vol.9 お間違えなく


 バニラの香りがする。香坂は少し視線を後ろへと向けた。すれ違った人から香ったのだろうか。

 広い大学だ。香水をつけている人間がいても可笑しいことは何もない。


「五月ちゃん、これありがと」


 突然正面から声をかけられ、前を向く。目の前に在原がいた。プリントの束を差し出してくる。

 それを反射的に受け取った。元々、香坂が渡したものだった。


「どうでしたか?」

「合格点。記念に欲しい、くれ」

「どうぞ」


 軽々と脚本は返還された。まじかよ、と戻った束を見て在原は複雑な顔をする。

 香坂としては原本は持っているので、紙として必要ではない。

 しかしこれは練習だ。これから三月に行われる学生映画コンクールに出す脚本を書く。


「とりあえず何本か書いてみる」

「よろしく、ハッピーエンド」

「……善処します」


 いつしかの言葉はどこへやら。香坂は自分が幸せな結末、皆大団円な最後を書ける自信が萎んでいた。確かに、読む小説の最後に納得いかないことは偶にある。しかしそれが、幸せな最後じゃなかったから、ということは一度もなかったように思う。

 歯切れの悪い返答に在原は小さく肩を竦める。固より出来ないことを無理やり求めることはしない。


「楽しみにしてる」


 出来る、という確信と期待。それを香坂に背負わせる。

 その重みに、香坂は小さく笑った。







 大津の次に登録されたのは佐田とドニの連絡先。ランダムの制作陣、演者たち。バイト先。


「この前より人数減ってます……?」

「五月ちゃんが来た日は結構多い方かな。演者たちはそれぞれ予定立てて練習したりしてるの、木曜日は現在の進行状況とかの確認が主だから、来ない人も多くて。反対に裏方は集まらないと始まんないこと多いから、木曜日中心に活動って感じ」


 佐田の説明に頷く。ドニが近くでカメラを弄っている。


「ちなみに全ての始まりは脚本だから、何をやるのか決まらないとうちら無職」

「……鋭意製作中です」

「月末までには頑張れー」


 軽い頑張れに重くなる心。書くものの系統は大体決まっており、まさに鋭意製作中。

 ノートPCを常に持ち歩き、今も文字を打っている。人のいる場所では集中できないので、誤字脱字チェック中。


「香坂、これさ」


 在原が紙を持ってくる。するりと佐田が香坂の隣からドニの方へと移動した。


「こっからこの場面に移るときの、この場面って必要?」

「この会話が必要」

「前後に入れてほしい」

「理由」

「展開が弛れる。小説だと良いかもしんねえけど、映像になると少し鬱陶しい」


 きちんとした理由とはっきりとした物言い。こういう面において、在原の手の抜かないところが香坂にとって美点だ。

 少し考え、前後の場面を見る。


「前に入れ直してみる」

「ありがとうございます」

「他には?」

「ここの解釈……」


 二人が話しているのを見て、佐田はドニへと話しかける。


「なんかやっと真澄くんに相棒が出来たよね」

「相棒?」

「心の友みたいな。ここ立ち上げたのも真澄くんだし、皆を集めたのも真澄くんだし。そりゃ意志は映画を作るって方を向いてるけどさ、エネルギーが全然違うじゃん」


 ドニは香坂と在原の方へカメラを向けた。静かにシャッターをきる。二人は全然気付いていない。

 確かに、在原にはエネルギーと演出する才能と人を巻き込んでいく能力があった。それはここにいる誰よりも、だ。


「そうですね、もしかしたら真澄くんという船に皆乗っかってるだけなのかも」

「ちょっとそれあるよね。でも五月ちゃんはさ、乗っかるというより並走してる感じ?」


 聞くからに、小説を書いていたというのだから、別に映画の脚本を書きたかったわけでもないのだろう。それを在原に連れてこさせられて書いている。

 その分だけ、エネルギーは在原と同等かそれ以上か。二人がたまに言い合っているのを見ると、そう感じずにはいられない。


「真澄くん、去年泣いてましたもんね」

「あ、知ってた? 演出賞取って嬉しくて泣いてるのかと思ったら」

「悔しくて泣いてたんですよね」


 二人して苦笑する。あれからもう一年が経とうとしている。

 今年どうなるのかは現時点では分からないが、良くなっても悪くなっても受け入れるしかないのだろう。ここをガラクタ箱にしない為には、磨くなり気に入られるなりしないといけない。

 ドニは写真におさまった二人を見る。いつしか、どこかへ羽ばたく二人だ。








 スケジュールは、かなりタイトだった。香坂は何本か書いたそれを読み直す。スマホのフリックも結構上達して、タイピングミスに苛々することは少なくなった。

 授業が終わり、家に帰ってバイトまでの間何かを食べようかと考えながら大学を出たところだった。

 駅までの大通りには学生もいれば一般人もいる。ふと目の前に現れた女性が足を止めた。


「香坂さん」


 急に話しかけられ、香坂は驚いて足を止める。名前を呼ばれたということは、知人なのか。

 香坂は自分の顔がそこまで広くないと自覚しているので、名前を知られているというだけで足を止める理由にはなった。しかし、全然名前が出てこない。


「私、ランダムの荏原。この前の木曜いたんだけど」


 にこり、と作られる笑顔。どこかで見たことのある顔だとは思っていた。派手なメイクに、演者の中にいたのだろうと見当をつける。香坂はそれに愛想笑いを浮かべる。


「ああ、どうも」

「さっきね、ますみが香坂さんのこと見かけたら教えてほしいって言ってて」


 そういうことか、と香坂は納得した。それなら確かに、よく顔を思い出せもしない相手から呼び止められることも有るだろう。


「どこに……」

「あ、今友達に捕まってるみたい。そうだ、ますみが来るまで私と時間潰してくれる?」


 ランダムのメンバーの殆どは在原を真澄と呼ぶ人間が多い。高校の時は名前で呼ばれることが多かったのだろう。

 初対面の相手と時間を潰すのは言わずもがな苦手な香坂だったが、ランダムのメンバーで女性ならまあ良いかと、それを了承した。





 駅裏にあったカラオケチェーン。まさか初対面の女性と二人で歌うのか、と香坂は足を入口で一旦止めた。


「あたし、歌下手なんで……」

「いや歌わなくて良いよ! 香坂さんのこともっと知りたいっていう仲間がいてね、紹介したくって」


 仲間というのは演者仲間だろうか。香坂の脳味噌は空欄を埋める。

 歌わなくて良いという言葉に安堵して、足が動く。荏原の背中を追って、エレベーターに乗った。

 ついた二階で降りて、ひとつの部屋の前に立つ。荏原が香坂の背中に手を回し、「皆待ってるよ」と言った。


 ふわりとバニラが香った。


 途端、腹の底を嫌な感じがぞわりとなぞった。

 足が止まる。しかし、扉は開き、荏原が香坂の背中を押した。


 中に待っていたのは一人も知った顔はいない。若い男三人。香坂は身の危険を察知して後退しようとした。その前にその内の一人に腕を掴まれて、ボックスの椅子の近くまで引っ張られる。

 顔だけ入口の方を向ければ、荏原は冷たい視線を香坂へ向けていた。


「調子に乗ってるからじゃん」


 ただ一言、そう言った。







 今月から学割キャンペーンが始まり、ただでさえ忙しい昼から夕方の時間帯に大学生や高校生の客が増えた。某カラオケ店で調理バイトをしている楢は、忙しさに苛つきながら盛り付けをしていた。

 バイトの人数が減ると仕方なくフロントに出ることもあるが、殆ど調理室から外に出ることはない。以前バイトをしていたファミレスでホールをしていたら、楢の顔が良いと女子高生たちが集まったことがあった。それが少しトラウマで、家を出ると大抵マスクを着けて過ごしている。

 そして忙しくなった今、受付に列を捌くフロントが動くことは出来ず、店長も清掃に向かっている為、楢が料理とドリンクを運ばなければならなくなった。憂鬱さに溜息を零さずにいられず、お盆を持って通路を歩く。

 きちんと部屋番号を確認せずに、ボックスの扉をノックする。返事がないのはいつものことなので、「失礼します」と言いながら扉を押す。

 確かに歌声は聞こえなかった。そして、お盆の上にぺらりと置いた伝票の番号とこの部屋の番号が違っていることに気付いてしまった。


 そして、ソファーの上に押し倒されて口を塞がれた香坂と目があったのも、同時だった。



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