vol.10 赤から青に


 地元にいた頃、不良が近くに居すぎた。

 閉鎖されたあの場所で、馬鹿をやって高校を退学した面々が同じような相手と子どもを作って、今もあの場所で暮らしているのだろう。

 煙草の匂いが移ったソファーに腕を押し付けられて、香坂は現実逃避のようにそんなことを思った。あの頃、暴行されなかったのは運であったようにも思うし、これからそうである保障はどこにもない。

 口を塞がれて、男の誰かがスカートの裾から手を入れて、太腿に触れた。

 嫌悪感で身体が震える。誰かが「震えてんじゃん、かわいい」と笑った。


 生きてここから出られたら、と香坂は考えた。

 こいつらを皆、考えられる一番残酷な方法で殺す文章を書いてやる。


 入口に視線を向けると女はもう居なくなっていた。


「結構綺麗な顔してるな」

「さっさとやろうぜ」

「お前もうたってんのかよ」


 男の一人が服の上から香坂の胸を掴む。その痛みに顔を歪める。

 殺してやる、と思う一方、叫び声ひとつ出ないものだな、と冷静に思った。何か奇跡でも起こらない限り、女一人が男三人を振り切って逃げる方法が思いつかない。

 逃げるのか? 殺すのではなく?

 テーブルの上に灰皿があるはずだ。いや、今は禁煙が謳われているから、元々置いてはないのか? マイクスタンドなら重量があるのでは。

 ぐるぐると、思考を巡らせる。

 隣の部屋で男が熱唱する声が響いている。ひと昔前に流行った曲で、テレビでよく紹介されていた。思考がブレる。

 とんとん、と扉を小さく叩く音がした。男たちは夢中で気付いていなかったが、香坂には聞こえた。また男が増えたらどうしようか、と考える。


「失礼します」


 開いたそこに見えたのはカラオケ店の制服を着た男。香坂を拘束していた男たちがその存在に気づき、一斉に入口の方を向いた。


「……は?」


 知った顔だった。通路の灯りにブルーグレーの髪色が照らされる。

 楢棗だ。

 やべえ、と男の一人が言って香坂から離れる。楢はテーブルの上に持っていたお盆を乱雑に置いて、香坂の口を塞いでいた男の胸倉を反射的に掴んだ。

 自由になった香坂がソファーの隅まで離れ、身を縮ませる。

 楢と男が揉み合いになり、その騒ぎに気付いた客がボックス内を覗きこみ、やがて店長がやってきて、驚いた声をあげる。


「え、なになに」


 ぱっと楢がそちらを向いた瞬間を狙い、男がすり抜けて行った。


「無銭飲食!?」

「あと婦女暴行です。それと店長」

「何?」

「これ隣のボックスのでした」


 示したフードとドリンクを見て、店長がなんとも言えない表情をした。

 まず先にそれを持ち、笑顔で隣の部屋に届けた後、店長が再度ボックスに顔を出した。


「……知り合い?」

「部活の、仲間です」


 綺麗な顔と派手な髪色と口下手な性格が相まって、あまり近しい人を寄せ付けない雰囲気のある楢から”仲間”という言葉が出るとは。店長は少しばかり感動する。


「落ち着いたら事務所連れてきてね」

「了解です」


 扉が閉まる。楢は俯き、小さく震える香坂を見下げた。


「……あいつら、知り合いですか?」


 その問いに首を横に振る。泣いているのか、としゃがんでその顔を覗く。


「ランダムの、荏原ってひとに、連れてこられて」


 香坂は泣いてはいなかった。確実に、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。

 青白くなった顔色を楢は何も言わず見ていた。


「そこに……全然知らない」

「ランダムに荏原ってやつ、いないと思います」

「え?」

「男? 女?」


 香坂の視線が漸く楢の方を向いた。光を失っていない、正気の瞳だ。

 女、と返答する。楢は少し考え、香坂から距離を取ってソファーに座る。


「在原が呼んでるからって、声かけられた」

「他に特徴とかは?」


 最初の顔合わせでは全然喋らなかった楢が普通に会話をしている。あの時は他人に自分を紹介させていたのに、とぼんやり思う。


「大学出てすぐ会ったから、同じ大学なのかもしれない。どっかで見たことのある顔だったんだけど……」

「何か言われたとか」

「『調子に乗ってるから』って、言われた」


 まだ腕を掴まれた感覚が残っている。長袖を捲ってみれば、赤く痣がある。それを楢も見ていた。


「とりあえず事務所行きましょう。警察くると思うし」

「……無銭飲食だけで、いい。あたしのことは」

「いや……」


 その痣は明日には青くなり、数日香坂の身体に残るだろう。間に入った楢でさえ、扉を開けたときの衝撃を忘れられないだろう。


「婦女暴行って、よく知ってたね」


 無理やり笑った香坂の口端が歪んでいた。


「……俺、五月さんと同じ大学の法学部なんで」

「そうだったの? 気付かなかった」


 同じく楢も香坂を見つけることはあるが、大体は隣に在原がいた。あの男も大概、目立つ人間だ。

 テーブルの上に灰皿はあった。しかし、想像したガラスの重たい灰皿ではなく、黒い軽い灰皿だ。


 香坂の左目の下に赤い内出血が見えた。とりあえず、ここのボックスを占拠しているわけにもいかないので、香坂を連れて事務所へ行った。

 冷たいパイプ椅子に、冷たい長机が置かれている。


「顔、殴られました?」

「いや、顔掴まれたときにぶつかった」

「それは殆ど殴られたっつーんですよ」


 顔の筋肉を動かすとびりびりと痛んだ。

 それでも無理やり、香坂は笑った。








 予想通り、香坂の痣は全て青くなった。

 顔の内出血は特に目立ち、すれ違う他人の目が向いているのに気付いては、俯いた。


「何したらそんな傷ができるの」


 大津がわなわなと震えながら、手を口元に寄せる。


「……酔って、電柱にぶつかって」

「かわいい顔が!」

「たいへん、申し訳ない」

「もー! 気をつけないと」


 なんと返すのが正しいのか分からず、香坂は謎の返答をした。それを深く受け取らない大津に感謝する。

 顔の筋肉を動かすと痛いのにも慣れ、漸く食べ物をゆっくり食べることが出来るようになった。弁当箱に詰めたオムライスを少しずつ食べていく。


「やばい、砥部教授のレポート出した?」

「昨日出したよ。今日の14時までじゃなかった?」

「忘れてた! 出してくる!」


 通常運転の大津に、日常を感じる。香坂はそれに安堵と救済を思った。

 その後、特に大きな事件は無かった。荏原という女が香坂の前に現れることも、あの男三人が捕まったとも聞かなかった。

 楢のことは、何度か大学で姿を見た。


「五月ちゃん、今日の昼飯なに?」


 すとんと右隣に座る気配。ふらりとやって来て在原が昼食を一緒にすることも、珍しいことではなくなってきた。

 大津は相も変わらず吠えているけれど。


「オムライ……」


 言い終えず、怪訝に感じた香坂が在原の方を見る。同時に顎を掴まれ、右側をぐいっと向かされる。傷を覗かれた。


「……酔ってぶつけたの、電柱に」

「これ、指の痕じゃね?」


 在原は釈然としない顔のまま、香坂の顔に自分の手を合わせようとした。それからばっと顔をひく。


「さわら、ないで」


 弁当ごと、在原から離れた。その拒絶に違和感を覚える。


「何か、」

「在原って、荏原さんって友達いる?」


 言葉を遮られ、尋ねられる。初めて名前を呼ばれたことと、その質問に眉を顰めた。


「いねえ、と思うけど。なんで?」

「この前話しかけられたから」

「なんて」

「あなたがあたしのこと探してるって……」


 香坂は在原の方を見ずに言った。視線はオムライスに向かっており、在原はじっと横顔を見ていた。

 「それで?」とその続きを促す。


「……話しかけられただけ。少し待っても来ないから、帰った」

「それはそれでどうなんだよ」

「居ないなら、良いんだけど」


 しかし、在原が思う以上に顔を知られているのでその意見はそこまで当てにはならないだろうと香坂は踏んだ。

 それから大津がテーブルに戻ってくるまで、香坂は在原の方を向くことは無かった。



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