vol.53 祈り
アリサに香坂を連れて行かれ、在原は行こうか考えながらリビングの扉を見ていた。それに気付いた千代が苦笑してコーヒーを出す。
「気になるなら行ったら?」
「いや、下僕は静かに待てる」
「なにそれーなんかのプレイ中なの?」
「アリサの前で変なこと言ってませんよね?」
ドニが目を細める。在原は掌を見せた。
「言ってねえよ。俺の休み期間は五月ちゃんの下僕キャンペーンなんだよ」
「もしかして熱愛報道出たから? あれ見て笑っちゃったよねえ」
「自業自得だと思います」
にこにこと話す夫婦に、在原は額を抱える。笑ってないで助けてくれ。
眠るエリカの方を千代が窺い、ドニが口を開く。
「アリサ、我儘言いませんでした?」
「五月ちゃんにべったりだった。んで親子に間違えられた」
「なにそれ面白い。五月ちゃん冷静に否定しそう」
「してたよ」
その言葉に千代が笑った。溜息を吐き、在原は背中を後ろへ倒した。
「あのさー」
「はい」
「どうやったら結婚できんの?」
呆れた顔をするドニ。言いたいことは分かる。千代は何も言わずにそれを見ていた。
「婚姻届を出せば結婚したことになりますよ」
「それ俺が書いても有効?」
「法学部だった人の意見とは思えないです」
「冗談だって。いや冗談抜きにしてさ、五月ちゃん以外と付き合うのは想像出来ねえんだけど」
「僕も出来ないです」
「でも五月ちゃんは違うだろ」
ドニは否定できなかった。前に香坂から、結婚する気はないという言葉を聞いたことがあったからだ。
それが在原に限った話なのかそうでないのかは分からない。ただ、ドニもなんとなく香坂は他人に執着しないところがあるとは思っていた。
「とりあえず一緒に棲んでから考えたらどうですか?」
「いやもうそこはスキップしてく」
「何故……?」
「きっぱり断られた」
ドニは今まで在原に対して尊敬の念を抱いたことか何度かある。その中でも今、最大級に尊敬した。
「真澄くんは鋼の心臓を持ってますよね」
「それほどでも」
「尊敬はしてますが、褒めてはないです」
朝起きた時に、祈る。
カーテンの隙間から入る太陽の光に、真っ白いシーツに、膝を抱き指を絡めて、祈る。
今日は書けますように、と。
そんな日々が続く。
こんな日々が続かないことを、祈る。
在原の下僕期間が終わると共に、まとまった休みも終わった。結果最終日まで香坂の家に入り浸った。
「あー仕事行きたくない。五月ちゃんの小説を一生読んでいたい」
そう言いながら在原は香坂の本棚の端に追いやられている小説を開いていた。今まで何度も読んだ文章だが、何度だって読み返す。
「在原も仕事行きたくないって思うことあるんだ」
「そりゃあるさ」
「映画作るの嫌ってこと?」
「作るのは楽しいけど、五月ちゃんとずっと一緒に居られるならそれ以上は無いって話」
在原が持っていたのは『月の湖』だった。映画化され、香坂が脚本を手掛けた作品だ。
翌日、在原は寝坊した。
「夢で、海の中に向かって歩いてく場面でさ」
「うん」
「月の湖にその場面あったろ」
「うん、あるね」
「その主人公がお前でさ」
ワイシャツのボタンをしめながら在原は屈んだ。香坂はその襟を立たせ、ネクタイをかける。喋る余裕があるのか、それとも無意識に喋っているのか。
するするとネクタイを結んだ在原に、香坂が手を差し出す。
「ん?」
「ギャラ代。夢に出演させたんでしょ」
「友情出演で……お願いします……」
その言葉に香坂が笑う。在原は再度屈んで、その唇に口づけを落とした。
ぎゅ、とその身体を抱きしめる。
「あー本当に行きたくない」
「早く行け」
両手の指先だけを合わせ、脈を感じる。緊張を解くときの方法だ。香坂は緊張していた。
やがて会議室の扉が開かれ、和久井が入ってきた。今日は出版社の会議室ではなく、テレビ局の一室で打ち合わせすることになっていた。香坂は映画の脚本の話を受けたのだ。
「お待たせしてすみません」
「いえ、全然」
「どうぞ、座ってください」
失礼します、と香坂は椅子に腰かけた。和久井も正面の椅子に座る。スマホをテーブルに置き、いくつかの資料を出した。
「あれから書けてますか?」
「……少しずつ、ですが」
書いては消し、の繰り返しの中で、残ったものたち。殆ど残骸と言っても良いくらいだが、香坂はこれ以外に持っていないので和久井にそれを渡すより外ない。
恐る恐る差し出されたそれを受け取って、和久井は目を通し始めた。
読み終えるのに三分とかからなかった。つまりクッキングもカップラーメンも作り終えることが出来ない。
「進んでませんね」
「……はい」
全くその通りだ。
「すみません」
「まだ時間はありますし、最悪撮影前までに出来上がれば良いですよ」
「でも、演技とかに影響しませんか?」
「それが分かるなら早めにお願いします」
墓穴を掘っていることは分かっている。香坂は「はい」と頷くしかない。
というより、もう全てを投げ出し、和久井にこの脚本を預けて逃げてしまいたい。和久井も脚本を書けるのだから、書けない香坂に任せて時間を無駄にするよりずっと良い。
そう言ってしまいたいのを、喉のあたりでぐっと堪える。香坂はこの話を降りることはできない。それが社会人で、大人で、書くことに運命を捧げた人間の宿命だからだ。それを捨てたら、香坂の根本的な何かが壊れる。
「でも香坂さんに頼んでやっぱり正解でした」
「どうしてですか?」
「導入だけ読んでも、絶対面白くなる感じがするからです」
和久井はにやりと笑った。人を乗せるのがうまい人間だ。香坂は和久井のそういうところに救われる。
お世辞やおべっかではなく、そういうことを言ってくる。
「そういえば監督は決まってるんですか?」
「いや、まだ声はかけてないです。香坂さんは一緒に仕事をしたい監督いますか?」
「え……いや」
首を振った。いないわけではない、が、口に出して良いとも思わない。
というか、脚本が監督を決めるなんて出来るのだろうか。
「じゃあ誰かいたら教えてください」
その言葉に頷き、これからの場面展開について話し合って打ち合わせは終了。食堂のカレーが美味しいので食べて行った方が良いと和久井から推されたので、言われた通り香坂は六階へ向かった。
エレベーターの中に楢の主演したポスターが貼ってあり、それと目が合う。
そうだ、楢は落ち着いた頃だろうか。携帯を出して『今度ゲームやろう』と誘うと、すぐに着信がかかる。エレベーターが開き、おりてから出た。
『もしもし』
「もしもし、どうしたの?」
『急に、すみません』
「いや、全然。今ねテレビ局にいて、棗のドラマのポスター見て、元気かなって」
父親が亡くなったのは口には出さなかった。香坂は階の突き当りの喫煙ルームを目にして立ち止まる。食堂は反対側らしい。
『至って健康です。またゲームしましょう』
「今日も撮影?」
『今日明日はオフなんで』
来た道を戻ろうとするが、喫煙ルームの中に見知った姿を捉えた。在原だ。煙草は吸わないのに居るということは、誰かの付き合いでいるのかもしれない。
香坂は好奇心でそれに近づいた。外から見る分にはバレないだろう。
缶コーヒーを持ち、何かを話し頷いている。ざわりと心の奥が本能的に揺らいだ。
在原と話していたのは、これまた香坂が見知った人物だった。
八代篤紀。
今では世界でも名の知れた映画監督。国内のアカデミー賞では選考委員を務めている。既に来年の映画公開が決まっているらしい。
そして、香坂のたった一人の父親だ。家を出て行ってから、二十年以上会ったことも話したこともない。テレビの中でインタビューの答える八代の声を聞くことはあっても。
香坂は廊下の端で立ち止まっていた。その光景をぼんやりと眺めながら。
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