vol.44 君と居れば晴れ
ちょっと待った、と在原は香坂のノートPCを奪う。
素早い動きに香坂は手を伸ばすだけで、間に合わなかった。
「彼女って」
「ドニさんから聞いたけど。彼女できたって」
「いや確かにできたけど」
「在原のそういう女関係に巻き込まれたくない」
きっぱりと香坂は言った。はっきりと物を言うのはこれまでも、これからも変わらない。
在原は首を傾けながら、ずっと思っていたことを口にした。
「彼女って五月ちゃんのことだろ。何に巻き込まれんの?」
その言葉に電撃を打たれたように驚き、固まったのは香坂。
そんな様子も気にせず、在原は続ける。
「許可って五月ちゃんに取れば」
「……大丈夫?」
「え」
「酔ってるの? 酔ってたの? 大丈夫?」
先ほどの固まった表情筋は一変、心配げに在原を見る。
「俺酔ってんの? なんで?」
「あたし、あなたと付き合ってませんけど」
「は?」
「え?」
「付き合ってって言ったら、うんって答えたろ」
「言ってない」
「言ったっつの、この前の飲み会の帰り、あの営業の男に会った後、タクシー見つける途中」
詳細に在原は言った。香坂は口を半開きにしながら、その記憶を辿る。確かに同じ会社の建沢に会った。その帰りに、在原の家に行った。
「家に付き合って、の意味だと……思ってました」
「え」
「在原のことは、嫌いじゃないけど」
「待て。好きじゃない男とキスすんの?」
嫌いじゃないけど、好きじゃない。そう続くであろう言葉を遮り、在原は問うた。香坂は視線を下げて、ノートPCを見つめる。これを持って立ち去りたいのだろうが、それが許されるはずがない。
静かな店内で二人の声を聞く者はいない。各々自分の好きな時間を過ごしているのだ。他人の言い合いなど気にする余地もない。香坂も在原が来る前はそちら側にいたはずなのだ。
「眠かったのと、流れ、というか……」
「ああそうですか、まあ良いですよ流れで。その流れに乗ってこのまま付き合えば」
「いやそれは」
「じゃあここで土下座するから付き合って」
「やめてください」
半分脅しだ。ははは、と在原は朗らかに笑っているが、冗談には聞こえない。
閉口してしまった香坂を見て、じゃあ、と提案する。
「土曜日デートして、俺の家泊まって、次の日ドニの家行ってから考えるってのはどう?」
「どうって……」
「一緒にいて楽しいかどうかで決めりゃ良いよ。そんな難しく考えずに。嫌だなと思ったところは言ってください、直すので」
それって、つまり付き合わないという選択肢はないという話だろうか。
香坂はそう思ったが、いきなりここで付き合うという話になるより、猶予を貰った方が良いと考えた。考える時間が必要だ。
「……泊まり必要?」
「俺のなかでは泊まりの予定だったから超重要」
「……まあ、うん、良いけど。何もしないなら」
「何かするときは同意取るから、大丈夫」
何が大丈夫なのか。
香坂はノートPCを入れておいたバッグをテーブルに置いて、その上に突っ伏す。在原は話が纏まったことに安堵し、サラダを食べることを再開した。
「……あたしのどこが良いの? そんなに一緒に居て楽しいほど?」
在原は明るく楽観的な性格なので、基本的に誰と居ても楽しく過ごせる。老若男女問わず。対して香坂は、その極端にいる。
誰かを楽しませる能力は無いし、その努力をしようと思ったことも少ない。在原に関してはそういう気を遣おうと思ったこともない。
「楽しい……楽しいともまあ思うけど」
「思ってないでしょ全然」
言い淀む在原に少し顔を上げ、笑いながら返す。
「楽しいのは大前提で、俺は五月ちゃんと一緒にいると強くなれる」
その言葉に、ゆっくりと顔を上げる。サラダを食べる在原と目が合う。
「……近場にいたからじゃなくて?」
「五月ちゃん全然近くにいたこと無くね?」
「後腐れないとか」
「ありまくりだろ。五月ちゃん傷付けたらドニたち夫婦とか大津とか守谷さんとかに一生言われる」
「百合香は兎も角、聡子は笑いそうだけど」
「そういや守谷さん元気?」
守谷は大手製薬会社の研究員をしている。こちらも忙しいらしく、最近会えていない。大きなプロジェクトに参加しているというのは前回会ったときに聞いていた。その時に在原から連絡があり、近くにいるというので途中参加した。
高校の頃、香坂に声をかけてくるような守谷が人見知りをするわけもなく、在原と意気投合していた。
『きみが在原監督かー』
『俺の有名さが五月ちゃんの友人にも届いてるなんて』
『あれでしょ、よく感動して泣いてる』
『五月ちゃん何吹き込んでくれてんの??』
『何はともあれ、グランプリおめでと』
学生映画祭からもう一年以上経っていたというのに、守谷はそれを覚え祝ってくれた。その思い遣りに、香坂の影響を見る。
『ありがとうございます』
在原が朗らかに礼を言った。
あれから半年。便りがないのは良い便り、ということで、忙しくしているのだろう。
「たぶん、きっと、元気」
「すげえ希望が入ってる」
「食べ終わったならPC返して」
在原の皿が空になったのを見て、香坂は唇を尖らせながら手を伸ばした。在原は伝票を掴む。
「荷物持ちするから今日泊めて」
「は?」
「終電もうねえし」
「社会人でしょ、タクシーで帰れば」
「ひっどい、俺をこんな雨の中放り出すとか」
窓の外を見る。確かに雨が降り始めていた。来るときは降っていなかったのに。
先週梅雨入りした関東は、殆ど毎日雨が降っている。
「俺、雨苦手なんだ」
同じように窓の外を見た在原がぽつりと言った。在原にも苦手なものがあるのだな、と香坂はぼんやり思った。いや、ゲームも下手だったなと思い出す。
「でも、五月ちゃんと一緒なら大丈夫な気がする」
「気がする」
「絶対、大丈夫」
言い切った。在原が香坂を見る。その瞳の色が緑がかっているのを知ったのはいつだっただろうか。もうずっと、昔のような気がする。
綺麗な色だ。
「傘、持ってくれるなら」
「ん?」
「うちに泊まっても良いよ」
ふっと少し笑う香坂に、在原は晴れのような笑顔を見せた。
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