vol.36 変わるもの
教科書販売のために大学にいた。香坂は購買の帰りに図書館へ向かおうとする途中、在原と会い、楢を見つけて捕まえた。熟、捕まえられやすい男である。
「あそこの教授は緩いからおすすめ」
「そのオススメの仕方はどうなの」
「緩くてもレポートやばいとこありますよね?」
「手書きとかな……コピペ防止にな……」
「すごい思い当たってる」
どこのゼミが良いかという話に花を咲かせていると、香坂のスマホが震える。大津からだ。
「百合香来るって」
「大津も前期授業取ってんの?」
「取ってる」
どん、とテーブルに置かれた黒い鞄。
きょとんとその持ち主を見上げた二人を見下ろす大津。
「スーツ着てどうしたの?」
「大津の化粧が薄いの久々に見た」
「なに脳味噌ゆるふわなこと言ってんの? 就活解禁したでしょ?」
楢は、固まった二人を見た。まさか、とは思うが。
「やべえ今時間ワープしたかと思った」
「バイト探してる場合じゃない……」
「大丈夫ですか?」
楢の問いに、香坂も在原も視線を合わせることはしなかった。二人とも就職のことを忘れていたわけではないが、映画制作が念頭に来すぎていた。
大津は楢の隣に腰をおろし、深く息を吐く。
「こんな先輩になっちゃ駄目だよ」
「反面教師にします」
「てか、五月は兎も角、在原ってどこ就職すんの? 映画会社とか?」
「どこも採用早いんだよな、もう終わってんじゃねえの」
「分かっておきながら何もしないとこにやる気の無さを感じるんだけど。楢くん、近づいちゃ駄目だよ」
「反面教師にします」
香坂とよく一緒にいる大津と話すのも普通になった楢。大津が楢を見かける度「あ、美形だ」と言っていたのも、もう無くなった。
春休み、四人が大学にこうして集まるなんて奇跡のような光景だ。香坂は三人の会話に少し笑みを零す。
貴重な笑顔だ、と三人がそれに注視したのも知らず。
「五月ちゃん、今日バイトある?」
「ないけど」
「じゃあちょっと付き合って」
断る理由も特になく、香坂は在原の後に続き、電車に乗る。下り方面。どんどん車窓の外が長閑な風景へと変わる。
どこへ行くのか聞かなかったのは興味が無かったのと、知らない方が楽しめると思ったからだ。二人は空いた座席に腰をおろし、各々時間を潰した。
「ここで降りる」
声をかけられ、香坂は小説を閉じた。
着いたのは終点。在原の背中を追う。
「あれから何か書けた?」
「なにも」
「一文も?」
「一文字も」
元気だったか? という調子で尋ねられ、香坂も同じ調子で返す。ほぼ日課みたいなものになっていた。
もう一生書けない気もしていた。あんなに書くのが楽しかったのに、物語を作るのが好きだったのに、それが大昔のことのようだ。
思い出せない自分の感覚に、諦めと周りからの圧力と期待のようなものが混ざり合って、どす黒い色に変化しつつある。香坂はこれをなんと名付ければ良いのか分からない。
佐田のこともよく思い出し、考えた。何も変わらない過去をどうしたら救えるのか。それも相まって、どす黒い何かは渦を巻く。
「ここも東京?」
「郊外だけど。東京でも雪降る方」
「そうなんだ。いっぱい畑がある」
東京には畑がないと思っていたのだろうか。目を瞬かせる香坂に、在原は少し笑う。
日が落ち始めた中、住宅街を歩く。
「どこ行くの?」
「ここ」
香坂はてっきり何かの風景を観に行くのだと決めつけていた。
家だった。在原は入口の門を開け、すいすいと中に入っていく。勝手知ったるように。
いや、ここはどこの、誰の家だと香坂は立ち止まって表札を見た。
「在原……」
「俺の実家。こっち」
手首をひかれ、中に入る。東京郊外に建つ長閑な一軒家。在原は鍵を出して玄関の扉を開いた。
「ただいま」
「あたし、外で待ってる」
「資料とか昔の録画あるから観られる」
その言葉に、退いた足を戻す。素直な反応に、在原は笑いながら靴を脱ぐ。そのリラックスした様子に、家族は留守なのかと安堵して同じように靴を脱いだ。
「え、帰ってきたの?」
「物取りに」
「え、彼女? 友達? 綺麗な子ね」
「同じ大学のサークルメンバー、五月ちゃん」
「あー五月ちゃんね! 夕飯食べていく?」
急に現れた在原の母親――在原恵との会話が繰り広げられるまでは。
既に玄関にあがってしまった後だったので、香坂は後戻りが出来なかった。そして、
「突然お邪魔してすみません……」
としか言えなかった。
何より、他人の家に行くというのに手土産のひとつも持っていない。
「それに手ぶらで……」
「そんなの良いのよ、うちのバカ息子もご実家行ったとき手ぶらだったでしょう? それより夕飯どうする? 食べる?」
「食わないです。資料持ったら帰るから」
間に在原が入って、応酬は幕を閉じた。
唇を尖らせ、恵は「ゆっくりして行ってね」と言い残し奥へ戻っていく。
香坂は久々に人見知りを発揮しており、静かに廊下を歩き、階段を上った。在原が入った部屋に入る。
机と本棚だけ。ベッドがあったであろう場所がぽっかりと空いていた。
「何もない」
「そりゃ今の家に全部持ってったからな」
「ここからでも通えない距離じゃないと思うんだけど」
「家賃三万、水道光熱費五千円、プラス毎月の定期代考えたら大学の近くに住んだ方が安かった」
実家に家賃三万……。家賃と水道光熱費は親に支払ってもらっている香坂からすれば、目眩のする話だ。先日、在原に「金を貯めてどうするのか」と尋ねたが、そもそもの前提が違う。
部屋を見回し、本棚を見つける。がさがさとクローゼットを漁る在原を他所に、香坂は本棚の前にしゃがんだ。
小説、漫画、雑誌。在原の好きそうな作品が並んでいる。野球漫画が多い。
「お、これ高校のときの」
小さな箱を出す。香坂の視線がそちらへ向く。
「あーよかった、音源あった」
「それ、CD? DVD?」
「どれ」
ダンボールに近づき、端の方に埋まっていたケースを引っ張り出す。よくそれが目についたな、と在原は受け取った。
ケースにも本体にも名付けられていないそれを手元でくるくると回し、首を傾げる。
「見てみれば分かるか」
「呪いのDVD?」
「VHSじゃないところに時代を感じるよな」
どちらにしろ画面に映すまで分からないのは同じだ。在原は机の上に置かれていたポータブルプレイヤーに躊躇わずそれを入れた。
ざざ、と黒い画面。香坂も在原も視線を逸らさなかった。
『……あ、ほらまわったんじゃん?』
どきりとする。
懐かしい声だ。別れてから半年も経っていない。
『撮れてるんですかね?』
『あ、うん、いけてる』
『ちょっとドニ、画考えてよ。女子が可愛く角度!』
『いや試しなんだからそんなに回すなよ』
『まあ良いじゃないですか。普段裏方のお二人でーす』
在原と、ドニと、佐田だ。
「高校のときに、ドニが初めて買ったカメラで撮ったやつ」
在原は短く説明して、ちらと香坂の横顔を窺う。
「すげえ映像粗いな」
その瞳に涙の膜が張られるのが分かり、言いながらポータブルプレイヤーを閉じようとした。香坂がその手を止める。
「佐田さんがいる」
「……まあ、そりゃ」
映像の中の三人はカメラの性能をチェックしつつ、他愛もない話をしていた。
金を貯め、中古屋で買ったカメラだった。
『すごい面白い昨品作ってさ、ムカつく奴ら皆見返したいよね』
明るい茶髪をかきあげて、佐田が言った。ドニが苦笑を漏らし、在原が焚きつける。
『佐田センパイ、やっちゃってくださいよ』
『うっさい、真澄くんもやるの』
『真澄くんいなきゃ映画が始まらないですもんね』
香坂はポロポロと涙を零していた。
在原はそれに何も言わず、箱ティッシュを差し出す。
「泣くことないだろ」
「泣いてない」
「いや泣いてんじゃん」
だから止めようと思ったのに。
受け取られないティッシュを数枚出し、在原は香坂の頬に当てた。少し熱い。
香坂は鼻を啜り、それを受け取る。
「……怒ってるの」
涙を拭う。
横顔が先程と変わっていた。そうだ、この顔だった。在原が最初に香坂を見たときの顔だ。
怒っていた。
何故なら、怒りは香坂の原動力だからだ。
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