゃ、在原の隣には居られない」


 言葉は重く、のしかかる。

 書けない自分に価値がない。一人で始めた物語を書くことは、そうして価値へと変わった。在原がそれを見出した。その価値を大事にしていた。

 在原はそれに、何も返すことが出来なかった。











 愛はどこから来てどこへ行くのか。

 香坂の作品に王道なラブストーリーはない。本筋の関係ない場所で恋愛をすることはあるが、恋愛を主とした物語を作るのは苦手だった。まだホラーを書いた方がマシだと本人も思っている。


「あ、ごめん間違えた」


 サイレンサーなしの銃で遠方の敵を撃ってしまった。しかも外した。これでは場所がバレただけだ。


『いや、あ、やべ』

「あー」


 すぐ近くに敵がいたらしく、香坂と楢は反撃する余裕もなく撃たれてゲームオーバー。香坂は背もたれに背中をつけた。


『なんか今日散々ですね俺ら』

「集中力がないのかも」

『五月さん、何かありました?』


 それを聞いて、香坂は回転椅子をくるりとまわした。天井が一回転する。


「棗は、お父さん亡くなったって聞いたけど、もう落ち着いた?」


 訊こうか迷っていたことを口にする。いつか訊いてしまうのなら、今聞いた方が早い。楢は電話の向こうで少し沈黙し、口を開いた。


『一応葬儀も全部終わりました』

「いや、棗の気持ちの方は」

『……あんまり実感はないです、急に倒れて亡くなったんで」


 空気が重くならないように、努めて普通の声を出した。香坂は膝を抱く。


「そっか。在原から聞いて、気になってたから訊いちゃった」

『ああ、真澄さんが。そういえばこの前の打ち上げで五月さんに会いたいってぼやいてました』

「打ち上げ? ドラマの?」

『そうです』


 キコ、と回転椅子が鳴った。一人暮らしを始めてからずっと使っている椅子なので、最近軋みが激しい。

 ということは、在原と蓮藤ほのかの熱愛報道の写真を撮られたあの打ち上げに楢も参加していたのだ。香坂の中に、ひとつの仮説が生まれる、が口にはしなかった。


『その後どうですか? 真澄さんと』

「別れたよ」


 再び、沈黙。驚いた声をあげないのも楢らしい。香坂も努めて暗くならないように続ける。


「また婚期が遠ざかったって言われるよ」

『じゃあ、五月さん俺と――』


 楢は言った。







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