vol.29 哂う
大学の講義中、絶妙な態勢で眠る大津を横に、香坂はストーリーを練っていた。そうしないと煖房の心地良さに負けて、自分も眠ってしまいそうだったからだ。
教授はパワーポイントを使いながら、年末年始のレポート提出について説明していく。後で大津に教えようとぼんやり思った。
講義が終わると大津が起き、香坂は鞄から弁当を出そうとしていた。
「五月って年末年始、実家に帰るの?」
「あ、うーん……」
母とはあれから連絡はしていないし来てもいない。完全な冷戦状態であり、「帰ってこなくて良い」と言われた手前、帰らない方が良いのかもしれないという思考にもなっていた。
「あ、在原だ」
大津の視線の先を辿る。講義室に入ってきた在原はキョロキョロと周りを見回し、誰かを探しているようだった。時折、傍を通った顔見知りに挨拶をしている。
ぱっと香坂と目が合い、こちらに近付く。心做しか強張った表情をしていた。
「どうしたの?」
香坂が先にそれを尋ねる程に。
「ちょっと来て」
そう言い、香坂の鞄を持って袖をひいた。未だ固い表情に、嫌な予感しかしない。
行ってくるね、と大津に言い残し、講義室を出た。授業が終わったばかりだからか、廊下には人が少ない。
「法学部政治学科、在原真澄さん。社会経済学部経済学科、香坂五月さん。至急教務までお越しください」
突然アナウンスが入った。二度繰り返される。驚いて香坂は立ち止まり意味もなく上を見た。在原も同様だった。
「何かあった……?」
「佐田が自殺した」
さたがじさつした。
短いその文章は、上手く漢字に変換出来なかった。
在原はそう言って、香坂の手首を掴んだ。教務へと歩を進める。
「え……え、なんか、そういう冗談」
「冗談だったら良いよな。俺もそう思った」
在原は前を向いたまま言った。
教務課まで行くと待っていたのは警察だった。男女共に居て、香坂と在原は一人ずつ話を聞かれた。
佐田はどんな人間だったか。最後に会ったときはどんな様子だったか。何か思い当たる節はないか。
そのどれもに、香坂はぎこちなく答えた。
「今はまだ混乱しているよね。何か思い出したら連絡してください」
なんと返事をしたのかよく覚えていない。小講義室から出ると、在原が外で待っていた。香坂を見て近付く。
チャイムが鳴った。三限が始まるが、二人とも授業に向かう気は起きなかった。大学を出て、近くの広い公園へ入る。こんな季節の外だというのに、どちらも温かい場所へ入ろうとは言わない。
「コーヒー、お茶、水、コンポタ」
「いらない」
「コーヒーな」
有無を言わさず自販機のボタンを押す。在原は缶コーヒーをひとつ、香坂へと渡した。
「……ありがとう」
うん、と返答。香坂の視線は缶コーヒーの縁を彷徨く。やがてその境界線が曖昧になって、何度か瞬きをした。
冷たい空気が首元を撫ぜる。手が震えたのは、寒さからではない。
「ドニから聞いた。バイト先の無断欠勤があって、家まで来た店長と店員が見つけた、らしい」
在原の視線も足元の乾燥した砂へ落とされていた。
「喜んでたよね」
「ん?」
「プレゼント……大事に使うって」
三人からプレゼントしたのは名刺入れだった。嬉しそうに包装紙を綺麗に畳んで、佐田は笑っていた。
その笑顔がぼんやりと浮かぶ。何から考えるべきなのか、分からない。混乱していると女性刑事は言ったが、確かに混乱しているのかもしれない。
いや、受け容れられない。
「そうだな」
在原が買った缶コーヒーだったが、当人もそれを開けようとは思えなかった。単に暖を取る為の飲み物になってしまった。
スマホが震え、在原が電話に出る。短く会話を終え、立ち上がった。
「これからドニと会う。五月ちゃんも行く?」
「あたし……」
「行こーぜ。佐田のことは、ドニが一番知ってる」
その言葉に頷く。曇った空に、冷たい空気。
雪が降りそうな天気だ。
ドニは仕事を早退し、駅に向かった。上司から良い顔はされなかったが、親友が亡くなったと告げれば、何も言わなかった。
外は雪がちらつき始めていた。
待ち合わせ場所には既に在原と香坂はいた。いつもは何か話している二人が、無言で待っていた。
「お待たせしてすいません」
「いや、仕事抜けて大丈夫か?」
「まだ下っ端なんで」
笑ってみせたが、作り笑いになった。香坂の無表情には顔色の悪さが加わっていたが、ドニに合わせて口端を上げる。
「雪降ってきましたね」
「あ、本当だ。寒いと思ったら」
「温かい場所に入りましょうか」
ドニの提案に頷く。二人には無かった選択肢だ。
穴場だというドニの知っている喫茶店へと入る。入れ違いに出て行った客が一人、店内にがらんどう。
水を持ってきた高齢の店員が無愛想に注文を取っていく。
「人が死ぬのに特別な理由なんてないですよね、きっと」
窓際に座ったドニの横顔に外の光が入る。並んで座った在原と香坂がそれを見る。
そう思わないとやっていけない。表情はそう言っていた。
「佐田さん、どうやって命を絶ったんですか」
香坂が尋ねた。ぼんやりと物の焦点が合わない。
ドニの彼女が佐田のバイト先へ入れ違いでいたこともあり、ドニは佐田のバイト先の人間と交流があった。警察より先にそちらから話を聞くことが出来た。
「聞いて後悔しませんか?」
「寒い、俺ちょっとトイレ」
在原が立ち上がる。
ドニが香坂を見た。後悔という文字が頭に浮かんで、頭を振った。
「バスタブの中で手首を切ったそうです」
簡潔にドニは答えた。香坂の顔色は変わらない。
窓の外で雪が静かに降っている。香坂にとって、地元に比べれば可愛いものだ。都会の人間のいうホワイトクリスマスのイメージはこんなものなのだろう。
在原がテーブルに戻る。
「今じゃなくても良かったのにな」
窓の外を見ていた。
今までも、佐田は自傷行為を行っていた。それを繰り返して、今まで生きてきた。
「……バカだよな、本当」
「どうなんですかね。この世にしがみついてる僕らの方が、佐田さんは馬鹿に見えたのかも」
ずっと穏やかな口調でドニは話す。喫茶店の奥から聞こえる調理音が、どこか懐かしい。
香坂はドニにもっと尋ねたいことがあったのだが、こうして話し始めると、何も口から出てこなかった。世界の形が全てぼんやりとするくらいで、それ以外の変化はない。
慕っていたひとが亡くなったというのに、涙のひとつも出ない。
そんな自分に絶望してしまう。
「佐田さん、実の母親からネグレクトを受けてて、よく児相に通報されていたらしいです。僕と団地が一緒で、当時親から聞いたことなので、本人にわざわざ確認したことも無かったんですけど」
「児相……?」
「児童相談所。高校途中でその母親もどっかに消えて、佐田もあんまり学校来なかったし、女の先輩にも目付けられてた」
中学の頃の佐田。
思えば、香坂は佐田の過去のことは何も知らない。
「ああいうこざっぱりした性格ですし、男子と仲良くしてるからか女子とは一層疎遠になってたんですけど、すごく香坂さんのことは慕ってました。本当に、すごく」
プレゼントされたピアス。
繋いだ手の感覚。
「初日、香坂さんが佐田さんの名前を褒めたの、覚えてます?」
「お祖父さんがつけてくれたっていう」
「そう、それをすごく嬉しがってね。酔っ払うとよく自慢してました」
思い出して、ドニは少し笑う。やっと今日、笑えた気がした。
香坂は黙る。飲み込むには、言葉が大きすぎた。
「だから、佐田さんの代わりに言いますね。佐田さんに出会ってくれてありがとう」
パンドラの箱に最後に残ったのは希望だったか。
そんなものは要らないから。
だから、この絶望に打ち勝つ剣を持って来てほしい。盾でも良い。薬があるのか? それならどこからでも輸入しよう。金なら幾らでも払うから。
この命に換えてでも、あなたを守りたかったのだ。
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