vol.35 アンパサンド


 帰っても、書けない毎日は続いた。何か書こうとノートを開くが、罫線が続くだけ。

 今まで書いていたものを眺め、やがてそれにも飽きて、片付けてしまった。部屋の紙類を整頓すると、すっきりとする。


『飯食った?』


 バイトでもしようかと香坂が求人雑誌をペラペラと捲っていると、在原から電話がかかってきた。


「まだ」

『蕎麦食いに行かね? さっきバイトあがった』

「あー申し訳ないけど、今月金欠で」


 立ち上がり、冷蔵庫の中を見る。

 実家から帰ってきてから、在原から時折電話がかかってくる。脚本はまだか、と尋ねたいのは言外に伝わってくるが、書けないものは書けないままだ。


『いや、誘ってんだから奢るに決まってるだろ』

「なんでそうな……あ、お蕎麦あったんで、家で食べます」


 蕎麦のストック、ネギと海苔、蒲鉾がある。家で蕎麦茹でようと昼食が決まった。


『じゃあ天ぷら買ってくわ』

「……え、なんで天ぷら?」

『エビ天、南瓜、蓮根……』

「エビ嫌い」

『そうだった、とりあえず盛り合わせ買ってく』


 どこへ、と香坂が尋ねる前に通話が切れた。

 ……人の話を聞け。

 まあいいか、と諦めて鍋を取り出した。




 チャイムが鳴り、本当に在原は来た。天ぷら盛り合わせを手に。


「お邪魔しまーす。おお、めっちゃ蕎麦。天ぷらどうする?」

「貸して」


 手を洗う在原の横で、天ぷらをオーブンに入れる。箱を見て気付いたが、これはスーパーで売っているものでは無く、某天丼屋の天ぷら盛り合わせだ。


「これ買ってくるなら天丼買って帰れば良かったんじゃない?」

「あー俺も天丼買わないと足らないかなと思ったけど、蕎麦で足りそうだから安心した」


 そういう意味じゃない、と香坂は考えながらスイッチを押した。

 普段の在原の食べっぷりを見て、多めに蕎麦は茹でたが。


「あ、箸がない」

「だと思って箸貰ってきた」

「天才」

「もっと褒めて」


 調子に乗り始めた在原を放置して、香坂はめんつゆや薬味を並べる。まあこんなものだろう、と考えていると、オーブンが鳴った。

 天ぷらをテーブルに揃え、頂きます、と手を併せる。


「うん、美味い」

「それは良かったね」

「前も思ったけど、自分の料理に対して他人事じゃね?」

「え? だって茹でただけだし」


 正真正銘、蕎麦は茹でただけ。あとは切っただけ。天ぷらに至っては買ってきたもの。

 蕎麦を食べながら、何か間違っているだろうかと考える。


「天ぷらが一番美味しいです。さすが天丼屋。南瓜食べたい」

「どうぞ、エビもらう」


 春休みの昼下がり。家で蕎麦を食べる。少し開けた窓から、暖かい風が入ってくる。

 ふと、去年の今頃、学生映画コンクールの結果がどうなるかと胸を重くしていたことを思い出す。あれからもう一年経った。あの頃の自分は、今の香坂を想像なんてしていなかった。


「バイト探してんの?」


 在原はテレビの前に無造作に置かれた雑誌に目を向ける。


「ぼーっとしてるのも、あれかなと思って。金欠だし」

「また本屋やんねえの?」

「本屋は……」


 本屋の求人もあった。どれもそれも、いまいちピンとこない自分がいて、香坂はそれを閉じた。

 箸の止まった香坂を見て、在原は胡座をかいた足を組み替えた。


「在原は今何してるの?」


 昼食に誘ったということは駅の近くの映画館でバイトをしていたのだろうと推理する。


「今日は映画館、明後日はラーメン屋。短期は派遣と、引っ越し」

「お金何に使うの?」

「貯めとこうと思って。いつか映画作るのに」


 将来性。在原の真っ直ぐな夢への道と、計画性を前に、香坂は己の無力さを測る。今の何もできない、どこにも動けない自分。

 脚本の続きも書けない自分。

 ふわりと風が入る。このまま、春風と共にどこかへ行ってしまいたい。


「五月ちゃんってこっちで就職すんの?」

「たぶん……地元帰っても仕事ないし」

「じゃあ俺がまた映画作るとき、脚本書いてよ」


 今度こそ困ったように香坂は俯いた。まるで告白を断る前段階だ。


「今でさえ書けてないのに誘う?」

「また今度の話をしてる」

「うん、書けたら」


 書けたら、また一緒に。

 夢のようなことを思った。







 脚本の出来上がっているところから少しずつ撮影は始まっていた。柔らかい風が、春を無条件に連れてくる。時間は少しも止まることはせず、脚本の完成が押せば押すほど、真綿で首を絞められているような感覚に陥る。

 香坂は撮影に来たり来なかったり。佐田の葬式の頃ほど暗くは無いが、どこか覇気のない表情で居た。


「……香坂さん、大丈夫なんですか?」


 一番に気付いたのはドニだった。


「……さあ?」

「さあって」

「正直分かんねえ。無理そうだったら俺が続き書くし、その時は落選覚悟だな」

「そんな覚悟したくないです」


 失礼な。そう思いながらも、同意する自分がいる。

 在原は黒ビールを呷り、長く息を吐いた。


「そんなことより聞いてくれよ。俺好きな子出来ちゃったんだけど」

「そんなことって、好きな……子!? あのクズな真澄くんに!?」

「なんか今の言い方佐田に似てない?」

「僕がそこは受け継がないといけないと思って」

「どこ受け継いでんだよ……」


 ドニは先程と打って変わってうきうきした様子で在原を見る。


「どんな子なんですか?」

「月、みたいな」


 ドニが眉を顰める。その表情に何か可笑しかったかと在原は膝を抱く。大きい背が小さくなる。


「無生物に例えられても。もっと具体的に、清楚系とか明るいとか財閥の娘とか」

「清楚……というより、潔癖のような」

「真澄くんの女性遍歴知ってるんですか?」

「知ってる、うん」


 それに気付き、小さくなった背を更に小さくする。在原は視線をドニへ向ける。


「作った料理食って美味しいって言っても、笑顔が可愛いって言っても、一向に喜んで貰えないんだけど」

「真澄くん、それは」

「皆まで言うな」


 脈無し過ぎるのでは。

 ドニは頭の中で在原の好みを検索するが、ヒットする女がでない。潔癖と聞いて親しい人間で思い浮かぶのは香坂だが、あの香坂が在原に手料理を振舞うとは思えない。何より、佐田のことがあって尚在原がそんなこと言うはず……ないとも言えない。

 どちらにしろ、在原がどう思おうと、相手に気持ちが無ければ関係は発展しないだろう。


「女子って何したら喜ぶの? え、ダイヤ?」

「ダイヤ送って喜ぶ女性なんて僕は嫌ですけどね」

「ダイヤ送って喜ぶならもう送ってるっつの」


 しかしまあ、在原が好きな女で頭を抱えているのを見るのも少し面白い。佐田が生きていたらこんな場面を一緒に見られたのに、とは思う。

 ドニは残りのビールを飲み干し、同じものを注文した。


「あ、式いつすんの?」

「何も無ければ六月にします。ジューンブライドで」

「六月……笑ってできるか泣いて出来るか」

「映画祭の結果関係なく、笑ってさせてくださいよ」

「いや、俺がな」


 香坂の家の、さっぱり片付けられたあのメモや走り書きを思い出す。

 苦く笑って在原は言った。ドニもつられて笑い、テーブルに頬杖をつく。


「真澄くんは感動して泣くと思いますよ」

「あー俺もそう思うよ」


 今日初めて意見が合った。

 順調に人生を歩む幼馴染の晴れ舞台だ。泣かないはずがない。佐田が生きていたら、きっと一緒に泣くだろう。

 二人とも同じく死んだ幼馴染のことを思い、ビールを呷った。




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