vol.43 名前もない


 定時に仕事は終える。残業をしない主義の上司が多く、さっさと帰っていくので香坂もそれに倣っている。瀬高も同じく。

 久々に明日は高校の同級生、守谷に会う予定だったので今日は早く眠る予定だ。

 その前に、在原の家に行こうと思っていた。連絡するとドニには言ったが、あれから何もしていない。何と送れば良いのか考え、構想途中のメモ書きみたいに、そのまま放置されている。

 色々考えるのが面倒になってしまったので、直接会って話してしまえば何とかなるかもしれないと考えた。このまま友人を辞めるという最後の手も考えにはあったが、香坂にも義理人情は存在する。映画を作るのに誘ってくれた仲間であるし、小説を誰かに見せる勇気をくれた恩人……恩人だ。


 最寄駅で下り、家へ歩いていく。そこまで遠くもなく、場所は一度で覚えた。というより、在原が行くまでに色々と道の説明をするので覚えてしまった。

 部屋番号とチャイムを押す。返事がない。香坂はじっと待ったが、やはり居ない、か眠っているか。土日休みではない仕事なので、よく変な時間に寝ていたり、返信がくることがある。

 くるりと踵を返し、来た道を戻る。

 駅に向かい、大通りに出る。歩道の反対側を肩を組んで歩いていく男女の姿があった。その方向を香坂が見たのは、女性の声が酔っているのだろう、大きかったからだ。


「在原はさあ! あれだよね、紳士!」


 誰かに聞かせているのか分からない。駅から帰る人や駅に向かう人の中で、香坂の足だけが止まる。


「ちょっと、ちゃんと歩け」

「なになにー? 私のことダイスキか!」

「はいはいダイスキです」


 あれ、新しい彼女か。

 香坂は一人納得し、二人が在原の家の方へ歩いていくのを見る。一緒に家にでも行くのだろう。眠っていたのでは無かったらしい。

 ぱこ、と何か底のようなものが抜けた。ドバドバと感情が流れ、落ちる。心に広がる嫌な感じを吐き出そうと溜息をつく。

 感情が処理出来ず、電車に乗る頃には怒りたいような泣きたいような気持ちになっていた。




 早く帰りたい、と思った飲み会は久々だった。嫌だからとかつまらないから、という理由ではなく、こんなことよりも香坂の家に向かいたい。在原は煩悩と闘っていた。

 本当は連絡がつかなくなった後すぐにでも行きたかったが、いきなり出張が言い渡された。インフルエンザになった先輩の代わりにドラマのロケ地に出向くことになり、帰ったらすぐに行くと決めていた、のだが。


「あー根岩よろしく」

「え、いや」

「在原と同じ方向だろ。家送ってやれ」


 よろしく、と再度言われた。上司から言われたのでは断れない。在原はべろべろに酔い潰れた同期中途採用の根岩を見る。

 ロケ地選定終わりに開催された飲み会。世話になっている上司や親しい先輩もいて、飲み会自体は楽しかった。


 あー五月ちゃんに会いたい。


「ええ、さつきい? だれよ」

「あ、声に出てた」

「あんたねえ、いっつもさつきさつきって! 私、電話してんの知ってんだから!」


 最寄駅をおりて立って歩くのがやっとな根岩に肩を貸す。在原の方が身長が高いので、だいぶ屈むことになった。耳元で大声で話す根岩。

 飲みすぎないように今度からちゃんと見ることに在原は決めた。家が同じ方向だからと言って毎回こうして送らされるのは御免だ。


「さつきって彼女ー?」

「そうそう」

「在原はさあ! あれだよね、紳士!」


 大学のときの年上のセフレに同じことを言われたのを思い出す。その後、他にセフレがいると知って「クズだね」に評価が変わった。

 女関係が酷かった在原を知っている香坂は、間違っても「紳士だ」とは言わないだろう。

 "会いたい"という気持ちが"押し倒したい"に変わっていく。いや元々同義だった。口付けた感触を思い出す。あの後、無理にでも起こしてもっと身体を貪れば良かった。

 しかし、そんなことをして嫌われるのは嫌だ。無理にするつもりは毛頭無いが、嫌だと泣かれたら在原は心臓から血が噴き出す自信があった。つまり、死ぬ。

 触らないで、と学生の頃に言われたことがあった。在原のセフレが香坂の存在を厭い、男を使って香坂を襲わせたことがある。事は未遂で終わったが、その恐怖たるや。映画を作るほどの想像力を持つ在原にさえ、想像しきれない。

 それから思えば、かなりの進歩だろう。口付けを嫌がられなかっただけでも心の中で小躍りしていた自分がいる。

 ぐらりと根岩の身体が傾く。


「ちょっと、ちゃんと歩け」

「なになにー? 私のことダイスキか」

「はいはいダイスキです」


 酔っ払いの世迷言だ。てきとーに返事をしておけば、話題は上司のことへと変わる。根岩はその上司に片想い中らしい。


「ねーどう思う!」

「とりあえず良い潰れるのやめて、可愛く送ってもらえるとこから出直せ」










 その日は唐突に訪れた。

 休日深夜、香坂はファミレスでノートPCと睨めっこをしていた。他に客は数名。

 コーヒーに飲み飽き、スティックシュガーを注ぐ。物語の続きが思うようにいかない。二本目、三本目、四本目で前に人が座った。顔を上げると、在原がいた。


「砂糖入れ過ぎ」


 眠すぎて、夢を見ているのかと一瞬自分を疑う。

 白いTシャツを着ており、ラフな私服だ。仕事のときも私服が多いので、香坂には今日仕事だったのかどうか判断ができない。


「五月ちゃんさ、何も言わず帰んなよ」


 どこから、というのはすぐにわかった。

 香坂はそれに関して反論の余地は無かったので、視線を落とす。


「……すみません」


 声も小さくなったので、在原には怯えているように見えた。


「いやほら、心配するから。あと携帯壊れたままでいないでください。もう同じ大学じゃねえし、気軽に見つけられねーから」


 でも、見つけたじゃないか。

 ピンポン、と呼び鈴を押すと店員がすぐにやって来る。在原はサラダを注文した。


「ご飯食べてないの?」

「食べてない。さっき帰ってきた」

「おかえり」

「……ただいま」


 ころりと在原が嬉しそうな顔をする。香坂はそれが分かって、息を吐きながら頬杖をつく。

 外は当たり前に暗いが、あと数時間もしないうちに太陽が昇ってくる。もうすぐ夏至だ。日が長くなる。

 注文したサラダはすぐに届いた。在原はフォークを取り、食べていく。


「そうだ。次の土日空いてる?」

「空いてない」

「ドニのとこに行くのは日曜だろ、土曜は?」

「休みだけど」

「どっか行こうぜ、そんで俺ん家泊まって、一緒にドニの家行けば良、」

「行かない」


 香坂は甘くなったコーヒーを一口飲み、眉を顰めた。四本は入れ過ぎだ。

 在原の咀嚼が止まる。レタスを飲み込み、口を開く。


「締め切り前?」

「そうじゃないけど、在原とは行かない」

「唐突のハブじゃん」


 甘ったるいコーヒーを飲み干す。怪訝な顔を見せた在原を真っすぐ見る。

 その耳にピアスが揺れている。久々に大きいピアスを見た気がして、在原はそれに見惚れた。状況も考えず。

 香坂がパタンとノートPCを閉じる音で我に返る。


「なんで怒ってんの?」


 どちらかと言うと、連絡のひとつも寄越さない香坂に怒って良いのは自分の方では。という、在原の心の主張。


「胸に手をあててみて」


 香坂の言う通り、本当に手を当てるので少し驚いた顔をする。


「何か、思い当たることは」

「……え、分かんね」

「彼女は」

「は?」

「は、じゃない。彼女はここにいること知ってるの? どっか行くって彼女にちゃんと許可取ってるの?」


 は、の形で口が固まっている。在原は何のコントが始まったのだ、と香坂を見た。いや、何の小芝居だ。

 返事をしない在原を見かねて、呆れたように香坂は財布を出して小銭を数え始める。帰るつもりなのだろう、と漸く分かった。

 休日の深夜に香坂は大体書くことに行き詰まるとここに来ている。在原はそれを知っていた。だから今日、会うことが叶った。

 叶ったのに、謎の勘違いですれ違うわけにはいかない。



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