vol.42 勝者を称えよ


 スマホを修理に出し、代替え機を受け取った。メッセージアプリの移行が出来なかったので、連絡先は真っ白だ。

 与寺とはメールでやりとりをしているし、悲しい哉、香坂には頻繁に連絡をする友人は一人もいない。

 いや、在原が時折してくるが、今は顔を見たくない。案外しれっと現れそうで、それもそれで反応に困る。

 香坂はとりあえず楢の連絡先を入れた。





 香坂が瀬高の書類の確認をしていると、建沢がふらりと経理部へやって来た。瀬高はちらと隣の席に視線をやるが、香坂は気付かないふりをしている。何時にも増して。

 何かあったのだろうか。


「香坂さん、これお願いします」

「あ、どうも」

「この前一緒に居たのって彼氏?」


 お、と瀬高の聞き耳が動く。


「……違います」

「この前は彼氏居ないって言ってたよね」

「この前もこの書類の期限、教えたけど?」


 ぷつん、と何か音がした。瀬高はそろりと回転椅子を香坂側から少し離す。

 香坂に限界がきた。

 まさかそんな反論がくるとは思わなかったのだろう。建沢はきょとんとして、書類に一度目を落とす。


「それは忘れて、謝罪のひとつもなしに今書類を持ってくるってどういうこと? しかもこれ二回目とかそういう易しい回数じゃない」

「え、あ」

「あたしに彼氏がどうこうつっかかってくる暇があるなら、仕事してもらえますか?」


 試合終了のゴングが鳴った。

 何も言えなくなった建沢が口を噤み、手に持った書類だけが所在なさげにしている。香坂はそれをパッと受け取った。


「これは貰います。次回からちゃんと期限守ってください」


 言い放ち、書類確認を再開する。建沢がふらりと経理部を出ていった。

 近くで一部始終を聞いていた経理部の上司が香坂へチョコレートを一粒差し出す。糖分が足りてないという皮肉かとそれを見上げた。


「今度から期限守らないおっさんたちには香坂から言って貰いたい」

「嫌です」


 キッパリ断ると、ケラケラ笑われた。俺も私も、と上司たちが香坂の机にお菓子を置いていく。


「やらないですって」

「いや、これは勝者への細やかな贈り物」

「勝者……?」


 よく理解はできないまま、怪訝な顔をする香坂。お菓子を返そうとするものの、どれが誰から受け取ったのか分からないので、とりあえず貰うことにする。

 そろりと遠ざかっていた隣席の瀬高がそっと個包装のマカロンを置き、お菓子の投げ入れに遅れて参戦する。いらない、と香坂はそれを返そうとするが、動きが止まった。


「マカロン」

「安いやつですけど」

「ありがと」


 有難く頂いた。少し笑んだ香坂に一瞬見惚れ、瀬高は我に返る。


「香坂さん、彼氏いるんですか」

「……え、なに?」

「なんでもないです」


 緩んだ顔が再度引き締まり、瀬高の方を見る。黒いオーラが見え、必死に首を振った。

 香坂が今、主に考えているのは在原のことだ。それに建沢と瀬高は巻き添えを食ったに過ぎない。

 あれから連絡もない。姿も見えない。意味も分からない。連絡がないのは香坂の都合だが、色んなことが重なって全てを在原の所為にし始めている自分がいた。何かしないとやっていられないと考え、またひとつ暗い短編を書いてしまった。今度与寺に見せようと思う。


「最近苛つくの、梅雨だから? アラサーになるから?」

「え、アラサー……香坂さん誕生日なんですか?」

「来週末に。四捨五入で30」


 今まで特に歳をとることに関して嘆くようなことは無かったが、こうして穏やかでいられなくなってしまうのであれば、人生に支障が出る。香坂は海よりも深く溜息を吐いて、仕事に戻った。








「真澄くんと喧嘩しました?」


 先日『喧嘩はしてない』と聞いていたドニだが、それ以外に考えられず、そう尋ねた。電話の向こうで香坂が暫し黙る。


『喧嘩はしてないです』

「同じこと、言ってました」


 思わず笑ってしまう。今度次女の顔を見に来る、という話から、在原のことも伝えた。


「真澄くん彼女出来たって言ってましたけど、聞きました?」

『……あ、そうなんですか?』


 驚いた様子の香坂に、これは言わない方が良かったのかもしれないとドニは後悔する。


「もしかしたら、もう別れてるかもしれないですけどね。真澄くんのことですから」

『そんな、信頼なさ過ぎじゃないですか?』

「香坂さんは恋人いるんですか、今」


 静かに笑っていた香坂の気配が消える。何かと地雷を踏む日だな、とドニは反省する。


『……最近、よくその質問されます。大学のときもそうだったけど』

「気になるんですよ、きっと聞く人は皆」

『いつまで独り身なのかって?』


 投げやりな回答に、ドニは佐田を思い出した。


『まあ確かに、あたし結婚する気ないですし』


 あはは、と香坂らしからぬ明るい声で笑うのが聞こえ、更に反省する。ドニはどこかで挽回できないかと言葉を探した。


「何かありました?」

『……何もないです。今度楽しみにしてますね、お邪魔するの』

「はい。真澄くんに連絡先教えておきますか?」

『いえ、自分で連絡します。ありがとうございます』


 失礼します、と通話が切れる。

 在原の話題が排除され続けていた。ドニはスマホの画面を見ながら、一体何があったんだ……と溜息を吐く。


「五月ちゃん来るって?」


 次女――エリカを抱いてあやす妻――千代がドニの方を見た。


「来週末来てくれるって」

「わーい、やったねエリカ。真澄くんも?」

「真澄くん今出張、というかロケハン中らしくて……聞いたら怒るかな」

「え、誰が?」


 話の見えないドニの心配に千代が首を傾げる。


「また二人喧嘩してるの?」

「……いや、喧嘩はしてないらしいんだけど」

「喧嘩"は"」


 クスクスと笑う。その声が心地良い。

 千代が言うほどに二人は喧嘩したり仲良くしたりしている。殆ど兄妹、親子のようだ。

 ドニは二人に近付き、エリカを受け取った。眠りそうだったエリカが目をパチリと開き、ぐずりそうになるが、また眠った。赤子は忙しい。


「あの二人、付き合わないのかなー?」


 千代は隣で眠るアリサの頭を撫でながら呟いた。

 ドニと付き合った頃から在原とは面識があった。在原に関しては、佐田から「外見も性格も何も言うことはないのに、女関係だけはクズ。あたし以下」という評価を聞いていたので、それ以下でも以上でもない。

 香坂とは、佐田の葬式で挨拶を、結婚式できちんと話した。その隣にもれなく在原もくっついていたのだが。


「どうして?」


 ドニも確かに最初はそう思うところがないわけでも無かった。

 佐田が死ぬまでは。


「なんか二人を見てると、欠けてるところをちょうどお互いが持ってる感じしない?」

「どうかな。真澄くんの心の穴は大きいから」

「え? 真澄くんは五月ちゃんのこと大好きでしょう? 問題は五月ちゃんの方だよ」


 千代の言葉にドニが目を丸くする。

 待て待て待て。


「確かに構ってる節はあるけど……」

「"構ってる"んじゃなくて、あれは"構われたい"でしょ」


 笑いながらそう言うと、アリサが「ポテト……サラダ」と寝言を話す。その様子に二人で顔を見合わせた。


「もう一回言うかな? フライドポテトはどう?」

「ちょっと待って。今も真澄くんが香坂さんを好きってことなら、真澄くんにできた彼女って誰?」

「えー真澄くん彼女できたの? セフレじゃなくて?」

「彼女って言って……今度ちゃんと聞いとく」


 そういえば、どこの誰かを聞いていなかったと思い出す。職場の人間ではないだろうと勝手に当たりをつけたのは、在原はコミュニティー内で彼女を作るのを嫌がるからだ。

 理由は「別れたとき気まずいから」らしい。それを聞いた佐田が「別れる前提か」と吐き捨てていた。


「案外五月ちゃんだったりしてね、彼女」


 含み笑う千代に、ドニは同じようにして笑う。

 いや、そんな、まさか。



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