vol.54 ラブストーリー
桜は疾うに散り、夜風だけが冷たい。先週在原から連絡が入り、平日夜に行ったことのないホテルディナーに誘われた。香坂は地図を見つめる。
この前の下僕期間に在原が服を買うついでと言って、香坂に何着かワンピースを買った。要らないと強く言ったが押し切られ、値札のついたままの服がクローゼットにかけられている。その内の一枚を着た。
髪の毛とメイクとバッグはいつもと同じ。
本屋で時間を潰し、早めに駅へ向かう。時間よりも先に居るのが常だが、今日は違った。どこにも姿がない。
在原がいつもしているように、柱に背中を預ける。途端にスマホが震えた。
『ごめん、打ち合わせ長引きそうだ』
「今日辞めとく?」
『……いや、絶対行く、ので先にホテル行ってて』
「うん」
香坂は電話を切り、ホテルの場所を確認した。レストランの階も確認しておこうと店名を検索する。店の口コミや評価が最初に出てくる。『予約必須』のタイトルに目を奪われて、クリックした。
厳選野菜や熟成肉を使用した本格イタリアン。美しい夜景を見ながらゆっくりと食事をお楽しみください。要予約・現在三か月待ち。
その文章に香坂は口を半開きにした。ということは、在原は三か月も前に予約を取ったということだろうか。三か月前と言ったら、在原の誕生日よりも前だ。
在原が香坂を何かに誘う時、大抵仕事終わりか休日だ。仕事終わりにどこかへ行こうと二人きりの時に約束することがないのは、お互い明確に終わる時間を把握できなかったから。香坂が商社に勤めていた時はまだマシだったが、締め切りに追われている頃に余裕なんて無い。
きっと予約していたから、仕事が入っても行こうと誘ったのだろう。そこまで行きたかった店なら、香坂が代わりに行って席を確保する必要がある。なんとなく嫌な予感はするが、場所を調べてホテルへ向かった。
終わるはずだった打ち合わせが延びている。どうでも良いことで上の人間たちが揉め、立ち上げたプロデューサーの和久井は他人事のようにそれを見ていた。
在原は静かに抜け出す算段を考える。揉めている内容は本当にどうでも良いことなので、在原は居なくても構わないだろう。それよりも和久井に確認したいことがあった。
「和久井さん、今回の脚本ってどうなってるんですか?」
自分に声がかかっていないということは、誰か他の人間が書くということだろう。そもそも在原に脚本を書く才能は備わっていない。最初の映画がヒットしたのも脚本というより演出が注目されたからだ。在原のつまらない脚本を和久井が注文するわけもない。
「それがさー脚本まだないっていうか」
「え、決まってないんですか?」
「そういうわけじゃないんだけどね」
他人事のような言葉をどこまで本気にすべきなのか。在原は尋ねようか迷い、和久井がはっと何か思い出したように在原を見た。
「そういえば在原くんってナツメくんとサークル一緒だったよね」
「はい」
「演者で入ってもらおうと思ってるんだけど」
「……アイツ忙しくないですか?」
「と思って前から声はかけたよ」
「もしかして俺に声かかったのって最後ですか?」
「あ、気付いた?」
まあだよな、とは思う。明らかにこの面子で一番若いのも活動歴が短いのも在原だ。
楢と一緒に仕事をする日が来るとは思わなかった……わけではない。在原は元テレビ局勤務で、楢とは何度か顔を合わせた。しかし、こうして監督として仕事をするとは。
ランダムを思い出す。佐田とドニと創めた団体だが、色んな人間に声をかけてついてきて貰った。それがつい最近のことのようだ。
最終的に香坂のことを考え、在原は会議室にかけてある時計を見上げた。
一人でレストランに来ても、することがなかった。勿論小説は鞄の中に忍ばせてはいたが、ここで読んで良いのかどうか分からない。高級店のマナーとは無縁に生きてきたのが仇となった。席は店内の端の方で確かに人目にはつきにくいが、度々店員が様子を窺っているのが分かる。香坂は姿勢を正してぼんやりと店内の内装を見ていた。
こんなことならホテルのラウンジで待っていれば良かった。周りは殆どカップルや夫婦に見える男女ばかりで、それなりの気品を感じる。身分違いな自分に気後れする。コンビニまで二キロ弱も離れている家に住むあの頃の自分が見たら、どう思うだろうか。
なりたかった自分ではない、と笑うだろうか。
東京に出て、好きな小説を書いて暮らす。それだけが望みだった。でも今はそれが苦しい。いや、楽しい時期もあった。在原が映画に誘ってくれた時期は、本当に、楽しかった。
香坂はテーブルクロスへと視線を移す。
去年、実家のすぐ近くにコンビニが出来た。香坂の書いた小説は映画化され、あんなに物語を嫌っていた雨音が二度観たと連絡が来た。単行本も買ってくれたという。言ったらあげたのに。
諸行無常。全ては移ろい、変化する。ふと在原がマカロンを食べに連れて行ってくれたことを思い出す。映画を観た後、二階の席で、駅へ向かう人の流れを見ることができて、香坂はそういうのが好きだと知っていた。
……人、見えないな。
見えるのは夜の灯りばかりだ。赤、黄色、オレンジ、山吹、青、緑、白。
――片輪で、どこへ進めば良いですか?
そう尋ねたのが、今更馬鹿馬鹿しい。
進むべき場所に旗が立っていなければ、どこにも行くことは出来ない。片輪がどんなに動いても。物語が教えてくれると和久井は言ったが、香坂はそれが俄かには信じられなかった。物語は香坂の中で止まっているから。
在原は来ない。打ち合わせが長引いているのだろう。休みが終わると前と同じ頻度で連絡がくるようになった。会うのも、休みの終わり以来だ。
変わってしまった。在原はもうずっと先にいて、あの頃のように書けない香坂を隣で待っていることは無い。本当に香坂には頼らず、八代には自分で会いに行った。今こうして待ちぼうけているのは香坂の方だ。腹の底がざわつく。先が見えない。何も見えない。ずっと、真っ暗だ。
ラストオーダーの時間が近づき、こちらを窺う店員に声をかけた。
こんなことならキャンセルすれば良かったと在原は大きく後悔した。別に今日でなくても良かったが、予約が取れたのが今日だったのだ。キャンセル料100%だとしても、背に腹は代えられない。食事に誘って、結局行けなかったなんて、母親に言ったら殴られそうだ。
それでも向かうより外無く、在原はレストランに入った。客は殆どいない。店員の一人とすぐに目が合い、向いた視線の先を辿る。それから声を潜めた。
「遅いよ」
「わかってる、ごめん」
学生時代の友人だ。ここのホールで働いており、予約を取ったことを伝えると窓際の席にしてもらえた。コネは使うものである。
香坂は既に食事を終えていた。食後酒を飲んで、夜景を見下ろしている。
ふと横に人の気配を感じ、在原が店員の引いた椅子に座った。慣れた様子に、香坂は少し笑う。自分が座った時は酷くぎくしゃくしたのに、と。
「打ち合わせ終わった?」
「終わった。本当にすいません」
「何か飲……あ、ラストオーダー終わってた」
「うん。美味かった?」
「美味しかったよ。なんだっけ、セミフレッド?」
デザートかよと思ったが、在原はうんうんとそれに頷く。香坂が食事を楽しめたならそれで良い。思えば今まで香坂を待たせたことは何度かあったが、一度も不機嫌になったり怒って帰ることは無かった。基本的に一人でいることが好きだからだ。
寂しさを抱えた在原に、香坂のそれは理解し難い部分はあったが、今日初めてそれに感謝した。
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