vol.11 香る悩み


 木曜日、午後。在原はスタジオに向かった。香坂と佐田、ドニが並んで座り、ドニのタブレットを三人で覗いている。数週間も経っていないのに、結構な馴染み様だ。

 そして、自分の連れてきた香坂が他の仲間と肩を寄せ合って、いつもは無表情の顔を柔らかくしているのを見るのは、どこか面白くない。


「あ、真澄くん。お疲れ様です」

「来るのおっそ」

「バイト先に呼び出されたんだよ」


 佐田は疑わしそうな視線を向ける。どうせその前はオトモダチと朝まで一緒だったのだろう、と呆れた顔。

 その声と共に、香坂が顔を上げた。顔の痣は前に見たときよりずっと薄くなっている。

 ドニがタブレットを示す。


「今、過去に作った動画を見返してたんです」

「どれ?」


 いつものように、香坂の隣にしゃがんだ。びくりと香坂が肩を震わせた。近くにいた者にしか、分からない程度に。

 在原とは反対に、立ち上がった。


「あたし、帰る」

「は?」

「用事思い出したから、帰る」


 誰の顔も見ずにそう言って、香坂は端に置いていた鞄を持ち、スタジオの出口へ一直線。ぽかん、と在原は出て行った扉を見るばかり。


「あーあ、五月ちゃん帰っちゃった」

「え、俺の所為?」

「真澄くんが甘ったるい匂い振りまいてるからじゃない?」


 確かに在原からはバニラのきつい香りがした。ぶんぶんと手を振り、佐田は香りを避ける。ドニは動画を止めて、そのやりとりを見た。


「マコちゃんとまだ別れてないんですか?」

「んー、まだ」

「クズ野郎の発言だね、本当に」

「近々解消する」


 そういう問題ではないことに、この男はいつ気付くのだろう。佐田は大きく溜息を吐いた。






 その香りを嗅いで、そうだ、と思い出した。香坂は階段を下りながら考える。

 どうして在原から荏原からしたバニラの香りがしたのか。在原は荏原のことは知らないと言った。それは嘘で、二人は組んでいたのか。そこに在原のメリットはあるのか。香坂のことを憎む人間は誰か。

 スタジオビルの入口に、見知った姿があった。香坂は今、その姿が見られたことにほっとした。


「棗」

「ども」

「バニラの香水つけてるひとだった」


 何の話だ、と楢は首を傾げる。


「荏原ってひと」

「……もしかして」


 エレベーターが開く音。楢の声が止まる。視線をそちらへ向けた。


「お、楢来たん……」


 在原が気安く声をかけ、エレベーターから出る。それから一緒にいた香坂と目があった。数秒の沈黙が降りた。


「……じゃあね、棗」

「あ、はい」


 その沈黙を破ったのは香坂だった。ビルの自動扉を抜けて、出ていく。

 男二人は後ろ姿を見送るだけ。


「お前、香坂と仲良いの?」

「……いや、普通です」


 仲が良い悪いはどの基準で決まるのか、楢には見当がつかない。少なくとも在原と香坂程ではない。

 香坂が白い顔で『バニラの香水』だと思い出した理由が分かった。確かに在原からマーキングのようにその匂いがした。たまにさせているところを見ると、セフレの女のものなのか。


「名前で呼ばれてる」

「あー、それは」


 どちらで呼べば良いかと尋ねられ、名前の方でと答えた。香坂の、素敵だと言ってくれた名前を。



『棗の花言葉知ってる?』

『知らないです』

『“あなたの存在がわたしの悩みを軽くします“』

『……軽く』

『あとは健康、とか』


 香坂は誰といる時も無理に笑うことは少なかった。無表情で話すので、それが悲しい話なのか楽しい話なのか、傍から見ても分からないことが多い。


『五月さんの悩みは、軽くなりましたか』


 同じく楢も顔を作らず話すことが出来た。尋ねると、香坂は長い睫毛を少し伏せてから答えた。


『あなたが居なかったら、重くなる一方だったよ』



「真澄さんは、五月さんを送りにきたんですか」

「あ、飲み物買いに来たんだった」


 話題を変更されても、嫌な顔ひとつせずに在原は顔を上げた。そういやさ、と言葉を続けながら自販機の方へと歩いていく。楢がついてくる前提の動きだ。

 仕方なく楢はその背中を辿る。


「荏原ってやつさ」

「五月さん、話したんですか」

「……ああ」


 少しの間があり、在原は言葉を返す。楢はそれに対し、暗さを感じ取る。対して在原は楢の油断を見ていた。


「楢、知ってたのか」

「俺のバイト先であったこと、なんで」

「どこまで知ってんの」


 自販機のボタンが押され、がこんと取り出し口にコーヒーが出てくる。自販機の明るさと、その前に立つ在原の影。


「荏原って女に俺のカラオケ店に連れて来られて、襲われかけたとこに、ちょうど俺が入りました」


 入ったのは部屋番号を間違えてフードをドリンクを持ってきたから、なのだが。あれを平常時にやっていたら、面倒だったろう。

 古いカラオケ店なので、ボックス内に防犯カメラがついていない。それもあってあの店が使われたのだと店長も考えていた。香坂のことと無銭飲食の一件があってから、ボックス内にカメラをつけることとなった。

 在原が缶コーヒーを取る気配がせず、楢はそちらを見る。


「襲われたって、誰に」

「え、男さんに……言ってないんですか」


 ふと会話を思い出す。楢は誘導尋問を受けていただけだ。在原本人は何ひとつ、香坂の一件について決定的なことは言っていない。


「は? 三人?」

「……荏原って女、在原さんのセフレですよね。同じ香水だってさっき言ってましたよ」


 双方どちらの質問にも答える気はない。振り向いた在原の表情は見えにくく、楢はそれをじっと見つめた。


「それ、あいつは知ってんの」

「言ってはないですけど」

「俺、今日は帰るわ。上の奴らに言っといて」

「コーヒーは」


 在原は既に楢の横を通り抜けた後だった。振り向いた顔はいつもの表情をしている。「お前飲んで」と言われ、楢はしゃがんでそれを取り出した。

 自動扉の開く音がして、ビルの入口にはもう在原の姿はなかった。










 図書館の端の席に座って、香坂は勉強をしていた。木曜日午後のことだ。ランダムの集まりには行かなかった。

 脚本はもうすぐで完成する。出来たところから、在原のメールに送ることにした。脚本が出来上がったら、香坂が行く必要もないだろう。

 何より、これ以上在原の近くにいることで大きなことに巻き込まれるのは御免だ。大津の忠告をあのとき素直に聞いて、きちんと距離を取っておけば良かったのだ。

 警察沙汰になったと母に知られれば、地元に戻って来いと言われるだろう。それは酷く避けたい。


「香坂」


 とん、と机を軽く叩かれ、見上げた。在原がひらりと掌を晒している。

 香坂が顔に青痣を作った比でない程、左頬が腫れていた。それに目を奪われていると、在原の長い指が外を示した。


「ちょっといい」


 いつもの調子で隣に座ってこないところを見ると、何か重要な話があるのだろう。香坂は頷いて、荷物をまとめた。在原は先に図書館を出ており、出口のすぐ傍にいた。

 そこから歩き、図書館の裏のベンチを前に「座って」と香坂を見る。言われた通り腰をおろすが、在原は立ったままだった。


「話したいことがあんだけど」

「……まず座れば?」


 言われ、はっとしたように香坂の方を向く。


「座っても、良いすか」

「あたしのベンチじゃないですけど、どうぞ」


 在原は一人分空けてベンチに座る。腫れた頬を香坂は観察した。この前と状況は反対だ。

 “話したいこと“が脚本のことでないのは、何となく察した。きっとその頬も、それに関係しているのだろう。


「俺の父親がさ、幼い頃に死んでて」


 ……何の話が始まるのか。




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