vol.52 サメの歯


 魚は水の中でしか生きることができないが、人間は陸の上でしか生きることができない。地球における海の割合は半分以上。魚が地球を支配しても可笑しくはないのに。


「さつきちゃんは、なんのお魚が好き?」


 手を繋いだ先にいるアリサが水槽を見上げる香坂に尋ねた。

 休日出勤となったドニ夫妻に助けを求められた。熱を出したエリカは千代の両親に預けられている。元々今日は家族で水族館に行く予定だったらしく、ドニはアリサにチケットと小金を握らせ、香坂と来ていた。

 来年小学生になるという。香坂は外見だけでなく、そこまで我儘を言わなくなったアリサに成長を感じていた。


「鮫かな」

「サメー? 食べられちゃうよ」

「食べない鮫もいるんだよ」

「ますみくんは?」


 くるりと振り向く。二人の後ろに立っていたのは在原だった。

 まだ下僕キャンペーン中だ。当然、在原も運転手兼荷物持ち兼子守から何まで、働いていた。最初の内は鬱陶しがっていた香坂だが、最近はその感覚が壊れ始め……というよりどうでも良くなり始めて、好きなようにさせている。


「俺は鯖」

「なんで?」

「美味いから」

「食べちゃうの?」


 さっき食べないと言ったじゃないか、と香坂を見る。


「在原は何でも食べるからね」

「ひどい……お魚さんかわいそう……」

「いや絶対食べてるだろ、保育園で」

「あ! あっちにスタンプある!」


 アリサが顔を反対へ向けて、歩き出す。手を引かれて香坂も向かう。在原は溜息を吐いてその後ろを歩いた。

 水族館内のスタンプを集めると、窓口にて景品が貰えるらしい。館内は家族連れやカップル、友人同士や一人、兎に角人が多い。

 キャップを深く被りながら、マスクを取らない楢を思った。視線を向けられることに嫌悪は無いが、あの報道以降一緒にいるのは香坂なので、それで迷惑をかけたり嫌な思いをさせるのは論外だ。いや、いっそのこと香坂と一緒に居るところを撮ってくれても良いのにと思ったことは、一度や二度ではない。箝口令が敷かれているのかと思うほど、在原と香坂が付き合っていることを知っているのは、周りで両手の指で足りる程しかいない。

 それを考えると、確かにあの写真は関係者からリークされても可笑しいものではない。実際、在原は他人から好かれることも多いが、嫌う人間もいるのだ。映画を作ったのは努力と人脈だが、ヒットしたのは正直運だったと言わざるを得ない。才能だと香坂は評したが、在原は心のどこかでそれを否定する自分がいた。


「在原」


 香坂の声に我に返る。顔を上げると、その耳には雫のピアスがついていた。

 ムーンストーン、六月の誕生石。


「ちょっと休憩しよ」

「ねーなんでさつきちゃんってますみくんって呼ばないの?」


 スタンプをしてご満悦だったアリサが尋ねる。その質問に香坂は止まった。

 在原は揶揄の心が擽られ、アリサの側につく。


「本当になー」

「パパもママもますみくんって呼ぶよ?」

「呼んでみ、真澄って」

「真澄、飲み物買ってきて」


 目が据わり、香坂は半分苛つきながら自販機を指差した。その様子に在原は胸を押さえた。


「……やべえときめいた。もう一回言って」

「嫌だ。気持ち悪い」

「え、傷つく」


 呆れた顔をして香坂は自販機の方へ歩いて行った。アリサとともに屋外のベンチに座っていると、館内スタッフに声をかけられる。


「こんにちは、ここイルカスポットなんですよ。良かったら写真撮りませんか?」


 スタッフがベンチの後ろを五本の指で示す。視線を向けると、後ろにイルカの形に生い茂った植物があった。なるほど、と在原は納得してアリサを見る。


「写真撮るか」

「お父さんも一緒にどうですか?」

「お……」


 お父さんという響きに戸惑いが隠せない。「撮る!」とアリサが喜んでいるのは良いことだが。

 すぐ横に影が落ち、在原は顔を上げる。香坂がスタッフを見ていた。


「ナンパしてるの?」

「違う違う、イルカをバックに写真撮ってくれるって話してた」

「イルカ……?」


 どこにそんなものがいる、と香坂はベンチの向こうを見る。確かにそこにはイルカの形があった。頷き、携帯を取り出した。


「良かったらお母さんも……」

「あ、いえ、友人の子なんで、一人で一枚撮りたいんです」

「そうなんですね」


 在原が言えなかった文章をさらりと言葉にする。スタッフもすぐに理解し、在原はベンチからそのまま立ち上がった。一枚アリサだけの写真を撮った後、三人で並んだ写真を撮ってもらった。

 お礼を言い、ベンチで休憩に入った。香坂の買ってきたオレンジジュースを飲みながら、アリサは周りをきょろきょろと見回している。在原も受け取ったコーヒーを飲みながら、この前の守谷との会話を思い出していた。


「最近、楢と連絡取ってんの?」

「最近はゲームしてない。なんで?」

「父親が亡くなったって、人伝に聞いた」


 香坂はきゅ、とペットボトルのキャップを閉めた。どこからか、桜の花びらが舞ってきた。ひらひらと足元に数枚落ちていく。この前まで寒いだけだったのに、すぐに春はやってくる。

 そっか、と返事をする。それ以外の言葉が思いつかない。


「式とか、出られるのかな。忙しいと思うけど」

「流石に何に穴空けても行くだろ」

「いつかさ、皆死ぬんだって自覚した時、怖くなかった?」


 キャップの凹凸を指の腹でなぞる。在原はその問に、子どもの頃へと思い馳せた。祖父母が亡くなったとき、父親が亡くなったとき、近所の番犬が死んだとき。

 生死は意外と子どもの周りの方が溢れていて、大人になると途端に遠ざかる。


「確かに、家族が俺より先に死ぬかもしれないって考えるの辛かった」

「あたしもそれ想像して泣いてたら、母親に驚かれた」

「驚くだろうな」


 それも想像できる。アリサはジュースを飲むのに飽きて、ベンチを降りた。


「ペンギン見に行こう、さつきちゃん」

「うん」


 手を引かれ立ち上がる。






 駐車場に車をとめると、玄関からドニが出てきた。

 車を降りたアリサがその腕に飛び込む。次いで香坂と在原も降りる。


「今日は本当にありがとうございました」

「いや全然。すげー楽しかった」

「夕飯食べて行ってください。ピザなんですけど」

「ピザ!」


 わーい、と手を上げたアリサが家の中に入っていく。そんなに喜ばれたらピザ職人も作り甲斐がある。

 言葉に甘えて二人は家に上がらせてもらった。千代が眠るエリカを抱いて申し訳なさそうに「今日はありがとうございました」と頭を下げる。


「エリカちゃん、熱下がりました?」

「うん。昼くらいには下がってね、もう落ち着いたよ」

「良かったです」


 五人で食卓テーブルを囲み、ピザを食べる。話題は専らアリサが今日見た生き物に関してだった。


「さつきちゃんはね、サメが好きなんだってー! で、ますみくんはなんだっけ?」

「忘れんなよ。鯖だって」

「さばだって!」


 クスクスと千代が笑う。夕飯を終えるとアリサは香坂を連れて自分の部屋に行き、一緒に図鑑を覗いた。最近のアリサのマイブームは動物の図鑑を眺めることらしい。

 今日見た魚や動物を振り返ることが出来る。良い体験だな、と香坂は考える。


「さつきちゃんの好きなサメだよ」

「本当だ」

「サメの歯は、いっしょうはえかわります、だって。さつきちゃんのピアスもサメの歯みたい」


 アリサがそれを見上げる。香坂は耳朶に触れる。これはサメの歯の形ではなく、雫型なのだが。


「これは在原もらったんだよ」

「きれい」


 ね、と穏やかに香坂は笑った。

 とんとん、と開かれた引き戸がノックされる。二人の視線がそちらに向き、在原を捉える。


「五月ちゃん帰ろ」

「え、お泊りしないの?」

「いつそんな話になった。アリサも自分で起きる練習してるんだろ。早く寝ないと」

「アリサ、真澄くんと五月ちゃんにお礼言って」


 横から顔を出した千代を見て、アリサは唇を尖らせて香坂の首に抱きついた。ああ、そういうところは変わっていないんだなと香坂は苦笑した。


「四月から小学生だもんね」


 ついこの前産まれたばかりだというのに。

 きっと学校に入って、同年代の友人ができたら香坂のことなんて段々と忘れて、毎日その友人たちと遊ぶようになるのだろう。それが寂しく、嬉しい。


「さつきちゃん、また遊びに来てくれる?」

「うん、勿論」

「今日はありがとう」


 アリサはサメの歯のピアスをつけた耳に囁いた。いっしょうはえかわる。きっと、ずっと、大丈夫だ。



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