vol.33 灯火
実家に帰った香坂が部屋で毛布に包まり、小説を読もうが漫画を読もうが映画やドラマを観ようが、雨音は何も言わなかった。
今更何を辞めろと言っても聞かないだろうという諦めと、親しい人を失ったその穴を塞ぐのに今は精一杯なのだろうというと考えからだ。
香坂は只ひたすら物語の世界へ没頭した。そこから、もう帰って来られなくても良いと思った。
それが、在原の言葉で、現実に帰って来てしまった。
「何が言いたいの?」
在原は隣に座り、スヌードを取った。しゅんしゅんと部屋の隅に置かれたストーブの上で薬缶が音を立てる。
二人の殺伐とした空気を、無視して。
「だから、逃げんのかって」
「逃げてない」
「逃げてんだろ、ここまで」
「佐田さんが死んじゃって、悲しくないの?」
堪らず、吐いた言葉。
香坂は唇を結んだ。在原はその言葉に、頬を痙攣させる。
「は? 何言ってんだよ、こっちは中学の時から佐田と知り合ってんだよ、悲しくねえわけねえだろ」
「時間とか関係ないでしょ。あたしだって佐田さんのこと好きだった」
「俺だって俺なりに佐田のこと好きだったよ」
ここに佐田がいたら「私の取り合いしないで、やめて!」と茶化していただろうか。しかし、そんな想像もできないくらいに二人の空気は張り詰めていた。
香坂は右手の甲が白くなるほど握りしめる。
「じゃあなんで映画作れるの?」
その質問の意図。
「あたし、ずっと考えて。佐田さんが死んじゃってからずっと、どこでそれを止められたのか考えて。もう頭の中ぐちゃぐちゃで」
その右手は香坂の目元に当てられる。
「佐田さんのこと、結局ひとりにしちゃった。全然、何もできなかった。何も伝えられずに、佐田さんは一人で死んじゃって、あたし……」
泣いていた。
後悔と悲しみに襲われる。襲われ、食われていた。
「……五月ちゃん」
左手を取った。それから右手を。
みんな同じことを思っている。在原だけでなく、ドニも、皆。
しかし、そんな言葉は悲しみに呑み込まれている香坂を前に、何の効力も持たない。
言葉はある時毒であり薬であり、ただのモノになってしまう。
「過去は変えられないけど、未来を変えるのは今しかない」
同情が欲しいならヤレアハに話した。
じゃあ在原に何を求めるのか。
「俺は未来を変える為に映画を作る。佐田は救えなかった。でも他の命は救えるかもしれない」
「……佐田さん以外の命なんてどうでもいい」
「どうでもいい命を俺は救う」
きっぱりと言い放った。香坂は在原を見上げた。在原も泣いていた。視線はずっと繋がれた手元にある。
よく泣く男だ。最初に会ったときも泣いていた。
「きっと、どうでもいい命とどうでも良くない命の両方に、俺らは救われるんだ」
その言葉に、香坂はもっと泣いた。
「あたし、誰も救えない。だから、救われなくてもいい。もう書けないの、もう何も浮かばない、脚本も、小説も」
どんなに物語に浸っても、自分の泉に水は湧かない。
在原は手を握る。
佐田のことを思った。自分と似ている佐田のことを。
きっと目の前で泣く香坂を愛していた女ことを。
死んで、こんなに泣いてくれて、佐田は喜ぶだろう。そんな佐田をどこか許さないと思っている自分もいた。
反対に、手に負えないと思った。
「一緒に作るって約束したろ」
もう一度観たいと思える映画を、作品を。
「書けなくても、一緒に来てくれ」
こんな自分も、手に負えない。
静まった二階に、常連客は顔を見合わせた。雨音は苦笑する。
古い家だ。上で言い合う声はかなり響いていた。常連たちが「止めに行くか?」と立ち上がろうとする程に。
とんとん、と階段を下りてくる音に全員の視線が集まる。先に顔を見せたのは香坂だった。
「……煩くしてすみません」
鼻と目を赤くしている。その後ろから在原が現れた。
「騒いですみません、お邪魔しました」
同じような顔をした在原を見て、雨音は似たもの同士か、と突っ込んでしまいそうになった。
「仲直りしたんならえんだどもさ」
「お陰さまで……すみません、帰ります」
「駅までのバスならもうないぞ?」
「え?」
在原は店にかかっている時計を確認する。
そもそも、新幹線が終わっている時間だ。飛行機ならあるかも、という話になるが、最終便が出るまでに間に合わないという結論に至った。
「宿は取ってねぁのが?」
「日帰りの予定でした。ここら辺で宿空いてますかね?」
「俺のとこですら満室だ。明日年一のマラソンだからな、学校とかが集まってきてんだ」
在原は来る途中で見た旗を思い出した。あれは結構大きいイベントだったのか。
「隣駅まで行けばホテル街はあるけどな」
芳賀が言う。濁したそのホテルがビジネスやカプセルではないことを在原は察する。
いや、この寒さの中で野宿をするよりマシだろうと在原が立ち上がる。
「うちに泊まっていきなさい」
黙っていた雨音が口を開いた。香坂と在原は驚いたようにそちらを向く。
「先に二人とも顔を洗ってきて、それからご飯を食べなさい」
誰も指摘しなかったことを言われ、二人ともすぐに顔を引っ込めた。
「……近くにコンビニある?」
常連客が帰り、店内の片付けを手伝う香坂と在原。
「あるといえば、ある」
「なにその含みのある言い方」
「二キロ弱離れてる」
「……ですよね、まあ二キロくらいなら」
香坂は皿を洗い終え、家の方へあがって雨音を呼んだ。
「コンビニ行ってくる」
「今から?」
「在原も行く」
「気をつけなさいね」
雨音が顔を出し、ぺらと在原に五千円札を渡した。
「え」
「アルバイト代だって」
有り難く受け取り、片付けを終えた。香坂が自分の部屋から戻ると、在原はスヌードを被っていた。
店から出て、香坂の進む方向へと歩く。肩にかけられた大きいトートバッグに鈴のキーホルダーがつけられており、歩く度それが鳴った。
「すげえ、反射テープもついてる」
「これ無いと轢かれるから」
「もしかして鈴は熊……」
「数年前、近所で出たよ」
よくここまで無事で来られたなと在原は神に感謝する。
雪道をさくさくと歩く。香坂の足音を聞いて、安堵する。
「どうやってうち分かったの?」
「ああ、名前で何となく」
「え、間違ってたらどうしたの」
「帰ったか、探したか」
さみだれ。五月の雨。
香坂はぽかんと在原を見た。
「来てみればって五月ちゃんが言ったんだろ」
「それは言ったけど……お母さんといつ仲良くなったの?」
「仲良いのかあれ。ほら、秋のチャリティーイベントに来てたろ。あの後話した」
なんだそれ、聞いていない。
脱力して香坂は空を仰ぐ。東京よりも星がよく見える。その分冷たい空気が肺を通る。
脇を車が何台か走って行った。ライトが高坂のトートバッグの反射テープを照らしていく。
「……暗いな」
「田舎だからね」
その言葉に全てを集約して良いのか。すぐ傍の暗い林から何か出てきそうで、目を凝らしてしまう。
在原はふと無防備に出された香坂の手を見た。そっとその手首を取り、繋ぐ。
香坂が振り向き、何かと視線で尋ねた。
「手繋いでも良い?」
その問いに、分かるか分からないかくらいの笑みを見せて、マフラーに首を埋めた。
「もう繋いでるでしょ」
何故かそれを見て、泣きそうになる。
この暗い道で唯一灯る、香坂は光だ。
少なくとも、自分はその光を頼りにここまで歩いてきた。これからどうなるかは誰にも分からないが、きっとどんな明るい道を歩いても、自分はそれを探すのだ。
それなら、光が絶えないようにするのも自分の役割なのだろう。
「そういや五月ちゃん、コンビニで何買うの?」
「今日発売の漫画」
「本屋で買わねえの……?」
「本屋より先に新刊入るときあるから」
「まじかよ」
在原はこの日、恋に落ちた。
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